第53回教育社会学会大会理論部会

差別問題教育のパラドクス

2001/10/06

はじめに

差別問題教育に関わると、教える側教えられる側を問わず、そこはかとないむなしさ、徒労感を感じる場面に遭遇することが多い。教育を受ける側にとっては、教師の言わんとしているところは理解できても、差別ということに対する実感は湧かないし、映画などを見た後で感想文を書けといわれても、白々しい言葉しか浮かんでこない。こんな経験を持つものが少なからずいるように思う。さらにそうした感想文をクラス全体で書いた後、授業で教師がそれなりに慎重に教えたはずの差別的な用語が、教師の意図を裏切って、他者を貶める言葉の中に加わるのを見ることすらあるのだ。

逆に教える側の立場にたったとき、平凡な教師にとってみれば、差別問題教育の場は所詮「他人事」としてしか伝えられないもどかしさ、無力感を味わわされる場になりかねない。もとよりそれは「おまえの力不足だ」「おまえが差別に真摯に向き合った経験をもたないからだ」と言われれば、その非は認めるしかない。しかし、差別問題教育が各学校で行われるべきであるとき、自身の経験ではなく頭でしか差別問題を考えられないものであれ、教育に関わらざるをえないのもまた確かなのだ。

以下の報告はこうした平凡な教師(私)のつたない実践の「失敗」の記録である。ただこの失敗が教師個人の資質の問題にとどまらない何かを持っているということ、そして逆にこの失敗の中に何か得るところのものがあるのではないかということ、それを見極めたいのだ。

ある事例から

A,B二つの回答はX看護学校の授業で差別問題を取り上げた際に書かせた小レポートの一部である。

「あなたが何気なく言った発言を人から「それは差別表現だ」と指摘され、非難されたら、どう対処し、振る舞うか」

A とりあえずあやまる。自分が何気なく言った言葉でも相手を傷つけてしまったとしたら謝るのが当然でしょ。私はそんなつもりで発言したんじゃないと言うことを分かってもらえるまで説明する。相手の被害妄想かもしれないし、ちゃんと話し合わないとお互いつらいだけだから・・・。

「身内に同性愛者がいたら、その人とどう接するか」

B もし自分の身内だったら嫌だ。兄弟の縁を切りたい。その人の自由といえばそれまでだけど、私にも周りの人達にも立場ってものがあります。差別だ、偏見だといって意見を述べているあなたをみたら人は「えらい」「頑張っている」と思ってくれるかも知れない。でも私からみたら周りのことを考えないただの「わがまま」にしか思えない。「何被害者ぶってんの−」ってかんじですね。

この二つの回答の「落差」にここでは着目したい。

しかし「落差」以前にこの二つの「問−回答」を並べるのに違和感をもたれるかもしれない。前者は「無意識」をとがめられた場合の対処を問い、後者は意識そのものの存在を問うている。しかしそれでもなお、「他者」と関わる態度には並べて比較しうるものを含んでいるとはいえるだろう。Aの回答には、相手の痛みを理解し、自分に差別の意志がなかったことを理解してもらおうとする「誠実さ」が見て取れる。それに対してBは、そもそも相手の痛みの正当性すら認めようとせず、自分の「立場」、都合だけを押し出しているかのような印象を受ける。

実はこの二つの回答は同一人物の回答である。Aは授業開始早々の回答であり、Bは授業が数回進んだあとの回答である。となれば、この「落差」をうみだしたこの授業−AからBの間になされた授業−は、学生の認識に関してどのような効果を持ったのだろうか。この回答をした学生の「認識」は前進したといえるだろうか、あるいは後退してしまったと言うべきなのだろうか。

模範回答

ここで仮にA,Bの順序が逆であったと想定してみよう。その方が*私*には安心する結果といえるだろう。差別意識丸出しで、相手とのコミュニケーションを拒絶しているかのごときBの回答から、Aの回答をするまでこの学生の「認識」は前進した。少なくともAの回答には隙がない。模範的な回答といっても良いだろう。

一方、Bの回答に対しては様々な「教育」を施す必要性を感じるだろう。自分とは異なる個性を持つ人を尊重する必要性について、文化多元主義からセクシュアリティの構築性、マイノリティと呼ばれる人の立場の弱さ、様々な「知識」を動員して、この学生の認識を変えようと試みるだろう。

