重層的非決定?

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2005年05月22日

■ 高橋愛孝

これまでなっち原理主義者であることは公言してきたが、二押しというものは強く意識しないようにしてきた。しかし今なぜか突然高橋愛への思い入れが湧き出てきてしまって、初めて「なっちのいない」モーニング娘。関連の物を購入したばかりか、それ以前の曲のPV集まで購入し、高橋愛に視点を定めて、見返している。ハロモニもかつてはなっちが出ない回は早送りしまくりで5分とかからず見終わったものだが、今はしっかり見るようになった。大阪なので一週遅れだけれど。

やはりどうにも似ているのだ。存在の不安定さ、というべきものが。なっちは中長期的に顔の変動が激しかった。特に1999年から一年間の不安定さはファンならずともはらはらさせられるものがあったように思う。高橋愛も構造的には同じなのだが、そのサイクルがずっと短い。一瞬一瞬の表情の作りが安定しない。それも藤本美貴のように「素を出しているとき」と「カメラを意識しているとき」という落差ではない。何が素で何が意識したときの表情なのか、その境目すらコントロールできていない。

世界の中心に「私」がおらず、「私」は私に閉じてしか存在しておらず、世界の中ではどこまでも虚空を漂う存在なのだ。

安倍なつみはその「私」を世界に定立させようとあがき続けているように思える。一方高橋愛にはある種の諦念が感じられる。「私」を世界に位置づけさせることなど所詮無理なのだ。そうした放棄の姿勢が、彼女の絶対的な言葉不足につながっている。だから彼女のコミュニケーションの「失敗」は彼女が空気を読めないからではなくて、仮に読んだとしてもそれでもってコミュニケーションが成立すると彼女自身が信じていない、ということに起因するように私には思えるのだ。

投稿者 althusser : 2005年05月22日 00:00

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