重層的非決定?

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2009年03月14日

■ 写し鏡

関西地区のテレビ番組「ちちんぷいぷい」という番組にAKB48が出ているのを見た。AKB48をテレビで見るのは初めて、歌を聴くのもほとんど初めてだったので、ちょっとその感想などを書こう。

しかし曲の純粋な感想を語る前に、いろいろ余計な思いを付け加えたくなる。そういう余計なメッセージを付加したくなる、それはそういう売り方をAKB48サイドがやっているからだという面が正直ある。

CD販売チャートがライブ活動を行う際の指標ともなるという話もあるようだし、歌手活動を円滑に行うに際して単にCD販売の利益に止まらない意味を持つ、というのはそれなりに理解はしているつもりだ。しかしそれでもチャートを無理矢理引き上げるということを相互にやり合う今の状況はやはり「引く」ものがある。

やり出せばきりがない。AKB48のやり方が「あり」なのなら、極端な話、今後コンサートチケットをCD5枚セットとかにするということも「あり」となるだろう。CDを買わせるネタとして、「握手」か「ライブ」か、どっちがましかという程度の話だ。ライブに来たければCDセットを買いなさい。買う側の負担がこれまでの紙のチケットと変わらなければ、これはこれで十分成立してしまうのではないか。2000人規模のコンサートを4回行えば4万枚の売上。モーニング娘。のコンサート規模だったら、20万枚の売上だって無理ではない。

もちろん紙のチケットを製造するよりもCD5枚セットを製造する方が遙かにコストがかかる。だから本来だったら意味がない。でもチャートとやらの宣伝効果がそれほどあると思えば、やるところが出てもおかしくもない。恐ろしいのはCD販売チャートにせよ、テレビの視聴率にせよ、「数字」となるとそれが「実体化」され、一人歩きすることだ。そして制作サイドも、「ファン」もそれに振り回される。前に書いたとおり、私がAKB48のやり方に不快感を催すのは、それがハロプロの嫌な部分を見せつけられているように感じるからだ。

いわなくてもいい話ではあったけれども、さる音楽ファンサイトを見ていたら、AKB48について「曲はいいのに、あの売り方でイメージを悪くしている」という意見が散見されたので、私もちょっと反復してみた。

曲自体の印象に入る前にもう一点、AKB48制作サイドの発するメッセージも好きになれない部分がある。

例えば去年のAKB48のコンサート「まさか、このコンサートの音源は流出しないよね?」という名称がついていた。今年のコンサートは「神公演予定 諸般の事情により神公演にならない場合もありますので、ご了承下さい」となっている。

これは完全に私の好みの問題だが、この手のセンスが私にはついて行けない。特に前者の「流出」なんてことを制作サイドがネタにして、どう?面白いでしょ、といわんばかりにやられても、私は不愉快になるだけなのだ。全てを面白おかしくネタにしてしまえ、そういう軽さ、斜に構えた姿勢、私にとっての80年代文化の嫌な部分を反復されているように感じられてしまう。そしてなるほど秋元康だ、と私は妙に納得してしまうのだ。

そういえばモーニング娘。初期、おニャン子クラブとの比較がしきりになされた。モーニング娘。ファンサイドの反応はまっぷたつに分かれていたように思う。おニャン子クラブとの近似性を認め、それなればこそファンになった人と、逆にそれとの断絶を強調する人と。ある年代のモーニング娘。ファンの中にはおニャン子クラブを好きだった層と、嫌いだった層とが混在していた。

ちなみに私は「嫌い」ではなかったが、あまり好きにはなれなかった方。アイドル一般が好きではなかったわけではなく(中森明菜とか結構好きだった)、おニャン子クラブのある種の「軽さ」が好きになれなかったのだと思う。

いまのAKB48に対する好悪の分かれ方はそのときの「対立」が反復されているのか、とも思う。

それではモーニング娘。制作サイドの発するメッセージはどうなのか、となるとこれはとても難しい。そもそも私はモーニング娘。発祥の番組「ASAYAN」をほとんど見ておらず、見たときにも不快感を感じることの方が多かった。あとになって中澤裕子があるASAYANの「演出」について「嫌だった」と感想を述べたときに、心の中で快哉を叫んだ。

ただ、何故か集まってきたメンバーがよかった。それはASAYAN後でもそうだ。そしてそういう「いい」メンバーを集めるセンス、それがあればこそ、私は究極的に今の事務所を否定できないのだ。自らが行う「表現」というものに対するいじらしいばかりのひたむきさ、まじめさ、そういったものを私は多くのメンバーから読み取ってきた。そういうものを感じさせられる場が多く提供された。そして私の中でそういういじらしさがとてもよく感じられた二人が安倍なつみと高橋愛なのだ。

AKB48のメンバーについては私はほとんど何も知らず、ただ一人小島陽菜はドラマで見かけて、「悪くないな」と思った、それぐらい。今後とくに歌の場面で「良いな」と思うメンバーが出てくれば、制作サイドの嫌な部分とは別にAKB48を評価できるようになるかも知れない。果たして。

というところで、ようやく今日見た歌披露の感想。

曲自体は悪くないと思った。というか、こういうのもハロプロもやれよ、と思った。最近とみにつんく♂への風あたりが強いが、少し理解できる気がした。モーニング娘。もBerryz工房も℃-uteも、どれもあまりにも代わり映えがしない。もっとさっぱりさわやかに明るい曲があってもいい。

ただそれではAKB48に私が「はまる」かというと、そういう要素は今のところ皆無だった。ボーカルの魅力が感じられない。同年代の女の子を適当に同程度の人数集めてきて、歌わせてもほとんど同じような歌唱になるだろうと感じられた。歌がうまいとか下手だとかではなく、ボーカルの個性・魅力を引き出すような作りにそもそもなっていない。なるほどおニャン子クラブなのだ、と妙に納得がいった。あのような作りでは、少なくともテレビを通じてだけだったら、モーニング娘。メンバーに感じるひたむきさをAKB48メンバーから感じることは出来ないと思った。もちろん「現場」に行けばそういうのも感じられるのかも知れない。しかしそもそも現場にまで行こうとは今のところ(そしてたぶん永遠的に)思わない。

ということで、初めてAKB48を(グループとして)見て、ハロプロ・モーニング娘。の嫌な部分と、そして良き部分を再確認させられた。その限りにおいて今日見たAKB48はとても興味深かった。

投稿者 althusser : 2009年03月14日 00:13

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