そうしてそうした努力の結果たとえば次のような回答がなされるようになれば、*私*は安心するのだろうか。

C 私はゲイやレズビアンの人に対しておかしいと思うことはありません。男が女を好きになったり、その逆であったり、同性愛であってもそれは個人の自由だと思います。自由に恋愛できないなんて苦しすぎると思います。ゲイやレズビアンの人を一人の人間としてみられない人達が不思議です。

確かにBの回答をしたものが、更なる授業の結果Cの回答をするようになるならば、そこに何らかの成果があるのは間違いない。そしてそれが有意義な形で達成される授業というのはもちろんあるだろう。BからCへ回答が変わっていくプロセス−いかなる授業がなされ、それを回答者はどのように受け止めたのか、その結果自らのBの回答をどう評価するにいたり、Cの回答をしたのか、など−が見えてくれば、こうした授業の成功を見定めることができるだろう。その意味で、Aの回答をしていたものをBの回答へと導いた私の授業は明らかに「失敗」している。ただここで重要なことはこの失敗が「成功」との真逆の方向を向いているのかを問うこと、そうして可能性としての成功の方向を探ることである。

今回の場合Cの回答は二番目の問いかけに対する別の学生の回答である。仮に授業の結果、Bのごとき回答がなくなり、みながCのような回答を書くようになったとしたら、その授業は成功した、と言うべきなのだろうか。あるいは、初めから(BからCへの過程抜きに)こうした回答が並んだ場合、差別問題について(より詳細な事例や事項の説明などはするにしても)それ以上問題にすることはもはやない、とみなし得るだろうか。その場合に気になるのは、AとCとの間にどれほどの断絶があるのか、という問いである。問自体は違うとは言え、Aとて差別に向き合う態度としては一定「誠実」とみなしうるものを含んではいたはずだ。そのAがそのままBと一人の人物の中で矛盾せずに語られる危うさを含んでいるとすれば、Cの回答にも同様の危うさを感じるのである。AがそのままBと一人の人物の中で矛盾せずに語られる状況において、A,Cの回答の持つ「問題のなさ」と教師はどう向き合えばいいのだろうか。

言説としての<模範回答>

さしあたり問題は、「はじめに」でも挙げたように教師に対して提出される回答・感想というものは、別に差別問題に限ったことではないが、一定の「配慮」がすでになされてしまっている、ということだ。そしてそのこと自体はどの教師も知っている。そのような状況の中でなお、教師は生徒の理解・反応を引き出し、確かめなければならない。しかしそれはいかに可能なのか。こうした教師−生徒のやり取りの一つの帰結を想定し、そこに潜む罠、問題性を見てみよう。

A,Cともにさしあたり生徒の想像しうる範囲で、十分に教師の期待に添った回答である。したがってこの回答は仮に「教師」(具体的に目の前にいる教師というよりは今まで関わってきた学校的「良識」の体現者たる抽象的教師像)の意図を汲み取るだけでも書ける回答である。自分なりに差別問題に向き合おう、自分なりに「正しい」事を書こう、目の前の教師にそれなりに受けよう、余計な突っ込み、指導など受けないように無難に回答しよう、そうした様々にありうる思惑の違いを越えてなされる回答なのである。問題は、差別問題について真摯に考えようとしているものですら、うさんくささや白々しさを感じながらも「模範回答集」の中にしか語りの言葉を見いだせないということである。

AもCも、十分に模範的であるが故に、回答者の差別問題に対する考えとは無関係に産出されうる、ということだ。いわば学生はこうした「模範回答例」集のようなものを持っていて、必要とあらばいつでもそこからの「記述」を再現可能であるということなのだ。だからといってCの回答は言うまでもなく、Aの回答だって、学生が心にもないことを適当に言ったのだ、といいたいわけではない。心にあるとかないとか以前にこうした回答を産出する構えと言うべきものが備わっている、ということだ。そこには巧拙の違いはあれど、抽象的に目指されるべき「模範回答」がすでに存在していて、共有されているのであって、そこを参照するだけでこと足りるのだ。

そうだとすれば、*私*の以下の努力は徒労に終わることになる。

  1. Bの回答の問題点を指摘して、考えを改めさせる。

    かれらは*私*のくどくどとした説明を聞かずとも、*瞬時に*考えを改めることが可能なのだ。

  2. C(やA)の回答にあるかもしれない不十分な点、揺らぎなどを指摘して、かれらの考えと回答のずれを引き出そうとする。

    かれらは己の回答の不十分さに気づくや、より正しい「模範回答」を求めることが可能である。

こうしてかれらは最初から最後まで「模範回答」に立てこもって、*私*の突込みをやり過ごすことができるのだ。

さて、真の問題はここからである。前に書いたようにとりわけ生徒−教師関係においては、生徒は差別問題に限らず、しばしばこうした「配慮」−教師の期待するよき生徒として振舞う−を行うであろう。それを一概に否定して、教育の不可能性などを嘆いてみるのはここで意図するところではない。そうではなくて、ここでの差別をめぐる「模範的」言説が、差別問題に関わる主体に対していかなる効果をもたらすか、を問いたいのである。

