重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

(たとえばモーニング娘。とアルチュセールを*同時に*語る、ということ)

日々思いついたいろいろな話を無責任に書きなぐるモノローグ

イデオロギーを生み出すもの

昨日言及した、自分の優位性を無理矢理にでも他者に押し付けたい人の発言およびそれを支える世界観は、ほぼ定義通りの「イデオロギー」に他ならない。

イデオロギーは諸個人がかれらの存在の現実的諸条件に対して持つ想像的な関係の表象である

Ideologie et appareils ideologiques d'Etat L.Althusser

かれの置かれた現実の存在諸条件がイデオロギーを構成するのではない。その存在諸条件に対するかれの想像的な関係がイデオロギーを構成するのだ。

まさしくかの発言に現れているのはかれの客観的な立ち位置のありようではなく、かれが関係を取り結んでいる社会に対するかれの姿勢である。言い方を変えよう。かれはかれの客観的な立場に導かれてかの発言をなしたのではなく、かの発言をすることによってかれ自身の立ち位置を決定したのだ。それは宗教的な儀式にほかならない。

ひざまずき、祈りの言葉を口ずさみなさい。さすればあなたは神を信じよう

神を信じているものが祈りの言葉を口ずさむのではない。先に祈りの言葉が先行する。かの発言も同じである。

問題なのはかれの傲慢さではない。そうではなくて、そうした見かけ上の傲慢さが真の強さを示すものとして受け止められ、流通する言説状況なのである。もちろんその言説状況を支えている「物質性」とでも呼ぶべきものは存在している。しかしそれは発言者個人の立ち位置に還元されるものではない。そうではなくてそれは閉塞した社会状況からくる社会不安・いらだちを他者に向かわしめる力学を生産する政治的・経済的諸関係にほかならない。

余裕なきナショナリズム

某所からの孫引き。

彼らに対しては、百万回でも同じことを繰り返し耳元で大声で怒鳴り、必要があれば、棍棒で頭をかち割って、我々の下なのだということを何度でもわからせてやらないと。

ちなみに「彼ら」とは韓国人、「我々」は日本人という文脈。これを引用した場所では「エリートの傲慢さ」と解釈されていたけれど、そうだろうか。

これを書いた人は経歴的には「エリート」なのかもしれないが、この文章にはそんなものは現れていない、と私は見る。書き手の経歴など大して意味もない。

この文章から私はどちらかというとKKK的余裕のなさ、「卑しさ」を読み取る。自分の方が上であることを示すために「百万回でも同じことを繰り返し耳元で大声で怒鳴り」つづける必要を説くその「必死」さ、よほど追いつめられた立場の人間の所作だ。個人としては「エリート」らしいから、多分「余裕」はあるのだろうけれど、そのかれが見ている自身の所属集団たる日本にかれは全く余裕を持てていないのだ。

そんなに韓国が怖いのかね、と傲慢なナショナリストの私は笑い飛ばす。日本は徴兵はないし、WBCに松井が出ないという選択が「許されている」し、日本っていい国じゃん。ま、韓国もがんばっているけれどね。そうそう韓国製の液晶パネル、なかなかいいよ。

しかしこれと同趣旨の発言をアメリカ、ヨーロッパ辺りの大学教員がしていたことが明らかになったら「レイシスト」として、糾弾されかねない発言であることは確かだ。ああ、言論の自由が保障されたる我が日本よ。ただしその自由は「自由主義」の自由であって、「民主主義」の自由とは少し違うようだが。

Rest of Us

鬱状態の間、ほとんど何をしていた記憶もないのだが、わずかに覚えているのはOSXをいろいろ触っていたこと。とりあえずネット関係はほぼWindowsではなく、OSXを使うようになった。Gyaoとかその辺のストリーミング系は未だにWindowsでないとうまくいかないところが多いので、Windowsを使わない訳にもいかない。しかしそれ以外のサイト巡りはWindowsのフォントの汚さが気になって仕方がなくなるようになってしまい、OSXしか受け付けなくなってしまった。

