重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

(たとえばモーニング娘。とアルチュセールを*同時に*語る、ということ)

日々思いついたいろいろな話を無責任に書きなぐるモノローグ

あるクレーマーの心理学

自分のごみくずのような自尊心が少し傷つけられたとき、その代償としてたとえばそれなりの組織・企業を動かしうるのだという結果を得られれば、それで己の自尊心が満たされたように思う。

モーニング娘。ファンとはそのようなごみくずの自身心を持った者たちの集合でしかないのか。そうではないはずだ。しかし一部のものの暴走で、モーニング娘。ファン全体がそのようなものとして見られてしまう。

またしてもmixiに発する「失言」。それをえさにして集うショウジョウバエどもの群れ。

仕事の愚痴をフェミニズムでまぶしてみる

久々の更新なのに、ただの仕事の愚痴。

まあ、もともとはそういうサイトだった。

一応社会科学としてのフェミニズムをかじって、それなりにコミットしてきた時期もあって、社会科学としての立場を変えるつもりはないのだが、実践−実際の仕事の場面では女性との相性が悪い。最初はそれなりにいい感じで仕事を進めているつもりなのだが、次第に「なんだ?」ということになってくる。この「なんだ?」が同じパターンなのがなんとも。そこに「女性」というカテゴライズをしてしまうあたり、畢竟私はただのマッチョ野郎なのだろう。

共同作業で仕事を進める場合の、作業分担の切り分けのイメージが私とはことごとく真逆。私がイメージするのは徹底した分業。おのおの職分というものがあって、また(うまく作業分担がなされていれば)それに見合った得意不得意があって、おのおのがおのおのの立場において己の職分を全うすれば(矛盾・葛藤を孕みながらも、逆にそれゆえに)よいものが出来上がる(はずだ)。「餅は餅屋」。矛盾からの止揚。

男性相手のときは、少なくとも相手がそれなりの人であれば(大学出たての新人さんみたいなのが相手のときはよくわからなかったことがあった)、相手が本音どう思っているかはさておき、上の作業イメージを持って仕事を進めて、おかしなことにはなっていない(と思っている)。特に私は仕事の請け方自体が、どうあってもゼネラリストとしての契約などしていないし、大体社員でもなく、といってそれほど安いバイトでもない人間にわざわざ作業をおろす、というのはそれなりに専門性を買ってのことだろう。そう思っているから、私はやや尖った状態のものを成果物として出すし、それを丸めるのはそれはその役割の人がやればいい、というスタンス。で、これまで一緒に仕事をしていた人は、私の尖った部分の意図を読んだ上で、うまく丸めてくれていた。優秀な人だ。

担当が替わったとたん、丸いのを出してくれ、といってきた。困った。私は丸いものは作れないのだ。最初から丸いのが欲しいのなら、私に仕事を依頼するのが間違っている。

どういう作業分担イメージなのだろう。作業メンバー全員に共通の丸い入れ物を持たせて、おのおのがそれに中身をつめて持ち寄る、とかそんなイメージだろうか。自分が持っている入れ物にそのままでは入らないものを持ってこられると、単に質が低いものを持ってこられたと思う、という。

まあよく言えば、作業メンバー全員の共通理解・合意を重視する、という姿勢に繋がるのだろう。フェミニズムの一流派の主張する女性の(男性に対する)優位性の主張と重なるものでもあるので、なんとなく私のカテゴライズも的外れではないのではないか、などと思ってみたりもする。そしてそういう姿勢が、職場の生産性向上にも、世界平和にも繋がるのだ、と。ふむ、正しいかもしれない。

でも私にはつらい。

こんなスーパーマンに助けられたくねえ

四月に入って、週5日労働、我が人生最大の楽しみであり、目的である昼寝ができない。そんな生活が6月いっぱいまで続く。

人間、余裕がなくなると、物事に感動したり、逆に何かに憂いを持ったりということもなくなってくるものなのかもしれない。匿名掲示板あたりで日ごろの鬱憤だか何だかを晴らしている連中というのは余裕のない人なのだと思っていたが、案外そうでもないのかもしれない。考えてみればそれはそうで、かつての「学生運動」なんてのも畢竟余裕のあるものたちの運動であった。日本共産党が学生運動を所詮ブルジョワ的運動だとみなしていたりしたが、それはそれで正しい認識だった。惜しむらくは日本共産党自身がブルジョワ的知識人に支えられた政党であったということから目を背けていたことだ。

本当は石原都知事再選について、何かを考えてみようと思っていた。でも何も浮かんではこない。腹立ちよりも、もはや東の果てのことは私の思考から消し去さってしまえばいい、そんな気分になる。

そもそも石原慎太郎のような人物に投票する感性を私は持ち合わせていないので、なぜ彼が再選されたか、などと考えてみたところで、私にとって納得のいく結論が得られようはずもない。ただ余裕のあるものたちの社会を憂える態度からくる超人願望と余裕のないものたちの思考停止、依存姿勢からくる超人願望、両者が石原のようなマッチョな人物を要請したのだろう、とさしあたり思っては見る。思ってみたところで、so what?ということにしかならない。ただ、一点加えておくべきことは、石原は「今の右傾化した時代」なればこそ3選されたのではない、ということだ。彼ならば、1960年代でもいつでも選ばれえたであろう。超人願望は古くて、新しいテーマなのだ。