2005年09月11日
■ 補足〜本編より長い
上の二つのドラマについて触れたブログを読んでいると、もう少し補足する必要があると思えてきたので、少し続ける。
まず「女王の教室」。
このドラマの製作者にいかに教育に対する主張がないか、というのは、主人公の教師と同じ学年担当の女性教師のドラマ中での扱いを見ればわかる。この女性教師、口では理想を言うけれど、実際にはうまく学級運営が出来ておらず、親からの突き上げもあったりしてかなり悩んでいる、という役どころ。この設定は悪くない。しかしこの教師が次第に「開眼」した結果、彼女は「(生徒に対して)教師としてではなくて、友達でいることにした」などとのたまう。開眼した結果、アホに成らせてどうするつもりですか?給料をもらって教師をやっていて、「友達」はないだろう。そんなアホ教師を肯定的に描く教育ドラマのどこが「辛口」ですか、ということだ。その一方で主人公の教師は学級を恐怖政治で支配しておいて、それは最終的には子どもの自立を促す計算だ、とか。
このドラマの作り手は、このドラマを通してどんな教育を理念型として提示したかったのか。友達として子どもに接するお気楽極楽教師なのか、子ども集団の微妙な心理的あやまで全て見通した上で、本来危険極まりないことまで平然とやってのける超人教師なのか。まったくわからない。
そもそも子どもに窃盗の濡れ衣を着せて、いじめに合う危険性まで冒したその行為はドラマ製作者として肯定的な価値を持つものとしてきちんと主張できるのか。主人公の教師を「いい先生」として提示するというのは、そういうことも全て含んでしまう、ということをこのドラマ製作者は「覚えて」いるのか。単に視聴率のためだかに刺激的な部分を盛り込んで、それはなかったことにしてアドホックに主人公を「よい先生」に仕立て上げようとしているだけではないか。
私がこのドラマを否定するのは、このドラマで描かれている教育理念が私の理念と反しているから、ではない。そうではなくて、このドラマを通してドラマ製作者が伝えることになるメッセージに対して、ドラマ制作者があまりに不誠実だから、私はこのドラマを否定するのだ。
「零のかなたへ」。
「国のため」に死ぬことには納得しない、現代からタイムスリップして、特攻隊員の軍人に成り代わった漫才師が、「家族のため」に死ぬことに納得して、喜んで特攻隊として身を投げていく、これほどシンプルな戦争賛美ドラマ、そうは見られるものではない。特攻隊として米艦船に突っ込んでいくことのどこが「家族のため」になるのか。そう納得するしか精神の落ち着かせようがない時代状況として、当時の人間がそう納得させられている様を描くのは理解できる。しかし現代からタイムスリップした主人公がその価値観を共有してしまっては、「タイムスリップ」という設定の意味がなくなる。第三者的、論理的にはおよそむちゃくちゃでしかない「家族のため」と特攻隊という結びつきが妥当なものとして理解させられてしまう、そのような時代性をこそ、現代人という視点を持ち込んだタイムスリップ物のドラマが描くべきではないのか。
後、その素材を後どう料理するかはいろいろあるだろうが、私ならこうする。
「家族のための死」に納得して、笑顔で特攻していく仲間を見送りながら、漫才師は心の中で叫ぶ。
「違うだろ。俺は、家族のために死にたくないんだ」。
しかし本来軍人のものである身体が言うことをきかず、笑顔で敬礼してしまう。そうこうしているうちに漫才師自身が出撃を命じられる。必死で断ろうとするのに、またしても身体が出撃命令を受け入れる。そうして出撃していく戦闘機の中で漫才師は叫ぶ。
「俺は死にたくない。家族のために、俺は死にたくないんだ」。
驚いたことにそれは声として機内に響き渡った。しかし手足は依然として言うことをきかず、戦闘機は米艦船へ向かって飛んでいく。漫才師は考える。
「口までは俺の精神が支配できているのに、手足はまだいうことを聞いてくれないのか」。
何とかしなければ、と焦るが、どうにもならない。そのうち逆に精神にまで元の軍人が宿りだしていることに気づく。その軍人の精神が叫ぶ。
「俺は死にたくない」。
ようやく漫才師は気づく。なぜさっき声が出たのか。あの声は俺の声ではなかった。身体の持ち主である軍人の声だった。しかし元の身体の持ち主の精神にまで逆らって、身体は戦闘機を巧みに操縦し、米艦船に接近していく。
次第に今自分がどっちなのか、だんだん境界がわからなくなっていくままに、戦闘機は米艦船の対空砲火を潜り抜け、間近に敵船体が見える。意識が遠のく。
最後に機内に声が響く。
「天皇陛下万歳」。
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