そうなると仕事関係もなるべくOSXに移行したくなる、というもの。使いたくなくても使わざるを得ないOfficeスィート、Open Office.org はMac対応が不十分、期待のNeoOfficeはIntel版がまだ出ていないために使えない。それにワープロはともかく表計算ソフトはExcelの代替としては少し弱い。というのでやはりMS Officeを買うかなあ、と思ったりもする。そう思ってちょっと調べてみれば、アカデミックパッケージを購入する権利があることに気づく。そうなれば3万弱、買ってしまうか、と思う。

しかしやはり一般的にいってWindowsからMacへのスイッチというのは難しいだろうな、と改めて思う。それは操作性がどうとかではなくて、いちいちOfficeを買い直すか、という問題。Windows間ならPCを買い替えてもそのまま使えるし(製品版を持っていれば、の話だが)、バージョンアップもまずまずの値段(といっても私はOffice2000以降、バージョンアップはしていないのだが)。ところがMacに移行しようと思えば、Office正規ユーザでもまた改めて製品版を買わなければならない。なんとかバージョンアップ扱いにしてくれればうれしいのだが、WindowsからMacへの移行にMicrosoftが便宜を図るいわれはないので、やる訳はない。

また初めてパソコンを買う人にMacを勧めるか、というのも難しい。使いやすさとかではない。ただネットの諸々のサービスがWindows(それもInternet Explorer)を前提としてしまっている現状、Macを薦めたはいいが、「私のパソコンで・・・は見られないの?」という質問に「ああ、Macは対応していないね」と答えて納得させられるだろうか。それはある程度分かっている人からすればやむを得ないことと理解もできるが、初心者には到底理解しがたい理不尽な話でしかないだろう。

一台目はとりあえずWindows、それ以降はMacを入れると面白くて便利、というのが現実的だと思うが、そうなるとUIの違うシステムを常時使い分けるという体制になる、全然初心者に優しくない。いまやMacは「残された人」のためのものといってもそれは「パソコンに取り残された人」のためのものではなくて、「世間から取り残された人」のためのものになってしまった。10年以上前からMac一筋のMacユーザ、Windowsに飽きるぐらい日常的にPCを触っているユーザ、UnixクローンなOSが大好きなユーザ、いずれも確かに「世間から取り残されている」。そしてまた、改めて見てみると今のMacのUIも大して初心者に優しくなんてなくて、どちらかといえばマニアックな使い方をする方がふさわしいものになっている。

今更ながらのWBC

鬱状態が続き、しばらく放置。その間に世の中何があったのかさえよく思い出せない。

野球ではWBCで日本が優勝したのか。どのくらい前の話題かもう分からなくなっているけれど。私は韓国が優勝するものだと思っていた。そしてそのときには日本・アメリカと韓国の「差」に関する文章をものそうと思っていたのだが、残念ながら?書けなくなった。そうはいってもナショナリストである私のことだから、もちろん日本が優勝してくれてうれしいと思っている。

書こうと思っていた内容はざっくりいうと松井選手不出場と日本の「敗北」(実際のところとりあえず韓国には1勝2敗なのだから優勝しても実質敗北かもしれないが)との関連についてのもの。韓国だったら、松井選手が不出場という選択をすることはなかっただろう、その差が日韓の差だ。もとより私は「戦犯」探しをしようとしているのではない。松井選手不出場が日本「敗北」の原因だ、といいたい訳でもない。そうではなくて、松井選手不出場もそして日本「敗北」も、いずれも結果だ。あるいはこういった方が分かりやすいかもしれない。松井選手不出場は日韓のある差の現れ(兆候)であり、その差が日韓戦の勝敗を分けたのだ。もちろんその「差」とは端的にいえばナショナリズムである。

というような内容。ナショナリストの書くナショナリズム論だから説得力ある内容にできるかな、と思ったが、日本は結局優勝するし、私はほかの諸々で鬱状態だしで、すっかり書く意欲を失った。

