ブルデュー社会学の反省性の問題と対象の変更

はじめに

価値中立性の問題は社会科学においてはつねに重要な問題である。社会科学の対象が、研究者自身の属している「社会」である以上、研究者がいかなる立場から社会を見るのか、そしてその発言が社会にいかなる影響を及ぼすのか、はつねに無視し得ない問題として考えられてきたのである。本報告はこの問題を巡る議論の一つとして、ブルデューの「客観化の客観化」のもくろみを検討しながら、観察者と対象の関係を捉え直すことによって、この問題の解決を探ることを目的とする。

1. 「客観主義」

社会的なものは、…、われわれの内なる観念の所産、すなわちこの観念を人間相互間の関係に伴って生じるさまざまな状況に適用したものに過ぎないかのように映じる。…
社会生活のことこまかな事実、すなわち具体的な個々の形態は、われわれの意識から逃れていながら、少なくとも集合生活のもっとも一般的な諸側面だけは大ざっぱに近似的にわれわれのうちに表象されている。この図式的で大ざっぱな諸表象こそが、ほかでもない、われわれが日常生活のなかでなにげなく依拠しているあのさまざまな予断を形成している当のものである。…人はこの予断のうちに真の社会的実在を見てしまう。(Durkheim)

それに対してデュルケームはそうした予断から切り離された「きわめて特殊な性格を帯びた一群の事実」の存在を指摘し、それを「社会的事実」として社会学の真の対象であると宣言する。とりあえず通俗的に理解しておけば、デュルケームは社会科学においても自然科学と同様の「客観的対象」を措定することで、先のアポリアから逃れようとしたことになるだろう。

ブルデューも、社会的世界を直接に知ることが可能であるという幻想を提供してきた盲目的自明性を、無批判に受け入れた「自生社会学」からの切断を、デュルケームの立場にのっとって行う。しかしまた同時に、「客観主義は現実の説明の中に現実についての表象を統合することを省いてしまうことによって客観性を欠いてしまう」として、理論の中に行為者の「一次的経験・表象」の再導入を企画する。

デュルケームが「一次的経験・表象」とは独立した対象を作ろうとしたのに対して、ブルデューにとっての「主体」の常識的な観念から切断された対象とは、「一次的経験・表象」を生成するものとしての社会構造なのである。ブルデューにとって「一次的経験・表象」は社会的事実の重要な構成要素となるのだ。

このようにブルデューの「主客二元論」図式の乗り越えは、基本的には客観主義的な現実の存在を承認しつつ、その中に行為者の現実についての表象(主観主義的な現実)を統合することによってなされる。

細かな点はともかく、あるいは実際の正否はどうあれ、デュルケームは社会科学においても自然科学と同列に扱える「社会的事実」を対象とすることを宣言することによって、価値中立性の問題を抜け出す。一方、ブルデューの場合はそう簡単ではない。あくまで扱う対象が「一次的経験・表象」に依拠する以上、観察者の視点もまた対象の中に織り込まれざるを得ず、対象は「ものとして」扱いきれないのである。

そうなると観察者の視点をさらに理論に導入していくことになるだろう。デュルケームは社会的な対象を客観化した。しかし、それを観察しているものの立場を客観化するのを怠った。それを考慮に入れた分析(研究者の自己分析)が必要となる。これが<客観化の客観化>である。

しかし、これで問題は解決したのであろうか。<客観化の客観化>は、さらなる「客観化」を要請するのではないだろうか。そうなると「客観化」は無限に繰り返される必要があることになるのではないだろうか。

ブルデューにとっての認識論的問題は、どうやら「客観」をどう位置づけるか、という問題に帰着しそうである。エスノメソドロジーに対しては、言説が流通する場をとりまく社会構造を論じていないと批判する一方で、マルクス主義やデュルケームに対しては、客観的構造を自明視していると批判するとき、「じゃあ、お前のいう構造とは何だ」という問いかけが、当然予想されるのである。

