2007年12月01日
■ 三年一日のごとく
以下の記述は特に安倍なつみさんのファンにとっては不愉快な内容を含むかもしれません。それでも私には常に「ともにある」問題としてあえて記述します。ご留意ください。
11月30日、そして12月1日、この月の変わり目、この日がくると私はそわそわした感じを抱く。10年前の話ではない。3年前の話だ。私は3年間、この感覚を持ち続けてきた。強く意識するのはたとえば今日など特定の日だが、しかしほぼ日常的に私はこの感覚を感じ続けている。
その感情はいくつかの部分に分かれている。
一つには彼女は3年前のあの騒動について「今」何を思うか、ということだ。彼女の、柔らかで、暖かい笑顔の中に、堅固にして確固たる信念を感じさせる表情、私は時折それを「発見」する。あの日以来、私にとって「アイドル」でしかなかった、「アイドル」として、しかもたとえば松浦亜弥と比べるとやや日和った「アイドル」として、その存在のある種の「中途半端さ」を評価していた彼女のことを、実は全くそうではなくて、突き抜けた人なのだと評価を代えた。つんく♂が彼女を評していう「笑顔が怖い」の「怖」さがわかったという。そしてあらためて思う。彼女は何を思い、歌を歌うのか。
そしてあのとき、「正義」を振りかざした言説、その生産者たちのことを思う。ほとんどの者がもはや自分が書き散らした言葉など振り返りもしないであろう、その者たちの今の心を思う。単に外部の規範に照らして、「悪いことは悪い」とだけ反復していれば良かったその安直さからは何も言葉を生産することの痛みも覚悟も必要なかっただろう。今仮に何か問われても安全だ。また外部の規範を参照し、「間違ったことは言わなかった」とだけ振り返ればよい。そうして今もなお変わらず言説の垂れ流しを続けていることだろう。
そう、あるサイトでは鈴木宗男とそれを支持した松山千春を例に出し、「犯罪者」鈴木宗男をかばった松山千春もまた愚かしい「三文芝居」役者であるかのごとき評価を下し、それを例にして「彼女」の問題を論じていたが、果たして今もなお鈴木宗男を一貫して支持し続けている松山千春は「世間一般から容認されることは決して」ない存在であると言えるのだろうか。評価はいろいろあっても、「いろいろ」な評価をされてしかるべき存在だと「世間」も見なしているのではないだろうか。「世間」とはそのようなものだ。己がすがった「世間」とはそのようにいい加減なものだ、ということにその書き手はたぶん気づくことはないのだろう。
最後に、そのような言説に屈し、頭を垂れ続けた己のことを思う。「彼女」を人質に取られ、己の思うことを書けば、それは「逆に彼女のためにならないぞ」と脅され、その脅しに屈した。「悪いことは悪いと認めることこそが彼女への配慮だ」。その脅しに屈した己の卑屈さこそが、この3年の間、ずっと私の心をざわつかせてきたものの正体だ。
今は更新を止めてしまい、その内容も表からはアクセスできなくなってしまったあるサイトさんの抵抗を思う。私はその抵抗に連なることが出来なかった。問題は彼女に周囲にあったのではなかった。正義を笠に着たバッシング・いじめ言説と、それを直近に見ている「私」との間に問題はあった。私は今もその問題を抱え続けている。
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