重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

(たとえばモーニング娘。とアルチュセールを*同時に*語る、ということ)

日々思いついたいろいろな話を無責任に書きなぐるモノローグ

物欲曲線

MacBook発売。

13.3インチ1280*800表示の液晶。バッテリー駆動時間6時間。お値段は14万円弱から。

ほお。私が買ったMacminiが10万円弱だから、液晶とキーボードがついて、CPUの性能が上がって4万円差。今と同じように使えて、おまけに外にまで持ち出せて4万円差。ほお。

持ち出せるMacがほしい、ということで勢いで買ってしまおうか、と思ったりする。その気になるとスペックも詳細を見る。さらに大阪のヨドバシカメラによって現物も見てくる。

Blackモデル、かっこいいじゃん。でもスペック差の割に高いような。なになに、AppleストアでWhiteモデルの上位機種でハードディスク80GBにカスタマイズしたら、Blackモデルと同じスペックになるよな。で、お値段は¥166,100。もともとのBlackモデルは¥179,800。¥13,700の差は何だ?

というわけで、廉価版でいいやとなって、そうなればCPUも1.83GHzで十分だし、DVDが焼けなくてもいいし、ということで一番安いモデル。ただしメモリは1GBで、となると¥146,770。ほお、¥150,000切ってきますか。

でもちょっと重いよなあ。2.34kg。今愛用しているThinkPadT40よりも重くなるんだよなあ。逆に13.3インチ液晶ということならSonyのVAIOノートSZシリーズなら1.69kgだと思うと、うーむとなる。MacBook miniとかなんとか出さないかね。まあ、値段も値段だし、MacOSに免じて、と考えてふと冷静になる。

で、何に使うの?すでにノートはT40の他にLet's Note Rも持っていて、ただでさえダブり気味、外に持ち出すのにMacでなければ困ることなんて特にない。

さらに冷静になると、b-mobileが使えないじゃん。b-mobileはハードウェアがPCカード版で固定されている。となるといざというとき、ネットに接続できなくて途方に暮れることになる。ありゃ、全然使えない。

解なき物語

私たちは「解」を求めている。多くの場合、「カタルシス」を伴う「解」を。

矛盾・対立する一方を抹殺し、消去し、残る一方を「解」として称揚する。抹殺されたものを貶めれば貶めるほど、「解」の正しさは証明される。今の分かりやすい「解」というのはそのようにして出来上がっている。

それよりは格段に「まし」なのは「弁証法」的「解」である。矛盾・対立する立場を取り込んで、さらに次のステージへと進む。そこにおいてはもはや矛盾は矛盾としては存在していない。よりパワーアップした「解」がそこにあるだけだ。

しかしいずれも矛盾・対立をなくすべきものとしている点では大差はない。そこが矛盾・対立が常に世界に内在し、それを含み込んだ上で常に動いていくという、矛盾対立をポジティブにとらえた社会観を示したマルクスの唯物論的弁証法との「差」である。

今更マルクスでもあるまい、と言われればそれまでだ。しかしマルクスでなくともよい、矛盾対立の解消をいたずらに夢見ることなく、ポジティブなものとして受け止めようとする「我慢強さ」を私たちは今一度取り戻さなければならないのではないか。解なき課題を抱えたまま紡がれていくこの社会とそこに生きる人間を肯定的にとらえ返すこと、それこそが「ヒューマニズム」に満ちた物語を描くことなのではないか。

前に一度取り上げたことのあるNHKのドラマ、「慶次郎縁側日記」はそうした物語の一つである。娘を死に追いやった犯人への復讐を誓いつつ果たせなかった父親の葛藤の日々を描いた物語である。父親は復讐に失敗し、結果的に犯人への「許し」を伴うユートピアの現前に関わることになるのだが、しかし父親の周囲にちらつくそのユートピアの影は、全く彼を救わない。それどころかその存在こそが彼をよりいっそう苦しめる。

父親は元同心であり、町の名士であった。彼は自他ともに「正しき振る舞い」を求められる立場にあり、またそのようにしてきた。娘が乱暴され、自死したとき、父親はそのような己の役割規範を投げ捨てて、犯人に復讐しようと決意する。しかし周りがそれを許さなかった。結局彼の部下の男が彼の復讐を妨げる。

以後彼は「どのような人間にも情けを」という「正しき」信念に基づいた生き方を再び歩むことになる。しかし彼は実際には何も許せてはいないのだ。娘を死に追いやった犯人だけでなく、自分の復讐を止めた男までも。そして犯人の娘が自らの前に現れることで彼は一層苦しめられることになる。「憎んではならない」という規範と、自分の娘の悲惨な思い出との狭間に彼は立たされる。

時が経つにつれ、少しずつユートピアが大きくなっていくのだが、しかし最後までユートピアが訪れることはない。娘に乱暴をした男は病に冒され、死んでいく。その最後に対面をした父親に「殺せ」と涙を流して訴えるのだが、しかしそれはいわば開き直りのようなものでしかない。真の反省も、許しもないまま男は死んでいく。そして父親にとっては復讐を果たしたというカタルシスを得ることもまたないのだ。

許しも復讐もなく、ただ月日のみが流れる。娘の無念もまたそのままである。それでも犯人の娘とそして犯人への復讐を妨げた部下の男の幸せまでは祝福できるようになる。そこで物語は終わる。