重層的非決定?

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2008年09月04日

■ わが道

モーニング娘。は一つの文化(サブカルチャーではなく)である。少なくともかつてはそうであったし、今でもそうであれかしと思っている。

文化は、理想的には、「他者」を排除せず、むしろ糾合することで一般性を指向していく。その価値観が流通する場・空間を拡大していこうとする。

別の力学も存在する。専門化・尖鋭化を進め、場を閉ざし、その場でのみ通用する言語を駆使し、「他者」を排除していく。

モーニング娘。、ハロプロを巡る言説状況はいつからか、徐々に、しかし着実に、後者に進みつつある。実際に読まれる読まれない以前に、「他者」に読まれることを意識してかかれているハロプロファンテキストがどのぐらいの割合があるか。ハロプロファンにしかわからないタームを多用し、「きゃわ」「ハァーン」などといった同等の価値を共有するもの同士のみを対象とした「レポート」が溢れる。そしてライブは常に「最高!」。内輪の価値の再認のみがここでは求められているのだ。

ライブレポートには出演者が客の「出席確認」をしているかのごとき記述が散見される。いつも最前に陣取る「おまいつ」(お前いつもいるな)の客を出演メンバーが認識して、特別の反応をする、というのだ。実態は知らない。しかしそのような記述の存在自体が、ハロプロライブの閉鎖性を構築してしまう。一方で一般客(FC会員でない客)がふつうに購入できる座席は「糞席」と呼ばれ、いかに安くオークションで入手できたかの自慢話?が語られる。

CDには握手会イベントが求められる。そこではさらにメンバーから認識されていることを確認しようと画策される。そのためには何よりもまず、イベントに行けなくてはならない。イベントは抽選だ。30枚40枚CDを購入する様も「レポート」される。

ここに立ち上がっている言説が先日の「べたべたなアイドル」を構築する言説である。そしてこうした活動もモーニング娘。を支える一つのやり方であることは否定しない。ただ私はそれとは違う道を模索する。モーニング娘。をべたべたなアイドル言説から切り離す。その道を模索している。

投稿者 althusser : 2008年09月04日 01:20

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