重層的非決定?

« 不愉快な話 | メイン | グロ言説 »

2008年10月21日

■ 道重ぞうさん

私がこれまでブログ界隈で見た中でも相当いっちゃってる発言がドンドンあふれてくるんだけれど、例えば・・・。

本質

>高橋推しという部分に拘泥する姿勢

>妙なフィルター


高橋推し云々を抜きにして、公平に言って、道重さゆみを誹謗中傷したことそれ自体についてはどう考えているのですか?

自分から「高橋推し云々」で話をこじらせておいて、なんで勝手に「抜きに」して話を進められるんだ?手前の尻ぐらい手前で拭けよ。「公平」も何も自分の主張を一方的に反復しているだけだし。彼にもし同伴者がいるのなら、誰か何か言ってやれよ、と思う。この人物のやっていることによって結果として「道重発言」問題が反復され、「陰惨な構図」が反復されていっているわけだよ。

少し話を変える。

一般論として、私が普段から思っていることなんだけれど、「論争」とか「議論」なんてものは当事者間の落としどころとかはいらない。言いっぱなしでいいんだよ。異なる立場で異なることを言っている人は各々の背景やら論理やらを背負ってそういうことを言っているわけで、まっとうな論争であればあるほど、一方が一方的に「なるほど!」と思うことなんてない。

重要なのは読者だ。といっても読者が「勝者」を決めるとかそういうことではない。ただ読者は各々の主張を読んで、各々自分で考え、ときに言説構築の一端を担う。それこそが論争の持つ言説効果だ。AとBという意見が対立しているときに、Aを一方的に正しいと思う人もいれば、Bを一方的に正しいと思う人もいるだろう、さらにはAが正しいと思っていたけれど、Bの主張を読んで、考えを少し(あるいは全面的に)変える人も出てくるかもしれない。そういう様々な反応全体が論争のもたらす効果なのだ。

という前振りでそもそもの発端となったハッチマン氏の「道重造反」なるエントリに突っ込みを入れてみる。あまりに非生産的となったこの件に関する言説(ほとんど一人が悪いのだが)を少しまともなものに修正しておきたいと思ったからである。

今から私のやることはいわば「後出しじゃんけん」である。ただ私はハッチマン氏を論難したいわけではなく、ただ少しものの見方をずらしてみたいのだ。

もともとの道重発言とは、今年の夏にモーニング娘。主演で行われたミュージカル「シンデレラ」において自らに割り振られた役割(台詞がほとんどない。特に同期二人とくらべて)に納得がいかず、その間の一期間、少しふてくされる態度を家族に対してとったことがあった、と述べたものである。

さしあたり論点は2点ある。自らの役所を不服としてふてくされるような考えを持ったことの是非、そしてそれをラジオで告白したときの語り・表現の是非である。

前者についてはそれほど問題ではないように思う。いいわけがない、ということだ。不服に思う暇があったら、少しでも追いつき、追い越せるように努力せよ。しかしそうはならなかった。それはある意味仕方がない(そこまで聖人君主なんて世の中にはなかなかいない)。ただ後からでもそれを反省し、今後の糧とすることだ。そしてこの結論は私の結論でもなく、一般論でもなく、道重さゆみ自身の結論であった。ただそのことがはっきりしたのはこの発言がネットで取りざたされた後で放送されたラジオ番組で、再度この件に道重さゆみ自身が触れたときである。

それではそれ以前はどう理解されていたのか。つまり先に二つの論点のうちの後者、最初ラジオでそのことを告白したときの語りがどう表現されていたか、が問題となった。件のエントリにかかわらず、この発言を肯定的に受け取らなかった人の解釈ではおそらく道重さゆみは不本意な役所しかもらえないという現状をどこかしら他責的に考えているのではないか、という疑いをもたれたことにあったのだろう。自分はそのとき不幸な状況にあった、そういう感情が先走っているように解釈されてしまったことがあったように思う。

それは端的に解釈の過ちであったかも知れず、あるいは表現のつたなさであったかもしれず、あるいは道重さゆみ自身の心の中にそういう部分があったからかもしれない。それは私にはわからない。

ただ問題はそれでもって道重さゆみは努力を怠り、「辛い部分に目を瞑って」いたのか、という点にある。

それは一般論として一ファン・一観客にわかることではない。ただプロの世界であるならば、結果として表れてこない努力は無と見なされるのも、厳しいことであるが、ある意味やむを得ないことだ。だから道重さゆみのパフォーマンスを見て努力を怠っているかのごとく批評されても、それは一定甘受せざるを得ないと私は思う。

ただ、それでも私は待ってほしかったのだ。確かに現在でも絶対的なパフォーマンススキルは高橋愛や新垣里沙、亀井絵里、田中れいなには劣ると思う。でも「努力」という点で見るならば、パフォーマンスで見るにしても重要なのはその成長だ。そして春ツアーと比較して、夏ミュージカルを経て今行われている秋ツアーの道重さゆみは、私は確かに成長しているように思った。その実際にパフォーマンスを見た印象によって、私は道重さゆみが不平ばかり言って、「辛い部分に目を瞑って」いたということはなかったと言いたい。

見たからそういえる、というのはある意味ずるいことだ。でもファンであるならば、何かしらの形でミュージカルを経た後のパフォーマンスを見てから、評価しても良かったのではないかと私は思う。それが私のハッチマン氏に対する「批判」である。

後、道重さゆみの「今後」について。この件から派生していろいろな人がいろいろなことを言っていて、何となく大勢は才能のない歌・踊りに拘泥せずに、別のところで勝負しろ、という話になっているように見えるけれど、私個人としては断固反対。ドンキホーテといわれようが、断固歌・踊りで高橋愛に立ち向かう。それこそがアイドルパフォーマンスグループモーニング娘。に在籍しているメンバーの誇りであり、価値だと私は思う。そうやって必死に「本業」に取り組んでいるメンバーなればこそ、「おバカ」発言も笑えるのだし、お笑い芸人には遠く及ばないちょっとだけ気の利いた「レス」でも評価してもらえるはずなのだ。そういう意味では道重さゆみが役の少なさを明確に悔しがって見せたその姿勢は私はもっと評価して良いと思っている。

投稿者 althusser : 2008年10月21日 18:18

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://macmini/cgi-bin/blog/althusser-tb.cgi/897

コメント

一番痛い部分を突かれておりますが、私は娘。の秋ツアーをまだ見ておりません。それゆえに貴兄が言われるように春、夏を経て秋ツアーで飛躍的に成長されているらしい道重さゆみを見ておりませんので、あるいは、貴兄のおっしゃられるとおり、誤った見解を有している可能性について否定できないので早計過ぎる意見だったと思っております。

投稿者 hatchma : 2008年10月21日 23:10

いえ、痛いと言うよりは「見てからものを言え」という言い分は本来はずるい言い方だと思います。
ただチャンスがあるなら是非見ていただきたい。全体の底上げが図られ、素晴らしいパフォーマンス集団になっていると私は明確に感じました。

投稿者 はたの : 2008年10月21日 23:45

あー、「飛躍的」はハードルを上げすぎです。確かに前進している、で十分ではありませんか?

投稿者 はたの : 2008年10月21日 23:51

はたのさんのご批判に対して、僕は「後出しじゃんけん」だと思っていませんし、ずるいどころかむしろ正しい指摘だと思います。
秋ツアーも1公演ですが入るつもりですので、彼女の前進、是非感じたいですね。
非常に明確なご意見ありがとうございました。

投稿者 hatchman : 2008年10月22日 01:34