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2008年09月04日
■ わが道II
注釈として後から追記したのであまり読まれていないだろう部分に私としてはもっとじっくり考えたい論点が出てきた。
アイドル言説空間について。
この空間においては「処女性」がしばしば「問題」として投下され、それを巡って言説が構築される。アイドルは処女性を維持していなければならない、という「ファン」と、そのようなことを求められるアイドルなんてださいと拒否する「一般層」との対立。重要なのはアイドル言説とは「アイドルの処女性」をプラスの価値として語る言説と同じではない、ということだ。そうではなくて、そうした主張をめぐる対抗言説を含めた言説総体がアイドル言説を構築する。
ここで出す「例」はあくまでこの問題を考える事例として提示するものであって、登場人物を今更ながらに批判し、糾弾することを目的とするものではないことを付言しておく。
矢口真里である。彼女が「恋愛」を理由にモーニング娘。を「脱退」して3年たった今でも彼女はその経緯を語る。
モーニング娘。は恋愛をしてはならないグループである。しかし自分は恋愛をしたかった、だから辞めるしかなかった。
彼女の論理では、ここにはモーニング娘。を貶める意味合いは一切ないのだろう。自ら責任を取って辞めた、その公式発表を崩さずに語っているからだ。
しかしこれは言説においてはモーニング娘。を著しく毀傷してしまっているのだ。
矢口はこうした発言で二つのことを同時に語っている。
- モーニング娘。は恋愛が許されないグループとして維持されている。
- 女性として恋愛をするのは自然である。
この二つの語りは一つの論理的帰結を導く。
- モーニング娘。は人間の自然な感情を抑圧する存在である。
まして矢口はこれを涙混じりに語るのだ。
もし矢口がこうした発言を行うに際して、公然とモーニング娘。の非人間性を告発し、モーニング娘。は現代の女工哀史だなどと主張するのであれば、私はある次元で評価し、場合によってはその告発に連なってもよかろうとも思う。しかし矢口にはその意識はあるまい。単に環境と自分の(場合によっては「わがままな」と付け加えてもよいとさえ思っているだろう)思いとのズレが招いた自身の悲劇を語っているだけだ。だから彼女は元モーニング娘。として24時間テレビで現メンバーと一緒に登場して歌を歌うことも、現メンバーに「ライバル心が足りない」などと純然たる先輩の立場において苦言を呈することも出来たのだ。
私はそれをとても好意的には受け止められないし、「ずるい」とも思うが、今語りたいのはそういうことではない。
ここで問題なのは、モーニング娘。と(リアルな)恋愛とを同時に語る語りは、モーニング娘。を、処女性をめぐるアイドル言説空間に投入し、モーニング娘。をべたべたなアイドルに堕してしまう効果をもたらしてしまうということだ。そしてそれはモーニング娘。の「一般」的な価値を毀傷してしまう。
この言説からモーニング娘。を救うには二つの道がある。一つは矢口がやらなかった「告発」を行い、モーニング娘。を恋愛可能なグループに修正すること。もうひとつはモーニング娘。とリアルな恋愛との言説上の接合を拒絶すること。
第一の道はモーニング娘。をいったん地の底に突き落とさなければならない。
モーニング娘。各メンバーはずっと「非人間的」な扱いをさせられ続けてきた。しかしその縛りは不当であった。今日から君たちは晴れて自由である、万歳。
矢口が、あるいはその他メンバーが、自らの存在をかけてこの闘争を行う、というのであれば、私はそれを支持しよう。しかしそうでない限り私はこの道を選ぶ気にはとうていならない。
私は一ファンとして、第二の道を選ぶ。モーニング娘。脱退の経緯を他人事のようにかわす藤本美貴や恋愛関連のつっこみをカマトトぶってスルーする高橋愛が(おそらく反射的に)選んだこの道を私も進む。
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