第55回教育社会学会大会理論部会

教育における「猥褻」さ−80年代「校則問題」と「教育的シニシズム」の醸成−

2003/09/20

はじめに

ミネルバの梟はせまりくる黄昏とともに飛び始める。

教育問題言説は、もとより、時代とともに変わっていく。報告者自身がテンポラリに経験した事象をたどるだけでも、80年代の「管理教育」とそれに対抗する「校内暴力」に始まり、90年代のいじめ問題から「援助交際」「少年犯罪」「学級崩壊」とさまざまな事象が問題化され、そして中心から外れていった。

そして何が今教育において問題とされているのか、が見えにくくなっている一方で、本来教育が関わりうるべき事象において教育が不在であることの問題も浮かび上がりつつある。その象徴的な事象として石原東京都知事の一連の発言とそれに対する反応(の弱さ)をあげておこう。「三国人」発言に始まり、「異質なるもの」およびそれに組するものに対しての排除やテロを煽る発言がある種の人間の心性に訴える部分があることそれ自体は悲喜劇として何度も繰り返されてきたことである。しかし一方でそれを抑制する力を少なくとも戦後の日本は保持してきた。その力とは雑駁に言えば「教養」であり、教育が養成すべきものであったはずだ。

学力の問題はさておき、こうした「教養」を養う力が低下したのには、もとよりさまざまな要素が絡み合っているには相違ないが、そのひとつとして、「正しい言葉」が通じなくなっている、そうした言葉が「ダサい」「ウザッたい」といった言葉でかき消されてしまう、という事態が挙げられる。「正しい言葉」が建前の、うそ臭い、偽善的な、空々しいものとして軽く扱われ、従来ならばまさしく「トイレの落書き」としてかかれていたたぐいの「本音」が真実に触れた、現実に根ざした、力のあるものとして受け入れられてしまう。

こうした状況のものとで一人の教師がいかに誠実に「正しい言葉」(いじめを止めよう、差別は駄目だ・・・)を伝えようとしても、多くの場合その言葉は届かず、素通りし、あるいは逆効果となって新たないじめのネタを提供するに終わることさえあるだろう。

報告者はこれまで(2001年2002年の教育社会学会報告など)、こうしたいじめや差別の問題を「言説」の次元で捉え、状況分析を進めてきた。しかしそのたびにある限界に突き当たることになった。それは「二つの言説」の強度に関わる問題である。いじめにせよ、差別問題にせよ、それをめぐる「正しき語り」と「本音の語り」が絡み合う。報告者はここで「正しき語り」を前面に押し出す限界を、さらに「正しき語り」を実効性を持つものとするための戦略についてこれまで論じてきたが、しかしそもそもそうした策を弄しなければならないほど「正しき語り」はなぜかくも弱く、一方で「本音の語り」は*あの*粗野な語りで「正しき語り」を無効化するほどにまで強くいられるのか。

こうした「正しき語り」の衰退の、その原因にはこれまたさまざまな原因が絡み合っているのであって、それをひとつに名指すことなどできない。本報告が(あるいはより長いスパンで)目指すのは、したがって、原因を探るのではなく、ただ衰退の現象を教育問題言説の中から取り出すことである。それによって教育的言説衰退の構造的な問題を浮かび上がらせることを目論む。

教育に明確な期待があればこそ、教育問題も強力な言説を構成する。そこでかつての教育問題言説をたどりながら、そこから「正しき語り」の構造を析出していく。本報告で中心的に取り上げるのは80年代の「校則問題」である。

言説の反復

起源の問題は問われないのだから、独創性の問題はなおさら問われない。言表を生みだすために、特定の誰かである必要はないのである。そして言表は、どんなコギトとも、言表を可能にする先験的な主体とも、言表を最初に発する(あるいは再開する)『私』とも、言表を保持し、流通させ、また更新する『時代精神』とも関係がない。

教育とは、その本質において「正しさ」を志向するものである。それをあえて冗長に言い直せば、粗野なもの・猥雑なもの・未制御なもの・カオスなもの−仮に非言説性なるものとでも呼んでおこう−を*対象*とし、それを構造化され、可視的な「正しき」教育的言説に回収する営みである、ということだ。

