重層的非決定?

« 「ヒトラー」を知らないということ | メイン | 変わらない夢を求めて »

2008年12月16日

■ 「微風」と「さよならさえ言えぬまま」

曲の本質は詞自体にはない。作詞についてのみ云々するのは真っ当な音楽批評とは言えない。しかし今回はそれをやってみようと思う。だから今回の批評は曲そのものの評価とはまた違ったものとなるだろう。それでも作詞は曲制作の重要な一側面を構成することには相違ない。

今回批評するのは安倍なつみ最新シングルのカップリング曲「さよならさえ言えぬまま」とベストアルバム収録曲「微風」の二曲である。

いずれも「失恋」をテーマにした私小説的な歌詞となっている。

「さよならさえ言えぬまま」。こちらはつんく作詞。表題曲「スクリーン」の続きの恋を歌った、という「ネタ」がついている。はっきり言ってこの「ネタ」は不要だ。くだらないと思う。曲は一曲一曲独立したものとして聞かせるべきだ。続き物というだけの連続性も特になく、単にどちらも「恋」をテーマにしたというだけの共通点で、「続き」などと「ネタ」にする。安直としか言いようがない。

「ネタ」はさておき、問題は詩自体である。

詩は全体として終わった恋を一人で悶々と回想するというシチュエーションとなっている。このシチュエーション自体が観念的な世界を構成してしまって、失恋の曲としての深みを損なうように思う。

初恋のように はしゃいでいたわ

終わった今むなしくて Ah

・・・

青空をながめながら 今

何がいけなかったのか 問う

いったい失恋してからどのぐらい後の状況を歌った歌なのだろう。失恋という結果を受けて「むなしい」とか「何がいけなかったのか」と自省するのはすでに状況をかなり客観視できているからだ。すでに恋の終わりを理性的に対処できる状況にある人物の心理、若い女性の失恋の歌と言うよりも初老のおっさんの青春回顧録みたいな状況じゃないか。特に恋の終わりの歌で「むなしい」はないだろう。終わってしまった恋なのに、まだその恋が愛しくて仕方がない、そういう状況がこの手のシーンの見せ所であろうに。

買い物したり お料理を覚えたり

今までに無い 私に出会ったの

・・・

たまの休みは いろいろ歩いたね

今思ったら ままごとだったかな

練れてないなあ、と思う。「買い物」とか「お料理」とか、「今までに無い私」のエピソードとしてはあまりにも皮相すぎる。買い物ぐらいするでしょう。「今までに無い」様を示すのならもっと具体的に表現してくれなくては何もイメージができない。

たとえば昨年のシングルのカップリングに「小説の中の二人」という曲があって、買い物シーンにこのような描写がある。

ドライフラワー ローズマリーの香り

一日かけて探したラグマット

私はずっと 二人で好きだったもの

好きでいるわ いつまでも

二人で部屋に置く「ラグマット」をあれこれ物色している様がきちんと想像できる。だからその直後のフレーズ「二人で好きだったもの・・・」が生きてくるのだ。

同所の二番に相当する歌詞もいけない。「いろいろ歩いた」のが「ままごと」と言われてもこれまた一般的すぎて明確なイメージを描けない。

たとえば一番と二番の組み合わせを入れ替えてみてもこの歌詞は成立する。

たまの休みは いろいろ歩いたね

今までに無い 私に出会ったの

・・・

買い物したり お料理を覚えたり

今思ったら ままごとだったかな

むしろこちらの方が据わりがいいのでは、とさえ思えてくる。「いろいろ出歩く」ことはしない女性が出歩くようになったというのは「買い物」をすることよりは「今までに無い」感じがするし、「お料理」という言葉は「ままごと」と親和性が高い。

要するに言葉の置き方に絶対性・必然性がまるで感じられないのだ。それは繰り返すが、言葉の選択が一般的・抽象的にすぎるからだ。

一方の「微風」。こちらは先の「小説の中の二人」作詞の久保田洋司と西村ちさとの二人がクレジットに名を連ねる。

こちらはまさに二人が「別れる」その瞬間を描いた詩。ちなみに「小説の中の二人」の方は「さよならさえ言えぬまま」と同じく終わった恋を一人で振り返る状況の詩。しかしいずれも「恋」は未だに主人公の中では現在進行形で続いている。過去のものとしては描かれていない。だからその時々に揺れる心境をリアルに描くことができるのだ。

輝いてた季節の中

変わらないと信じた

鮮やかな時を見送って

微笑み交わした

最後のそのときに「微笑み」を交わすのだ。「むなしい」とのこの差。終わった恋を描いた詩だからネガティブな言葉を連ねた「さよならさえ」とそこにあえてポジティブな言葉を織り交ぜる「微風」、失恋の悲しさの表現としてどちらがより上手いかは言うまでもない。

