重層的非決定?

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2008年12月16日

■ 「ヒトラー」を知らないということ

onoyaさんのエントリ、アイドルがバカであることについてについて。

ちょっとだけ紛糾しているみたいだけれど、私はこのエントリの本筋にはさして違和感はなかった。全く余所道のところ、

ぼくは先日も書きましたが、歴史は単純に何でも相対化できるとは考えていないし、すべきではない、という倫理観です(どうも誤読されていそうですが)。

を除いて。

ここは申し訳ないけれど、誤読はしていないと思う。

たとえば幼児に対して性的虐待をした男がいたとして、「彼を偉いと記述できる可能性があるが、しかし私はそれはすべきでないと考える」、などという文章は真っ当な文章だろうか、ということを考えてみよう。

世のあらゆる事象について、妥当性をさておけば、「可能性」としては肯定的に評価を下すことが出来る。それはまさに「あらゆる事象」に対して可能であるが故に、無意味である。逆に言えばその可能性にわざわざ言及することは、その記述自体は「無意味」ではない、ということを含意していることになる。つまりその「可能性」にはわざわざ言及するだけのポジティブな価値を含んでいると言ってしまっているのだ。いかにそれを「私」が結果的に否定しようとも。

この点は私にとっては些末ではない本質的な話なのだが、たぶん多くの読者にとっても些末でしかないと思うので、これ以上の突っ込みは辞めておく。

で、本筋。

何らかの人間的「欠陥」「欠如」がその人物に対する愛着を深める。この論法はそれほど妙なものだとは私は思わない。というより、ものすごくあり得べき状況を記述しているように思える。そして「アイドルにおけるその欠如が、『一般教養・知識がないという意味でのバカ』である必要は、確かにない」というのも、まさにその通り、と思う。

一方で、その欠如が、「一般教養・知識がないという意味でのバカ」であっても構わない、というのもまた私は肯定できる。そしてこうした価値観は必ずしも「女性アイドル」にだけ向けられるものでもないように思う。「大人(たいじん)」は時として「一般人」からするとあきれさせられるような非常識なエピソードを持っているものだ。そしてそうである人物ほど、偉人でありながら多くの人に愛着を持って、いわばアイドル的な共感を持って、語られたりするのだ。ということでonoyaさんのアイドル欠如論はアイドルの持つ価値の一側面を正しく切り出しているように思う。

では今回の「ヒトラー」問題はそうしたほほえましいエピソードの一つとして考えて良いのだろうか、となると私は全くそうは思わない。私の考える(テレビ局側ではなく)アイドル側から見たこの問題の中心は放送界の常識とか、一般常識とか、そういうものが欠如していた、ということではない。ということでここからはonoyaさんのエントリとは無関係の、私から見た今回の問題の本質について。


「アイドル」であれ、「一般人」であれ、人は様々な情報に触れ、一部を記憶にとどめ、多くを忘却する。愛すべき「欠陥」「欠如」とはそのバランスが「一般人」とは違っていることによって形成される。駅での切符の買い方すら知らずに芸に打ち込む女優、切符の買い方を知らないという「欠如」は芸に打ち込むということを優先した結果として作り出される。そうした優先順位付けについて、「一般人」とは異なったものを持ちながら、「一般人」とは違う才覚を発揮すればこそ、敬意を持った愛着心を人に呼び覚ますのだ。

問題はこうした優先順位付けをいかに行うか、である。そしてそれはその人物のおかれた様々な環境によって左右されるのであるが、結局のところ第三者的にはそれはその人物に所属するものとしての価値観によるものと映じることになる。

「ヒトラー」を知らない、ということと、例えば「カバー」のスペルを「cober」だと思う、ということ、これは「常識」知らずということで価値的に等価だろうか。

英語の綴りを知らない、簡単な漢字が読み書きできない、そこで低い優先順位付けをされ、結果として切り捨てられたものは学校的知識である。「ヒトラー」も同じだろうか。

同じだと考える人ももちろんいるだろう。しかし少なくとも私はそうは考えない。「ヒトラー」という名には様々なエピソード・知識が付随している。小中学生的には「アンネの日記」かも知れない。(ちょっと古いが)「アドルフに告ぐ」かも知れない。日本の戦争体験とともに語られた知識かも知れない。

いずれにせよ、そのエピソード・知識には多数の人間の生死・命運を左右した事柄が含まれている。そうしたエピソード・知識の総体を、単なる数ある学校的・歴史的知識の一つとして、それと同等の(低い)優先順位付けをしてしまうその価値観、あるいは感性は「表現者」として私は致命的だと思う。

その情報を、優先順位付けする以前にそもそも本当に触れる機会がなかった、という可能性はあるが、それは私にとって、今回のケースにおいては「キッズオーディション」なる青田買いオーディションの問題点を浮かび上がらせるだけのことだ。それは何ら当該タレントを救済してはくれない。

そして私が、高橋愛がヒトラーを知らなかったら失望する、というのはこういうことだ。この失望は、だから、絶大なものである。私は直ちに彼女を「推しメン」とすることを止めるだろう。

もちろん今回のメンバーとは年齢が違う。私の感覚ではいかに中学生でもあまり擁護は出来ないのだが、それでも多少は考慮の余地はある。だからせめて今回のことはメンバー全員に大いに恥じて欲しいし、そうした感性をもし持っていないとすれば、もはや私には「表現者」として救いようのない存在であるというしかなくなるのだ。

投稿者 althusser : 2008年12月16日 01:49

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