Intel Mac miniのWindows共有機能

Intel Mac miniに関するメモ。

Mac miniをWindowsからアクセスできるファイルサーバとして使おうとするとWindows共有なる機能を使うことになる。本来だったらsambaを入れて、samba用のパスワードの設定をして、などなどごちゃごちゃいじらなくてはならないのだが、そこはMacOSX、「システム環境設定」からGUIのメニューをちょっといじれば、すぐ設定完了、となるはずだった。

どつぼにはまった。WindowsからMac miniにアクセスしようとするとパスワード認証が通らない。ユーザを別途作って試してみてもだめ。WindowsからMac miniの存在は認識できているのだが、とにかく認証が通らない。MacOS側で変更できるところがあまりに少なく、いじりようもない。MacOSのGUIなんて信用するか、と直接smb.confを開いてみるが、問題がわからない(sambaが平文パスワードしか使えない設定になっているのではないか、とかいろいろ疑ってはみたが、結局自力ではわからなかった)。

困ったときのGoogle頼みということでググってみると、果たして出てきました。

ひよこめもりーず:WindowsXPからMac OS Xのファイル共有で悩む

すばらしい。結論から言うとIntel Mac miniに載っているMacOSXの不具合といってよいのではないか。ということでApple、早期になんとかしてください、ということだが、とりあえずの対処方法としてWindows側のセキュリティ設定を少しいじれば、きちんと認証が通るようだ。

多謝!

不具合は不具合としても、MacOSXのWindowsPCとのファイル共有機能はなんだかんだいってもろSambaなわけで、GUIで簡単設定、というのは限界があると思う。Unixのことはからきし分からないWindowsユーザが、初心者に優しいMacOSというのを信じて高性能NASとしてMacOSXマシンを買ってきたら、絶対どつぼだ。

マカー

私事ながら、このたびわたしもマカーの仲間入りしました。

Intel入ってるMac mini。1.66GHz CoreDuo搭載の上位機。Intel化を待っていた訳ではなくて、単にお店で買ってもメモリ512MBになるのを待っていたら、Intel入ってるようになったという。

旧Mac miniとくらべ、メモリが増えて無線LANとブルートゥースが搭載されて、リモコンがついたけれど、お値段も上がって10万円近くもする。省スペースデスクトップを自分でくむことを考えて、冷静に値段を計算すればお得なのだけれど、旧Mac miniの手軽さはなくなってしまった。特に無線LANをわざわざデスクトップで使うことは、私はしないので、何となく損をした気分になる。

わざわざ上位機種を買ったのは、下位機種に載っているCoreSoloというCPUがなんとなく中途半端なCPUという気がしていて(わざわざ二つあるコアの一つを、差別化のために殺しているとか)、買う気がしなかったというのが大きい。おかげさまで?私が持っている4台のPCの中で一番CPUスペックが高い機種となってしまった。こりゃサブ機にするのは勿体ないな。

まだプリインストールされているソフトしか使ってないし、Officeのない状況では完全に乗り換えとはいかないのだが、できるだけMacの方を使っていこうと思う。ここの更新ももちろんMacで行っている。

なぜ今まで使い慣れたWindowsではなくて、Macをもっぱら使おうとしているのか?その辺りの話は追々ここで書くことにしよう。

しかし「ことえり」は「ATOK」はいうまでもなく『MS IME」よりも頭が悪い、気がする。まあCannaとかWnnよりは手になじみそうではあるが。

けものみち

よくよく考えれば、ここは別に「じっくり考えたこと」を書く場所ではなくて、日々の愚痴めいたことも含め、思ったことを書き散らす場として設けたものだった。それなのに全然更新しない日がこうも続くというのはよほど何も思わない生活を送っている、ということなのだろう。

確かに忙しくて何も書けない、というよりも、何も感じず、考えてもいない、という方が実感にあう。1,2年前はそういう状況になってもそこから脱する縁があった。今はそういうものが何もない。刺激をもたらすつきあいもなく、社会(科学)について語れる相手もいない。文化について共感できる相手もいない。

