重層的非決定?

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2005年05月05日

■ (エース)不在ということ

なっちこと安倍なつみは、ここ最近のハロモニやら、アウェーの番組出演やらを見ていて、精神的にも完全復活を確信。一般のイメージはちょっと傷ついたと思うが、それは仕方がない。傷ついた、といっても笑い話の範囲内だとも思えるし。

そして私個人は、なぜか突然高橋愛への注目度が急上昇中。加入当初から注目はしていたのだが、「大阪 恋の歌」での頑張りを見て、陥落。オリメンの飯田さんが抜けて、物語としては完全に終わっていたモーニング娘。から抜け出せないことを確信。

茶番ではあっても、この娘はモーニング娘。の物語を反復し続けているのだ。いろいろな才能を持ちながら、「一番」になれないもどかしさ。何かが足りない。その足りないものとは、例えば「オーラ」と称される絶対的な何物か。その絶対的な何物かが欠落しているがゆえに、そこに何をあてがってもその存在感は不安定なものにとどまる。例えば観客がそれを見て、絶対的なものを感じれば、そこにそれ以上の言葉は要らない。「ミラクル」だのなんだのと言葉を足すことさえ小賢しい。

一方、絶対的なものが欠落していれば、観客もまたその不安定さを埋めようとする。己の見たものの「意味」を再認しようとする。売り上げを見て一喜一憂するのも再認の儀式だ。しかしそれ以上に言葉・文字で残し、また他人の言葉を読むことで再認しようとするものだ。だからこそ、彼女たちの周辺には言説が群がり寄る。

中でも安倍ヲタと高橋ヲタは明らかに言葉が多い。多すぎる。ネットで嫌われる2大ヲタというのもむべなるかな。後藤ヲタ、松浦ヲタとくらべてかれらは不安が多いのだ。

というわけで、しばらくは高橋愛言説生産の一端を担うことにする。要は愛ちゃん萌え的文章をものす、ということだが。

投稿者 althusser : 2005年05月05日 00:00

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