重層的非決定?

« 26000円 | メイン | 夏イベント »

2006年07月25日

■ 転校していくあの娘。

紺野あさ美および小川麻琴のモーニング娘。「卒業式」が先日7月23日行われた。

何か書こうとも思った。でも何もかけなかった。そもそも小川さんはまだ8月までモーニング娘。に居るのであって、お別れの言葉なんて書けやしない。でもそれだけではない。

「卒業おめでとう」。なんだか白々しい。何故だろうか。それをずっと考えていた。

公式には二人は「卒業」したのだし、それに異論はない。しかし私の中では、「卒業」という言葉に込められる印象とは違ったものとして映っているようだ。それはどういうものか。

私にとって「卒業」とは、たとえば古くは中澤裕子の、最近では石川梨華のものがそれにぴったりくると感じられるものである。やるだけのことはやり、こちらも見るべきものは見た。後は新天地での活躍を期待しよう。 紺野さん、小川さんに関しては、見るべきものはすべて見たという感覚もなければ、新天地での活躍を応援しようにも情報も(おそらく)ほとんどなく、どうにもならない。

また別のパターンを思い出す。古くは市井紗耶香の、新しいところでは矢口真里のケース。事務所の扱いは若干違ったが、私にとっては両者とも、いわば「自主退学」になぞらえられるべきものとしてイメージされていた。私は「卒業」と対比して「退学」を貶めんとしてこういっているのではない。ただ「途中」の段階で、「本人」の強い意志により、それを中断してしまった、しかしそこに見えるその意志の強さに私(たち)はただ見守るしかなかった。その意志の強さを感じられたが故に、それを選択した彼女たちの将来にも彼女たちなりの希望を見ることができた。私は途中でやめてしまった彼女たちを惜しみもするけれど、辞めたこと自体はしっかり受け止めることはできた。

紺野さん、小川さんには、そのような何かを強引に断ち切らんとするような断固たる意志を感じることはなかった。彼女たちはモーニング娘。であることに何ら違和感を感じさせることはついぞなかった。ずっとこのままで居ることの方がずっと自然なのに、なのに突然いなくなる、と聞かされる。

この感覚はいわば「転校」なのだ、と思う。

先生がホームルームか何かの時間に突然言う。「紺野さんと小川さんは、引っ越しのため、二学期から新しい学校に転校します。紺野さんとは一学期の終業式が最後です、小川さんは夏休みの行事には参加します」。 別れの時には実感はない。また今度、などと手を振って、おやそれは違うと頭で理解する。二学期になると彼女たちは居ない、そんな寂しさ。

今日、紺野さん、小川さんの最後のモーニング娘。単独コンサートのDVDを見た。エンディングで各メンバーが書いたメッセージが流れていく。「また一緒に盛り上がりましょうね」、「またライブに遊びに来てね」、「またみなさんに会える日まで頑張ります」、「愛してるぜ!!またライブで」。そして最後に二人。

小川麻琴「みんなの笑顔 忘れないよ ありがとう」。

紺野あさ美「みなさんと生でふれあえる、ライブってホントいいなぁと感じました。幸せ者です。みんなありがとう」。

初めて「最後」を実感して、ちょっとだけ泣いた。

投稿者 althusser : 2006年07月25日 03:45

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL: