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2009年04月06日
■ 女児演劇もとい叙事演劇とは何か
三文オペラ。私は5月になるまでは見に行かないのだが、ネタバレ歓迎なので、色々なサイトを見回っている。
色々と難しいところもある劇のようで、微妙な表現もちらほら。
見ていない私が言うのも何だけれども、これはそういう劇なんだと思うよ。なんと言ってもブレヒトだもん、と知ったようなことを言おうと思って、ブレヒトとか叙事的演劇とかをキーワードに色々調べてみた。とりあえず書棚にあった「ベンヤミン・コレクション1」(ちくま学芸文庫)より「ベルト・ブレヒト」と「叙事演劇とは何か」をざっくり読む。なるほど、なるほどと思い、そのあたりのことを私なりにかみ砕いてここに記そうかと思って、でもその前に「せりふの時代」の宮本亜門と安倍なつみの対談を読み返したら、亜門さんが既にそのあたりのことをかみ砕いて説明してくれていた。なんだ、書いてあるじゃん。というわけでその部分を紹介。
各場面のストーリーも、シーンが始まる前に説明している。これからこんなお話になりますよと教えてしまう、という戯曲です。つまりそれは、大切なのはストーリーを追うことじゃありませんよと観客に伝えているということなんです。歌もミュージカルのように、感情が高まってそれが歌になるというのは、きっとブレヒトにとっては白々しいんでしょうね。
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最近は観客が物語の中にどっぷり入り込んで、カタルシスや感情でおぼれさせてくれるような作品が面白いということになっている。とにかく泣けるのが名作みたいな風潮もあります。でも、それはちょっと待ってよと僕は思います。・・・演劇というのは、もともとそういうところからスタートしてはいない。「三文オペラ」はあくまで観客がそこにいるということを意識させ、観客に考えさせ、その場を共有するための芝居です。
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その部分(政治的なメッセージ)を甘くしては、この作品をやる意味がないと思います。
ただ、また極端になりすぎてメッセージを伝えることだけになったら、プロパガンダになってしまう。
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生きるとは、社会とは、資本主義の矛盾とはなど、メッセージがやたらとちりばめられている作品です。・・・そして自分をさらけ出しつつ、世の中の露骨さも全部さらけ出して欲しい。
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(この作品が演劇の世界で)評価されるはずがないと思っているし、そういうことを目的としているのではないんです。観にきた観客がハッと何かを考えたり、自らを省みたりするためにつくる作品だと僕は思っています。
せっかくなのでベンヤミンの説明も少し引用しておこう。
叙事演劇の技巧とは、感情移入ではなく、それに代わってむしろ、驚きを呼び醒ますことなのだ。定式化して言えば、観衆は、主人公に感情移入することではなく、それに代わってむしろ、主人公の振る舞いを規定している状況に驚くことを学ぶ、これこそを期待されている。
ブレヒトの考えるところでは、叙事演劇は筋を展開させるよりも、状況を表現しなければならない。だが、ここに言う表現とは、自然主義の理論家たちが言う意味での再現のことではない。むしろ、何よりも重要なのは、まずもって状況を発見することなのだ。(状況を異化させること、と言ってもよいであろう。)
さらにそれを演じる俳優の使命についてもベンヤミンは次のように解説する。
叙事演劇は、映画フィルムの映像のように、ひとコマずつ進行する。・・・こうして、切れ目となる合間が生じ、それが観衆のイリュージョンをむしろ阻害する。感情移入しようと構えている観衆のこころの用意を萎えさせてしまうのだ。こうした合間は、観衆が・・・批判的な態度決定をするためのものなのである。表現の手法に関して言えば、叙事演劇における俳優の使命は、彼が演技中にも冷静な頭を保持していることを、その演技の中で証明することにある。俳優にとっても、感情移入はほとんど使用できない。
ということで、ブレヒトの演劇においては徹底して感情的・感性的ではない理知的・批判的な鑑賞姿勢が求められているのだ。
あるいはこういう言い方も出来るだろう。叙事演劇は、落としどころの見えた、ファンタジックにして抽象的で予定調和的な感動を再認させるためのものではない。そうではなくて、現実のある側面をグロテスクに切り出し、それを観客に突きつけることで、観客の安寧なる精神を破壊し、状況に対する批判的思考を呼び覚ますためのものなのだ。劇の最終場面はカタルシスを呼び覚ますものであってはならない。むしろ様々なクエスチョンマークが観客の頭によぎること、それがこの劇のあるべき姿だ。
だからもし観客が「トゥーランドット」に比べてわかりにくい、感情移入できない、と嘆いたとすれば、それはこの演劇が成功していることの証である。逆に「トゥーランドット」と同じように感動した観客がいれば、それこそブレヒトは嘆くだろうし、宮本亜門は作品を堕落させたのだ、という評価が免れがたいものとなるだろう。
もちろん作品自体に対する感想・評価は実際に見た人が各々に持つべきことなのだけれども、仮にこの作品を駄作だと感じたとしても、安倍なつみがこれほど政治的・思想的に突っ込んだ演劇に出演するということ、そのことの意義については積極的に受け止めて欲しいかな。そしてそれこそが安倍なつみがこの作品に出演するということの「スキャンダラス」性だということも。これまでのハロプロ出演作品の「安全」さからするとそこにこそ驚きがある。ちなみにキスシーンがどうとか、胸を触られたとかそういう話はどうでもいい。そんなのは「スキャンダラス」なことでも何でもない。そしてそういうレベルでぎゃーぎゃー言うような「ハロプロ」なんてものとは安倍なつみはお別れして当然だし、私も一刻も早くおさらばしたいと改めて思うのだ。
愛ちゃん、早くこっちへ来い。
ベンヤミンを読んだついでに、ちょっと気になるところを引用。「ベルト・ブレヒト」冒頭。
現存している詩人についてある評者が、非党派的に、いかなる囚われも排して、客観的に語ると称するなら、その態度はつねに、不誠実というものである。しかもそれは人間的に不誠実であるというばかりでなく、おそらくそれ以上に・・・とりわけ学問的に不誠実なのだ。・・・この場合の叙述には・・・批評の形式こそ、この叙述にかなった形式なのである。そして、批評という形式は、安易な高尚気取りから遠ざかっていればいるほど、作品のまさにアクチュアルな局面に決然としてかかわってゆけばゆくほど、形式としてそれだけますます厳密なものになる。
まさに高尚気取りで、自分を客観的な分析者に位置づけたがるブログ主に聞かせてやりたい言葉だね。「自分はだれだれ基準というものをもたない」とか「客観的に流れを分析している」とかそういうことをいって、自分の大好きな誰それちゃん以外のメンバーにネガティブな評をぶつける輩がいっぱいだからね、この界隈。私に言わせればこんなのは「学問的」以前に「人間的に不誠実」なことなのだ。
ファンブログが(ベンヤミンのいう意味での)批評的である必要はないけれども、「作品のアクチュアルな局面」にかかわらずに妄想的な「分析」とやらを垂れ流すことはとても恥ずかしいことだということは言っておきたいかな。それだったらまだ誰それちゃんきゃわ!、萌え〜とか言っている方がよほどましだよ。
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