こうした教育的言説の典型的な形態は「校則問題」において見いだすことができる。

A「児童・生徒が心身の発達過程にあること、学校が集団生活の場であることなどからいって、学校には一定の決まりが必要であり、したがって校則それ自体は意義のあるものである」

「校則の意義、役割を考えると、必要以上に詳細な規定を設けたり、社会通念から見て合理的とは言えないような内容を定めたりすることのないよう配慮する必要がある」

『生徒指導ハンドブック』文部省教職研究会編

B「授業秩序や一般の校内生活秩序を守るのは生徒一人ひとりの意思と理解である。いやしくも中学生、高校生である以上、自分の意思で学び行動し個性を伸ばしていくことが大切であろう。教師はできるだけ生徒に自分で考えさせ、自分の意思で自由に行動できるように、そして他人と自分の人権の個性を大切にするように指導しなければならない」

『「校則」の研究』坂本秀夫p.112

秩序と個性の対立図式とその解決への道筋。一定の秩序に則った個への働きかけを主題とする教育的言説において、かかる図式は、定義の時点から原理的に、はじめから、組み込まれている。管理者(=教師・文部省)側が秩序を、生徒側が個性を主張して対立する二つの言説を立ち上げるのではない。もしそう見えるところがあるとすれば、一個の教育的言説が二つの立場を表象せしめている、といった方が正確であろう。

このことは生徒の側から見れば、二つの意味付けがなされているということになる。規範的な側面から見れば、生徒は己の持つ非言説性は抑圧されるべきものであって、言説的なる存在であれ、と呼びかけられているということになる。しかし逆にまたそれは、生徒は実存的には非言説性を帯びた存在であることが前提とされているということでもある。こうした生徒の二重性は、教師−生徒関係において、双方の立場において、利用される資源となる。

教師は己の立場の確立−生徒との差異化の根拠−を、己を言説的な存在に限定することによって獲得しうる。生徒に対して言説的な存在であれと要求することが重要なのであって、それが実際に達成される必要はない。そしてまた教師は己の持つ非言説的なるものを表出する必要がないし、また表出されてはならない。教育的言説は、まずもって教師が言説的存在であることを要求し、またそれでもって完結しようとするのである。

一方、生徒にとっては、それは「恭順」と「反抗」の使い分けとして利用される。学校・教師に対してポジティヴに振舞おうとすれば、生徒は言説的なふるまいをしようとするだろう。それは可視的なものであるだけに、比較的容易に反復可能なのであって、非言説的なるものとは無関係に達成しうるのである。こうして生徒の非言説的なるものは生徒の欲望(わがまま)として温存される。そして逆にこれが、生徒が学校・教師に対してネガティヴに振舞わんとするときの「悪しき」言説を生産するときの資源となる。

具体的に見てみよう。ある学校の校則(生徒心得)を掲げる。

校内生活

[A]個人が行うべきこと

服装
  1. 生徒は制服を着用し、男子は制帽も着用する。ただし夏期のみ男子は本校規定の白帽、女子は許可を得た帽子を着用してもよい。

    (ア)上衣、ズボン、スカート、カッターシャツ、ブラウスなどは、学校規定のものを着用する。開襟シャツやボタンダウンは着用しない。

    (イ)スカートは、下端が床上30cm〜35cmの範囲に入っていること。

    (ウ)ベルトは黒、茶、紺の色とし、幅は2.5cm以上とする。エナメル質や派手なものは着用しない。

    (エ)アンダーシャツは必ず着用する。Tシャツ、体操服、クラブのユニフォームなど着用しない。

    冬期の服装について
    (省略)

  2. 生徒は右胸に名札をつけ、名札に学年、組、氏名を入れる。
  3. 頭髪は清潔にし、髪形は中学生らしいものにする。
    男子髪を下ろして眼にかからない程度
    耳にかぶさらない。
    えりがかくれない程度
    女子髪を下ろして眼にかからない程度
    肩にかかるようになれば切るかくくる。

    ○パーマ、カール、染毛や整髪料の使用は禁止する。

  4. 靴下は、白地のものを着用する。(ライン入りは認める)
  5. 本校は三足制とする。通学は定められた運動靴または雨靴、校舎内、体育館ではそれぞれ定められた靴を使用する。
  6. 6月1日、10月1日を衣替えの目安とするマフラー、手袋は12月1日から2月末日まで着用してもよい。