どこかで踏み誤ったのだが、しかしそれは1,2年前のことではない。20年、いやもっと前から歩く道を間違えていたようだ。しかもその軌道修正をする意志ももはやない、というのだから重傷だ。

大学情報処理教育(文系限定)

長らく更新していたなかった。

来年度以降の件でいろいろ時間的にせっぱ詰まってきて、物事をじっくり考えるという余裕がなかったというのもある。またより個別具体的な「問題」がはてなで書いている次元で生じていてそちらの方に気をとられていた、というのもある。

久々にこちらに書く。ただしただの愚痴だ。

今日、とある会合に出ていた。ざっくり「アカデミズム系」といっておこうか。疲れた。徒労感である。そして嫌悪感。自分自身への。

最近企業サイドで仕事をすることが多く、そちらで大学教育(文系)への期待感のなさ、というものへの憤りとか忸怩たる思いを感じてきた。マイナス評価ではない。最初から期待ゼロなのだ。

いや、大学でだってものは教えているし、それなりにいろいろ考えて、カリキュラム編成とかもしているし、学生だってそれなりのモチベーションを持っていろいろ学んでいる、こともあるよ、とことあるごとにいっているのだが、全く説得力がない。確かに企業が期待するものとはずれているかも知れないなあ、という思いも持ちつつ、釈然としない思いを抱き続ける。

今日、大学で情報教育のカリキュラムやら何やらに関する議論をしようという会合に出た。大学は大学でそれなりに危機感を持っているのだ、と思って、いろいろ時間的に余裕のないのを承知で出た。何かなし得るのではないか、という思いが正直あった。

何も出来なかった。危機感のある先生はいたが、その先生は情報処理分野に関しては素人で、情報処理に詳しいと自認する人は蛸壺の中にいた。自分の趣味の延長線上で得た知識を教えることが高いレベルの教育だと誤認しているのではないかと感じた。目的意識を決定的に欠いている。

単に論文を書くために必要な技術というのなら、手書きでも論文は書けるのだ。そしてそれよりもPCを使った方が楽だと思えば、それを使うだけのことだ。楽だと思えば、自分で勉強するし、楽だと思わなければ手書きで書けばそれはそれで素晴らしいではないか。ワープロなんて所詮その程度のものだ。情報処理教育といっても情報機器の使い方というのは所詮その程度のものであって、用は道具なんてものは必要があればその都度勉強すれば身に付くし、必要がなければ身に付かない、それだけのことだ。

なのに論文を書くために必要、以上の意義を情報処理教育に見いだせない。それだったら専門論文一本でも余分に読んだ方がよほどましだ。

情報処理教育をパソコンスクールにアウトソースする大学が増えている。そうした仕事を引き受けているところを知っていて、そこから派遣される講師の質の低さも知っている。かれらは目的意識というものは持たないが(インストラクターにそんなものは確かに必要ない)、操作方法だけならそれなりに上手く教えられるだろう。そうではない、パソコン教室とは違った、「情報」というものの流れとか仕組みとかを教えるのが大学教育の行うべきことなのではないのか。そして社会科学は、情報工学などとはまた違った視点で「情報」というものに着目してきたのではなかったか。そして私の知る限り、企業は実は単なるワープロソフトの操作技術、ではない情報に対する構えを必要としつつあるのだ。それは確かに一段抽象度の高い話になる。大学という長い時間をかけられるような場でなければ扱えない話にもなるだろう。それは街のパソコンスクールで教えているものとは大きな隔たりがある。なのに大学は自前の情報処理教育を投げ出して、街のパソコンスクールにアウトソースをする。

今や、その流れをとどめるだけのものを見いだすのは難しい。情報処理教育をパソコン操作教育(その中でのレベルの高低はあれ)以上の意義を見いだせないのではどうにもならない。そしてその現場にいながら手をこまねくしかなかった己の力不足を恥じる。