パスカルの祈りの儀式のごとく、儀礼的な行為の反復−この場合模範回答の反復−とて主体化に何らかの積極的な作用を持つだろう。そしてそれは必ずしも儀礼の表層的な目的に沿ったものとなるとは限らない。重要なのは儀礼が、その内容とは別個に、いかなる呼びかけを行っているかである。それは模範回答の<存在>、あるいは生徒−教師関係の一般的な形式によってすでに表されている。「よき生徒としてより正しい回答をせよ」。こうした教育言説の呼びかけの中で主体化された生徒は、差別問題に対してはいかなる主体となるのだろうか。以下ではそのありうべき一つの帰結を見てみよう。

クローゼットの見せ物

仮に上の事例で、Bの回答を「正し」、さらにA,Cの回答を「追いつめ」、かれらの回答がバージョンアップを重ねていくということに終始する場合、その過程でかれらはなにを学ぶのだろうか。もちろんそうした過程の中で、「模範回答集」とは違った形で、差別問題に向き合おうとするものがでてくることを否定はしない。しかし他方で「模範回答集」に依拠し続けるものがいるとすれば、単に無限の「模範回答」の書き換えに終始するのみで、かれらが得るのは、もしかしたら「差別問題ってめんどくさいな」という教訓になるかもしれないのだ。

そしてこの「めんどくさい」という心性は、差別問題に対して迂闊には近寄らないように、無難に接しようとする態度、「敬遠」と呼ぶべき態度、遠巻きにしてその現場を眺め、なにか態度表明を迫られるや「模範回答」を反復する態度の基礎をなすものである。差別問題教育はともすればこうした循環に陥る可能性を持っている。

こうした差別問題言説の中で、かれらは積極的には差別に荷担しないように振る舞うだろう。このときかれらは差別問題における「傍観者」、「観客」の立場をとることになる。そうしてこうした「観客」としての態度こそ、E.セジウィックのいう「クローゼットの見せ物」の構造に他ならない。<そこ>には迂闊に語ってはならない面倒なことがある。<そこ>は特別に注意深い配慮を必要とする言説の「空白」として、充填されるべき主体の位置を確保し、待つ。そして語ってはならない(Bのごとき)語りは、観客たちの間でのみ、声を潜めて語られる。「声を潜める」ことで、かれらは舞台に立たずに観客でいつづけられるのだ。

こうした構造において、差別*問題*を見守る「善意」のかれらの視線は、あるいは悪意を持った差別者の挑発、あるいは「無知」な者のナイーブな発言などで、いったんあるひとが差別問題の場に引き出されやいなや、かれを<見せ物>として浮き上がらせてしまうことになるのである。ここでは「声を潜めた」語りが強力な言説を構成することになる。

言説の再接合

となれば、*私*は生徒の回答をいかなる方向に導くべきなのであろうか。先の議論からすれば、いかなる回答も「模範回答」に回収されてしまうことになりかねない。その通りである。問題は生徒の回答の中には存在していないのだ。あらゆる回答が、教育的な場における「正しさ」の言説に回収され、そのバリエーションとして産出されてしまうことこそが問題なのである。差別的な語り、例えばトイレの差別表現に満ちた落書きなどが、差別というより反学校的価値という意味合いから発せられうるのだ。反学校的・反教師的振る舞いがそのまままた差別的振る舞いになってしまう。学校的「正しさ」に対する肯定的/否定的な態度のいずれもが差別問題言説に接合されて、そのなかで意味を持ってしまうのだ。学校的「正しさ」と対立する語りは、非公然化されるということによって、「タブー」「本音」のごとき意味合いを持つこともあるだろう。

差別問題に向かう態度を問う呼びかけが教育的な「正しさ」の言説の中で発せられるとき、差別する主体・差別される主体をうみだしてしまう。そうであるならば、*私*のなすべき第一のことは差別問題言説を、教育的な「正しさ」の言説から切り離すことになるだろう。