以上がこの学校の「服装」に関する規定のすべてである。もとより「本校規定の」制服着用が前提としてあるためそれほど自由の余地はないのだが、行数から見ればそれほど「微に入り、細にわた」った規則とも見えない。しかし頭髪における「中学生らしい」といった、よくありがちだが、非常にあいまいな規定の中に混じって、これまた奇妙に細かな規定が混じりこんでいることに気づかれよう。

スカートは、下端が床上30cm〜35cmの範囲に入っていること。

ベルトは黒、茶、紺の色とし、幅は2.5cm以上とする。

これもまたありがちではあるが、しかし他の規則と比較して奇妙に細かなこの規則がいかなる経緯で策定されたのかは分からない。ただここに生徒の側による規則の「穴」の発見と教師の側によるその繕いというゲームの展開の痕跡を見出すことができるだろう。

ただしこの「穴」の発見は生徒の本来的な欲望によってなされるというよりは、「穴」の発見が「欲望」の位置をしめるということである。生徒は「正しき」言説を参照するだけで、己の規範的な態度はもとより己の「欲望」までも直ちに生産できるということなのだ。

このように教師と生徒は各々「正しき」言説を巡って双方の立場を再認し、教育的言説が再生産されることになる。生徒の「欲望」に依拠した振る舞いもまた教育的言説の反復に過ぎないのである。

言説の構造

欠如は厳密には文章全体の中で用語そのものによって指示されているのである。点線―空白―を消し去れば、われわれは文章を再構成するだけであるが、この文章は、文字通りにとれば、自分自身の中に自分で空虚の場所を指示し、これらの点線を、言表自身の「充実」によって産出された欠如の住処として再建する。

にもかかわらず、現実には教育的言説は常に何かを恐れつづける。いったい何が言説を挑発しているのか。そして教師はいかにこの言説を守ろうとするのか。言い換えるなら、言説は何をめぐって生産されているのか

引き続き「校則問題」を題材に考察を進めよう。「校則」の問題化とは、とりわけ80年代半ばより、一歩離れた立場から見れば、全く馬鹿馬鹿しくも見える細かな校則の存在が取りざたされ、「生徒を管理の対象としてしか見ない学校」が告発されたものである。

もちろんこうした学校側の振る舞いには現実的な根拠があったと見なければならない。この現象において教師が恐れたもの、あるいは守ろうとしたものの中に、教育的言説を解体させうる何物かが確かに潜んでいたのではなかったか。

もう一度先に挙げた校則の中の奇妙に詳細な規定を掲げよう。

スカートは、下端が床上30cm〜35cmの範囲に入っていること。

先に示したようなゲームの帰結たるいささかアドホックに見えるこの規定がしかし、一定の普遍性を持つ規定であるということ、さらに同じありうべく「穴」の発見(アンダーシャツの色など)に先んじてスカートの丈がまずふさがれたこと、ここにこの規定の持つ、単なる一連のゲームの偶発的な帰結ではない「必然」が見られる。

「なぜこの規則があるのか?」という問いを仮に教師に投げかけたとき、いかなる回答が想定できるだろうか。経験の問題として直ちに想起される「規則なんだから守りなさい」という多くの教師が繰り返すであろう「回答」が何の回答にもなっていないトートロジーであることに、当の教師自身も気づかないはずがない。にもかかわらずかれらはそうした「回答」を反復しつづける。このいささか苦しい回答以外の回答が言語として簡単に浮かばない一方で、この校則の存在自体(評価する、しないは別にして)十分理解可能であるということ、ここに校則問題の焦点がある。

先の問いかけに対するトートロジーでない回答を仮にするとすれば、以下のようなものが考えられる。

この括弧の中は「女らしい」というような言葉が入るはずだが、しかしそれはおそらく明示的には語られない。さらにウの主語(授業に集中できない)が誰かも定かではない。決定的に欠落しているのは「女らしい」という言葉ではなく、「女らしい」と感じる主体である。

「何か」を語りながらその「何か」をはぐらかしつづけるこの言説は、構造的に脱中心化し、内部に空白を抱え込むことになる。教育的言説の論理からすれば、この欲望の主体の位置には生徒がいなければならないのだが、先に述べたごとくこの空間においては多くの場合生徒の欲望は教育的言説の反映物としてしか存在していない。この空白を補填する主体の立場を巡って言説は構造化されることになる。