2. <客観化の客観化>

ブルデューは現実を主観的意味と客観的関係の二重性を持ったものとして捉え、両者のずれを一方の意味に還元することなく説明しようと試みる。もし、客観的関係の存在をはじめに宣言してしまうことが出来たなら、主観的意味はただちに客観的関係を正統化するという「客観的」意味が付与されることになるだろう。ブルデューの<誤認−承認>という語り口からは、こうした「真の」客観的意味の存在とその隠蔽=正統化作用としての主観的意味の立ち上がり、という説明で完結しているようにも見える。しかしくりかえすが、ブルデューは客観的関係をアプリオリに語ることを拒否しているし、実際、客観的構造を直接語る理論(例えば正否はどうあれ、マルクス主義の階級論のような)を持ってもいないのである。こうなるとブルデューは、観察可能な「一次的経験・表象」を手がかりに、客観的構造を摘出していくという手続きをとらざるを得なくなる。

行為者の表象は、議論の出発点においては自由であり、自律している。この自律性の限界をアプリオリな客観的構造を持ち出さずに説明していく必要があるのだ。

さてブルデューは主体的、主観的行動と客観的構造の連関についての議論を行為者と「界」、社会空間の連関として説明していく。

ブルデューの「界」概念は、行為者がプラチックを産出する場であり、主観的な表象の次元にありながら、社会的な諸条件に束縛された場であり、いわば主観的世界と客観的世界が既に統合された空間である。とはいえ、これでは説明したことになっていない。主観的な論理でこの空間を記述するのは、定義上表象されているのだから、可能である。問題は、この主観的な論理の限界を画定する客観的な論理をいかにこの空間の中に持ち込むか、である。

この客観的な構造をブルデューは社会空間と置く。経済資本と文化資本という二系列の資本の総量と比率によって各行為者は社会空間上に位置づけられ、その地位が各界での行為者のプラチックに「表象」される。こうして界の自律性は限界づけられる。

さてこのとき、社会空間と界とのつながりはモデルとしてどのように表現されうるであろうか。もし、界が社会空間の表象形態であると考えるならば、界は社会空間に究極的には規定されているのであり、社会空間は特権的な構造として設定されることになる。そうすると界の自律性はたちまち「誤認」の産物となり、決定論的な議論になってしまう。しかし、ブルデューは周到にそこから抜け出す。ブルデューは、社会空間を界の集積として、理論上見いだされる概念的な産物であると見なすのである。

…社会空間は、それが図式の形で示されるということだけからも充分わかるように、ひとつの抽象的表象である。つまりそれは特殊な構築作業を行うことによって作り出される…ものなのだ(Bourdieu, 1979)

このようにブルデューは、社会空間を客観的な実在として先験的に設定することを拒否する。そして、社会空間をプラチックによって構造化された界の集積によって表現されるものとして概念化するのである。

この界同士は固有の論理をもった自律的な構造である。しかし、この自律性は、統計的に把握された職業・収入や学歴・文化的選好といった資本量の対応関係によって、相対的なものに過ぎないことが確認されるのである。そうなると、課題はこのように統計的に確認された対応関係をいかに説明するか、自律性の限界をいかに説明するか、「抽象的表象」をいかに客観化していくか、である。

「界」におけるプラチックの自律性の限界を定めるのが、心的諸傾向の体系としてのハビトゥスである。

ところが、ここには依然、困難がある。ハビトゥスは一方では客観的・社会的諸条件が内在化されたものとして、その限界内でしかプラチックを生みだし得ない、構造化された構造である。しかし、この概念には、同時に決定論からの脱却(構造化する構造としての側面)も託されている。