私たちは同じだった

同じ空を見ていた

舞い落ちる満開の花も

同じように見えていた

わずか四行の中に恋が終わっていく心の動きが見事に表現されている。

最初は「同じだった」。恋する二人の絶対的な同一性が確信されている。しかしその確信は二行目にすでに揺らいでいる。なぜなら二行目はその確信の根拠を求めているからだ。絶対的なものには根拠はいらない。それが揺らぎを見せたとき、人は根拠を求めるのだ。「同じ光景を見ていたじゃない」、そこにはかつては疑う余地もなかった同一性の再確認を行っている様が描かれているのだ。

そして四行目。「見ていた」から「見えていた」への言葉の変化。自発形を使うことで、二人の意志の存在が薄れていく。二人を「同じ」にしているのはもはや二人の内面的な絆ではなく、物理的に同じ空間にいて、同じ景色を見ていたという外的な状況なのだ。相手が私と同じようにその満開の花を「見ていた」確信もすでに無く、ただそこには確かに二人が見ることができた満開の花があった、それが二人を結びつける絆となる。

ここに描かれているのは別れの予感が漂う中、満開の花を見ながらの一瞬の心の動きである。二人で寄り添って満開の花を眺めている、この幸せいっぱいに見える状況の中に別れの伏線が描かれているのだ。

この「微風」という曲は、あたかも短編映画を見ているように、登場人物の「顔」が見え、二人のいる世界が具体的に浮かび上がってくるようになっているのだ。

抽象的な状況設定、言葉の選択を行うというのは、要するにどのように言葉を配置しても大きな矛盾を来さない、という意味において(「さよならさえ・・・」で一番と二番を入れ替えても詞として成立したことを思いだそう)、楽なのだ。「さよならさえ・・・」はその意味で、言葉をぎりぎりまで選別し、格闘した痕跡が見えてこない。確固たる世界観を構築せずに、ありきたりの言葉を羅列しただけに見えてしまう。この手の安直な作詞方法の極端な帰結は4年前にいやというほど見せつけられた。

将来作詞を志すメンバーがいるとすれば、それをこの詞を書いたつんくに学んではいけない。

投稿者 althusser : 2008年12月16日 12:48

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://macmini/cgi-bin/blog/althusser-tb.cgi/956

コメント

非常に興味深い考察だと思いました。
確かに、「さよならさえ言えぬまま」は、非常にこゆいメロディに誤魔化されて、如何にも男女の別れの時に伴う「切なさ」を表現しているように感じてしまうのですが、歌詞だけに注目して見てみますと、やはりかなり抽象的な表現であり、歌詞だけを見ても容易にイメージが浮かんで来ない…という感じはしますね。

まぁ、つんく♂さんの曲作りもクオリティにムラがあって、今回の詞に関しては、彼の悪い部分が表れているのかもしれませんが、その一方で他作家では到底思いつかないであろう、素晴らしい言葉を生み出すこともございますので(だから今まで、彼が作り出す作品をずっと愛聴してきたわけですから…)
今後の彼の作品にも、引き続き期待は持ちたいと、私は思っております。

投稿者 高橋順也 : 2008年12月16日 23:49

高橋順也さんと同じような感想を持ちました。ただ、そんな歌詞であっても、想像力と表現力でもって聞かせてくれる安倍さんはすごいものだ、と改めて思います。来年以降の活躍も楽しみですね。

投稿者 電脳丸三郎太 : 2008年12月17日 00:30

高橋順也さん、コメントありがとうございます。
 確かにこのエントリではつんく♂さんの全否定にしか読めませんね。あくまで「この詞を書いた」つんく♂は駄目だ(別のつんく♂はOK)というトリッキーな表現のつもりだったのですが、トリッキーすぎて伝わりません(苦笑)。彼には「空 Life Goes On」という曲(とその歌詞)を生み出したという絶対的な記憶がありますから、全否定してはいけませんね。まあ今回は忙しかったのと、カップリングということとで、この仕上がりとなったのでしょう。
 とりあえずモーニング娘。新曲には大いに期待しています。

投稿者 はたの : 2008年12月17日 01:07

電脳丸三郎太さん、コメントありがとうございます。
 安倍さんもこの曲のさびのメロディはとてもお好きなようですし、またライブでも披露したいといっていたので、大いに期待したいところです。
 とりあえず私は浜松で聴けると思います、わはは。

投稿者 はたの : 2008年12月17日 01:17