重層的非決定?

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2007年02月05日

■ 時間が解決すること

矢口こと矢口真里さんが一月のハロプロコンサートで歌手復帰したことについて、随所で違和感が語られている。私もそれよりも前に同様の趣旨のことを書いたことがある。矢口さんを巡る状況には、本来ならずっと矢口さんを好意的に見てきた人も含めて、何とも言えない「違和感」としか言い様のないものが渦巻いている。

もういいではないか、とさしあたり言ってみたくなる。しかし違和感は消えない。なにが「もう」だ。時間がたったら、それですむ、というのなら最初から批判するな、という主張も見る。確かに言いたいことは分かる。時間の問題なのか。

しかしやはり時間の問題なのではないか、と思うのだ。

違和感を主張する者が求めているのは「けじめ」なのだろう。いつかどこかで何かしらのけじめをつけてほしい。いわゆる「アンチ」としてではなく、違和感を表明する者たちの主張は畢竟そこにある(ように思われる)。しかしその「けじめ」が今後なされることはたぶん難しいだろう。なぜなら、このことは終わってしまった事柄だからだ。今更どんなけじめのつけようがあるというのだろう。モーニング娘。を脱退したときに事務所を通して、そしてテレビカメラを通して、彼女は既に報告をすませた。それで終わったのだ。今更時計の針を巻き戻して、今更何を改めて言うことがあろうか。

残念と言うしかないのは、彼女、あるいは事務所の思う「けじめ」と、違和感を表明する多くのファンの思う「けじめ」とがずれてしまっていたことだ。しかし時計の針は進んでしまった。

もはや改めて形式的なけじめがつけられることはない、と想定したとき、それでもなおそのけじめを求め続けることは何を意味するか。それは永久的に矢口真里に対して違和感を持ち続ける、ということだ。確かにボタンを掛け違えたのかもしれない、しかし矢口さんの行動は、永久的に違和感を感じ続けられなければならないほどのことであったのか。

「けじめ」とはおそらく、かつて矢口さんのある行動・発言を批判した時の私の言葉を使えば「傷を共有」すると言うことだ。誰かが何か過ちを犯したとする。それにより別の誰かが傷つけられたとする。その傷つけられた者の傷を傷つけた者が共有すること、そこに加害者の「けじめ」が成立し、傷つけられた者の「許し」の契機が生じる。矢口さんを巡る一件も、矢口さんが加害者だとか、誰かが被害者だとか、そういうのではなしに、それでもモーニング娘。を巡る「傷」をモーニング娘。現役メンバーとファンと、そして矢口さんとが共有しなければならない、それを違和感を語る私たちは望んでいるのではないか。

傷を共有する儀式は失敗した。そして矢口さんは長くファン一般の前で歌えない場面を持たされ続けた。その積み重ね、まさに2年にわたる時間の中に、私たちと矢口さんとは形式ではない、実質的な傷の共有を行ってきたのではなかったか。時間は、傷の存在とその深さを具体的に指し示してくれている。

どのみち儀式が再演されることはおそらくないことが容易に想像される以上(実際問題再演するにしてもどのようなやり方があるというのか)、ボールは私たちの手の中にあって、私たちがどこかでけじめをつけるしかない。

投稿者 althusser : 2007年02月05日 23:56

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