このように、ハビトゥス概念は、「主客二元論の克服」、「相対的自律性」を説明する概念として位置づけられていくことになりうるだろう。この解釈の場合、たとえば「こうした(主体的な行動に注目することによる変化の視点と、その行動が結果として構造の維持につながるという)論理は、諸個人の行動を支える内在的な規範システムとしてのハビトゥスが『構造化する構造』としての側面と『構造化された構造』としての側面を併せ持っていることに由来すると考えられる」(小内)といったように、ハビトゥス概念の二重性に、この問題の解決がゆだねられるのである。こうした理解のもとでは、ハビトゥスが自明的な、すべてを説明する万能の構造として扱われてしまわないだろうか。ブルデューのテクストの中には、このように説明されるべき様々なことがらをハビトゥスというブラックボックスに押し込んでしまっているような印象を与えられることは事実であろう。

実際にはブルデューの記述は、プラチックについての記述を丹念に積み上げていくことによって、多様な界のロジックを摘出しつつ、その連関を述べていくことで、社会空間を「特殊な構築作業を行うこと」で概念的に作り出していくものである。従って社会空間上の位置によって規定され、ハビトゥスを構造化する「階級の存在状態」もまた、構築的な概念である。そしてハビトゥス自体が、プラチックの一定のまとまりによって、構築された概念である。つまり、ブルデューの再生産論は、確かに

社会空間→階級の存在状態→ハビトゥス−(界)→プラチック

という規定関係を語ってはいるのだが、各々の概念はプラチックの実証的な研究をベースに概念的に構築されたものなのである。ここにブルデュー理論の難しさがある。彼は一見先のプラチック産出過程を現実的、実体的な過程であるかのようにかたる。しかし、既に見たように、出発点たる社会空間を実体視して、自律性の論理が彼の理論から「消える」瞬間に彼はその実体視を戒め、界とハビトゥスによって概念的に構築し直すが、そのハビトゥス概念もまた、プラチックの統計的な規則性から構築された概念なのである。

このようにして、ブルデューは客観的な構造のアプリオリ性を徹底して排除して、この構造をつねに理論的に構築する作業を繰り返していくのである。ブルデューはこの作業を<客観化の客観化>と呼ぶのである。これは客観主義のさらに外に立つことではなくて(そうならば前に述べた<客観化の客観化>の客観化という無限の繰り返しを要請することになるだろう)、行為者のプラチックの「一次的経験・表象(=主観的世界)」の分析を通じて、客観的な構造を概念として構築していくことなのである。このとき客観的構造は、一次的経験・表象の分析を練り上げていくなかで、構築されるものとして考えられているのである。

これは奇妙な結末である。客観的構造という「対象」が、観察者によって構築されたものであるとするならば、この対象の「客観性」とはなになのか。観察者によって構築されたものは、端的に観察者の主観に属するものと考えるべきではないのか。客観性の問題とは行為者、観察者双方の「予断」からの脱却を意味しているのではないのか。

3. 「客観的」構造

先の問いかけが依拠している前提とは、現実の社会という「対象」をある方法でもって「観察」する際に「対象」をありのままに映し出す方法が客観性を保持している、逆にゆがめて映し出す(誤認させる)方法とは予断、思いこみ、イデオロギーである、というものである。

しかし、仮に現実の社会をありのままに映し出し、記述することが可能であるとして、それが(自然科学と同列の)科学としての意味を持っているのだろうか。それは単に「現実」のさまざまな要素の膨大な記述の集積に他ならない。そうした膨大な記述の集積のふくむ現実の諸要素の矛盾した事柄を、逐一並列的に記述するのか、それとも対象の中から何らかの要素を本質的であるとしてすくい上げ、それ以外を非本質的であるとして捨象するのか。前者は何事も説明しないし、後者における「方法」とは、既に対象を観察者にそのまま映し出すための存在ではない。諸要素を本質と非本質に区分することの中に既に「方法」は織り込まれているのである。この「方法」までも対象の側に従属させるとき、われわれは複数の観察者の示した複数の「対象」像の優劣(いずれがより客観的か)を判断するすべを失うのである。

結局、観察者がある方法でもって対象を構築していく、ということ以外にない。そこで問題は、「方法」の「客観性」である。いかに独断的な方法から抜け出していくか、に関する一般的な方法論が課題なのであり、研究者個人の価値自由の表明や社会的位置の考察といった特定の「方法」を考え出しても、その方法自体が問題とされていくことになる。

