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2008年11月20日
■ ストーカー的欲望をネタにするということ
トゥーランドットDVDが届いているが、しばらくは見る時間はとれなさそう。そのほかにも購入品記録がたまっているが、モチベーションも上がらない。
しばらくは結構暇だったのだが、あれこれいろいろ仕事が入ってきた。暇なときにやりだめる、ということが性格的にも、仕事の体制的にも難しい。うまくいかない。仕事のモチベーションもいまいち上がらない。
加えてこちらでもいろいろ宿題を残している。こちらは昨日は結構モチベーションも上がったのだが、なんだか突然いろいろめんどくさくなってきた。昨日の寝不足に突然の寒さで体力が消耗しているのかもしれない。
とりあえずこちらの宿題についてつらつら考えていること。
言説生産の責任についての二層構造。
一般的な言説生産者としての責任。「表現の自由」の重要性。言説批判は言説によって、内在的になされなければならない。しかし言説生産による影響が、言説外部にまで明確に及び、それが特定の人々に迷惑をかけ、あるいは毀傷する可能性を有しているならば、外在的な力も必要となる場合もあるだろう。ただしその行使は最大限慎重になされなければならない。
ファンたる立場における言説生産者としての責任。言及対象の「ファン」であると自認してなされる言説生産は上記一般的言説生産とは違った姿勢が求められるだろう。それはたとえば「ファン倫理」といってもいいかもしれない。この水準での批判は徹頭徹尾内在的なものでなければならない。
前のエントリの件は、私は元言説を当初一般的な言説生産の責任においてすら問題のあることだと判断した。しかしそれは誤読に基づくものだった。
その後改めて情報を読み直した結果、元言説はファンたる立場としての問題であったと認識を改めた。「私だったら絶対に書かない」。「私がアンテナを張っているサイトさんにこの手の記事があがったら私は即座にアンテナからはずす」。そういう問題のある言説だとはいまでも思っている。ただ情報自体の削除を求める類の反応をするのには明らかに飛躍があった。そしてその飛躍はあまりにも危険な飛躍であった。そのことは深く反省している。
そして改めてファンとしての立場において件の言説を考えてみる。
ハロプロメンバーの名字とその出身が一致した借家物件に関する情報をネットから探り当て、そこにファンサイトからリンクを張る。元情報はあくまで不動産情報としてのコンテキストで掲載されている情報である。それをファンサイトから貼るだけで、その情報の持つ意味は変質するだろう。メンバー本人の実家と何らかの関係のある情報なのではないか。そういう「期待」を抱くものが現れる可能性がある。そしてそこからさらに具体的な行動を起こすものが現れる可能性がある。そしてそれが何らかの迷惑行為につながる可能性がある。
ただその可能性はそれほど蓋然性の高いものだろうか。それはそうだとは思わない。だからこそ私は一般的な言説生産の立場としてなら、問題があるとはいえない、と判断した。
しかしその情報を見たものに「ストーカー」的な欲望を喚起させかねない情報を掲載する、それは「ファンの立場」からすれば何とも受け入れがたい。それが仮に純粋にネタとして昇華しうるようなものであったとしても、果たして「欲望」まで昇華してくれるだろうか。
まずは本当にその情報は純粋なネタだったのだろうか、という問題がある。そこが私には未だに判断できない。そしてその情報を見たものは同様にネタだとすぐに判断できたのだろうか。わからない。
それでは仮に本当にばかばかしいまでのネタであったとしたら、私の不快感は大幅に下がっただろうか。たとえばこんなネタ。安倍晋三氏が首相だったときに、ハロプロ関連の言説空間で「安倍の現住所判明!」という書き込みがなされたとしよう。そしてその中身を見てみると首相官邸の住所が書かれている。
馬鹿馬鹿しく、誰もがネタと判断できる内容である。確かに他愛なく、何の問題もない。むしろ意図としてはストーカー的欲望を持つものをからかっているのかもしれない。しかしそれでも私は少なからず不快に感じるだろうと思うのだ。
それはそういうネタが成立すること自体が読者である「私」たちに向かって、「君はストーカー的な情報に興味があるだろう」と呼びかけていることになるからだ。欲望は最初からあるとは限らない。むしろそうした呼びかけに応えることによって醸成されるものだといってもいい。いかに完全なネタであれ、そうした呼びかけを含み込んだ言説を私は笑えない。
「私」たちハロプロファンは傷を抱えているはずなのだ。ストーカーなるものの存在、そしてそこからの情報をネットで広めまくった言説生産者たち、そうした言説空間を維持し、その状況を止められなかった私たちすべて、その結果として私たちは一人のメンバーを失った。私はそのことは決して忘れない。
そしてそうであればこそ、「私」たちは具体的なストーカーの存在だけでなく、ストーカー情報を拡散させるような言説空間を拒絶しなければならない。しかし私はさらに、そうしたストーカー的欲望を軽々にネタとして扱うこと自体にももっと慎重であらねばならないと思うのだ。ストーカー的欲望はおそらく悲しいまでに「ファン」の心の中に潜んでしまっている。私たちはそれを本当にネタとして昇華できるのだろうか。少なくとも今現状では2chなどという場ではネタもすべて「マジヲタ」(本当にそのタレントを好きなファン)を「釣る」ための道具として使われているのが現状ではないのか。そうして不当なプライベートの暴露をおそれるファンの心性を逆なでにする効果しか現状もたらしてはいないのではないか。
私はストーカーをネタにしたギャグには笑えない。笑い飛ばすにはまだまだ私たちの抱えているものは多すぎる。
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