言説の中心

「汝は我にかくのごとく語る。だがそれによって汝は何を欲するか?汝の目指すところは何か?」。・・・この疑問符は、言表と言表行為とのずれの残留を示している。言表のレベルでは、あなたはこう言うが、あなたはそれによって、それを通して、何が言いたいのか。

クラブ活動などに見られる「団結」、生徒の「憧れの対象」となる教師、こうした現象は少なからず生徒の欲望を掻き立て、制御することによって成り立っている。この限りにおいて言説は力強いものである。

教師が教育的言説を見失うのは、欲望の主体が生徒ではなく、教師に割り振られるときである。教師が言説の対象として、言説の中に取り込まれる事態、このとき、教師―生徒関係は崩れ、教師の発する言葉は力を失う。つまり教師のもつ恐れとは、生徒が性的な欲望を持つことではなく、教師自らが性的な欲望を持つとされることへのおそれなのである。だから教師の*対象*の位置にいる生徒は、それが性的な「欲望の対象」となる可能性を排除すべく徹底的に非性的なみかけをしていなければならないのだ。ここにこそとりわけスカートのすその長さに関する教師の「過剰」な取り組み、校則をめぐる教師のトートロジカルな物言いの根拠が存在しているのだ。

教師は学校においては言説的=非性的な存在でなければならない。これは外的な規律というのではなく、教師という立場性の問題として、そうなのだ。もちろん個人のレベルでは生徒を「性の対象」としてみる教師がいることは当然ありうべきことなのだが、「職業人」として、かれらは「性的主体」から脱さなければならない。「そうでなければ<私>は教師ではない」。一方で、生徒から「性(エロス)の対象」としてみられることは厭わない、あるいはうまく利用してもそれはかまわない。エロ教師であっては困るが、「エロスの対象」たるカリスマ教師であることはむしろ喜ばしいことなのである。

学校の守るべき規範にとってもっとも脅威なのが、教師が欲望の主体とされてしまうという事態なのである。このことは、教師と生徒の立場が最も効果的に逆転する場面の一つを思い起こせば納得できるだろう。それは教師−生徒の一対一の指導中に、生徒が突然「先生にセクハラされた」と叫ぶ場面である。

教師の発する言葉はそれゆえ、己自身をその中心から逃すものとなる。言説の中心には常に自分ではない誰かを置かなければならない。それでも教師が欲望の対象でいられるうちは、言説は欲望を取り込んだ力強いものでありうる。しかしそうでない状況にひとたびなれば(そして一般論として生徒の欲望の対象になれる教師など少数派なのだ)、かれの発する言説は欲望という層を排除した、他人行儀な、上滑りの、空々しいものとなってしまう。生徒にとって教育的言説は何ら己の欲望と関わるものではなく、それへの恭順か、反抗かをその場その場で判断しつつ、その態度決定をすれば済むゲームの素材に過ぎないものとなるのである。

おわりに

「校則」問題が示しているのは、生徒の欲望が肥大化したことによる教育の不可能性の徴候ではない。教師自身の欲望が教育の場からかき消されざるを得なくなったことによる教育の困難さの徴候なのである。

校則とは学校秩序の象徴であり、経験的に言っても生徒による校則に対する態度と教師の言葉に対する態度とは一定の符合が見られる。生徒が校則にうそ臭さを感じるその帰結としてさまざまな教育的言説も「欲望」の制御力を失い、「うそ臭い」ものになり、「欲望」は言説の外に沈殿することになる。そしてこの「欲望」は教師の制御の利かないところで表出されることになるのである。校則をめぐる語りから浮かび上がってきたのはこうした「教育的シニシズム」とでも呼ぶべき事態である。

この「教育的シニシズム」を醸成したのは、「語り手」が欲望の主体の位置から逃れようとするその構造であるということだ。欲望の主体から逃れた結果、「語り手」は確かに正しい/客観的な/安全な立場にいられる。しかしその帰結として、語りは表面的な/上滑りの/安易なものとしてしか響かなくなるのである。

この「教育的シニシズム」が、教育的言説の構造と相俟って、いじめ問題、差別問題といった語りにおいていかなる効果をもたらすのか、については次の課題としたい。。

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