ここでわれわれはブルデューの試みを思い出そう。ブルデューは、社会空間、ハビトゥスという概念で界、プラチックのつながりを「決定論」「内面化論」的方法で語るように見えるその同じ時に、この概念とその関係自体を理論上の構築物として捉え返すことで、自身の理論体系を開かれた、重層的なものとしていく方向性を見せるのである。

こうして、方法や概念を際限なく問いに付していくとき、それは「方法のための方法」「方法のための方法のための方法」という議論の後退、さらには不可知論に陥るだけであろうか。方法とそれによって構築される対象をすべて同一の平面上に置けばそういうことになるだろう。しかし、「方法と対象を際限なく問い返す」という方法とその方法によって構築される対象を想定するとき、これは避けられている。

諸要素をある方法(予断かもしれない)で関連づけることによって説明の体系を作ること、それは必要な作業であるが、そこにとどまっていては「主観的」なままである。この諸要素が関連づけられて構築された対象の存在する空間自体が、この諸要素及び方法が問いに付されることによって、その要素、方法自体を対象として構築する別の理論的空間に対して開かれていくのである。このようにして、理論上の空間は、さまざまな空間の連鎖の中に存在していることになるのである。

ここでは、この<客観化の客観化>という方法に対応した複合的な空間という新たな対象が構築されている。そしてこの複合的な空間こそが「客観的」な対象なのである。

4. 現実との関係

最後に問題が残されている。客観的構造が概念的な構築物であると宣言するとき、この客観的構造は現実の社会とどう関わりを持つとされるのか。デュルケームは、社会的事実が個人を拘束すると述べた瞬間に、「決定論」という非難を浴びせられた。ブルデューもまた社会空間が個人の表象の自律性を限界づけると述べるそのときに、同じ非難を浴びせられるであろう。構築された客観的構造という概念による「現実」に対する効果をどう考えるか、というこの問題はふたたび行為者と対象の関係というはじめの問題に戻るように思える。しかし先の議論を敷衍すれば、行為者と対象の関係という思考枠組み自体が、対象の一部分をなしているのである。「拘束」とか「限界」とかは対象の外部から与えられている物ではない。

結局われわれは思考対象の外に出ることは出来ないのであって、個人の拘束とか限界とは個人の性質として与えられている物ではなくて、個人の行為を思考する空間の限界を指示しているのである。

例えば、資本制社会における商品のフェティシズムは、資本制生産様式が画定した行為者の表象の限界ではなくて、資本制的生産様式の限界の表象である。同様に、ハビトゥスとは社会空間が画定した行為者の実践の限界ではなくて、プラチックの集積によって見いだされた諸行為の秩序、限界の表象なのである。

おわりに

従来、ブルデューの反省性の問題は、ハビトゥス・プラチックの次元あるいは界の次元で解決されるべきものとして処理されてきた。前者においては、ハビトゥスは「主客」の矛盾を押し込んだブラックボックスとなってしまう。また後者においては、研究者の社会的位置、大学という界の分析に解決が託されることになるが、この場合もその背後に社会空間が温存されたままになってしまう。

ブルデュー社会学の帰着点は、何より客観的構造としての社会空間であり、しかもこれは反省性の問題を織り込んだ方法としての<客観化の客観化>によって構築された概念なのである。つまり、ブルデューにおいては、反省性の問題は対象自体の変更 をもたらしているのである。

文献

Althusser, Louis1965 Lire le Capital=1997今村仁司訳『資本論を読む(中)』,ちくま学芸文庫.
Durkheim, Emile 1895 Les regles la methode sociologique=1978宮島喬訳『社会学的方法の基準』、岩波文庫
Bourdieu, Pierre 1979 La distanction, Minuite=1990石井洋二郎『ディスタンクシオン』、藤原書店
小内透1993「再生産論の近年の動向と課題」教育社会学研究53集.
薬師院仁志 ?「社会的事実の問題構成」京都大学教育学部紀要38.
戻る