最初の事例に戻ろう。じつはBの回答は報告者の意図的な働きかけの結果出てきた回答であった。一般論ではなく、自分たちの実感をうそをつかずに書いて欲しい、と要求し、また質問も「実感」をもとにしやすいように方向付けている。その意味ではBもまたA,Cと同様、教師の意向に沿った回答であったというべきかも知れない。

ここでAとB、どちらが学生の本音により近いか、というのが問題ではない。ここでの問題は、教育の場ではAのごとき「正しい」語りのみが流通し、Bのような語りが非公然化される傾向があるということ、そしてBは非公然化されることによってむしろ強力な言説を構成してしまうということである。そうであるならば、Bをいったん公然化させ、舞台の上に上げること、そうして安全な観客の位置にいつづけることを阻止すること、それがこの授業のさしあたりのねらいであった。ただいったんBが公然化された後、ではいかに「教育」を進めるべきか、に関しては依然上で述べたような矛盾、困難を抱えている。教師はBを舞台の上にあげつづけなければならないが、生徒はいつでもBを撤回して舞台を降りてしまえるのだ。

おわりに

差別問題教育において「差別的」含意を持った語りをそのまま放置するしかないのであれば、何のための教育か、ということになるだろう。実際、「正しさ」を要求されない(教育以外の)場では被差別者を嫌悪・排除する語りはそこかしこでなされている。そうであればこそ、教育はそうした状況を少しでも変える努力をする責任がある。

しかし、差別的な語りを「正しい語り」に方向付ける営みのもつ陥穽について見てきた。ここにおいて私たちは困難な道を歩まなければならなくなる。反差別の言説は、普遍的な言説として展開できず、様々な語り(差別問題教育において否定的な意味を持つものも含めて)を含みこんだものとして展開されざるをえないし、またそういうものとしてなお意義付けられなければならない、ということなのだ。それが具体的にいかなるものとして構成されうるのか、そこに至るには更なる理論と想像力が必要となるだろう。

パスカルの祈り

「パスカルはおよそ次のことを語った。つまり<ひざまずき、祈りの言葉を口ずさみなさい。さすればあなたは神を信じよう>」(Althusser,p.78)

クローゼット

「クローゼットの付近では、発話行為として数えられる行為それ自体さえも、まったく日常的なペースで問題化される。(中略)『クローゼットの中にあること』それ自体が、沈黙という発話行為によって始められたパフォーマンスである−それは一つの独特な沈黙ではなく、それを囲み、差別的にそれを構成していく言説との関係に応じて、発作的にその独特な色合いを蓄積させていくようなものだ−」(Sedgwick,p.12)

「世間全般を、つまり『世俗的なもの』を(超越している可能性はあるとしても)含む一つの宇宙を分節化できる能力は、たぶん二つのクローゼットの間にはりわたされた、緊張した相互投射の軸線の周辺から生じるのだということだ。この二つのクローゼットとは、第一には見られるクローゼット、すなわちクローゼットの見世物であり、第二には中に隠れてその見世物を枠にはめ、消費する方のクローゼット、すなわちクローゼットの視点である」(p.325)

多様性の言説

「左翼の統一された言説という可能性もまた消滅させられる。さまざまな主体位置と種々の敵対性や決裂点が、多様化ではなく、多様性を構築するのであれば、それらを単一の言説によって全て包括・説明されうる点へ通し戻すわけにはいかないことがはっきりする。言説的な不連続は、一次的で構成的なものになる。根源的な民主主義の言説派もはや、普遍的なものの言説ではなく、『普遍的な』諸階級や諸主体が語りだす認識論的な場所は根絶され、さまざまな声のポリフォニーに取って代わられてくる。そうした声のおのおのは、みずからの還元不可能な言説的アイデンティティを構築するのである。このことは決定的である。すなわち、根源的で複数的な民主主義は、普遍的なものの言説の放棄、そして限られた数の主体によってのみ到達されうる『真理』への特権的な接近点という暗黙の過程の放棄なしには存在しないのである」(Laclau,Mouffe, p.300)

文献

Althusser, L 1970 Ideologie et appareils ideologiques d’Etat=1992柳内隆訳「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」『アルチュセールの<イデオロギー論>』三交社
Sedgwick, E 1990 Epistemology of the Closet=1999外岡尚美訳『クローゼットの認識論』青土社
Laclau ,E Mouffe, C 1985 Hegemony and Socialist Strategy=1992 山崎カヲル・石澤武訳『ポスト・マルクス主義と政治』大村書店
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