日本教育社会学会第48回大会(ラウンドテーブル−ジェンダー)レジュメ

1996.10.4

はじめに

本報告の目的は次の二つである。

「日常的行為による構造の再生産」を論じようとする際に、意外と見過ごされやすい課題を提示すること。
そのことによってジェンダー研究にもたらされうる意味を提起すること。

0. 日常的行動と社会構造

ジェンダーに関わらず何らかの格差、差別を指摘、告発しよう(あるいは逆に否定しよう)とする議論はある種のジレンマを抱えることが多い。それは日常的な世界のなかには格差を再生産しようとする力とともに格差を解消し得るような力も多くの場合見いだしうるということである。

もちろん「事実」はこのように矛盾した事象を同時に抱え込んでいるものであるといってしまえばそうである。しかしそれではなにも説明あるいは主張したことになっていない。それに対して、一方の事象を強調して議論を明確にしようとする主張の政治的意味は理解できるが、双方の立場による水掛け論に終始しかねない。

このジレンマを解消する方法としてさしあたり思いつくのは次の二つである。一つは一方を例外的な事例、あるいは解消されつつある事態であるとして重視しないか、あるいは一方を隠蔽、正統化のための道具、「建前」として他方に従属させる方法であり、もう一つは再生産に従いながらそれを変革しうる主体を設定し、その主体形成のメカニズムを解明する方法である。しかし前者の議論は、いずれを「本質」とするかについて水掛け論をぶり返すことになりかねない。それに対して後者の議論がブルデューのハビトゥス、ギデンズの構造化、ジローの抵抗理論などの理論とつながる流行の議論といえそうだ。

ジェンダーの分野では、マリー・デュリベラの研究があるし、またコンネルの提唱する「日常行動の理論」もここに位置づけられよう。

しかしこうした議論は、あらすじだけみると理論的には「大したことはない」のである。ジェンダー的行為者の形成は、日々日常的な環境の中でなされる。しかも環境と行為者とは一方向的なものではなく、行為者が環境に与える影響も考察する必要がある。これ以上理論的にいうべきことはほとんど残っていない。なにせ行為者は構造の再生産と変革を一手に引き受けてくれ、しかもそれらは個別的な性格を持っているのだから、一般的な性質は説明できないのだ。後は我々のなすべきことは、日常的な現象を追っかけることだけである。日常的な世界には差別指向的な側面と平等指向的な側面が入れ混じって存在しているから、それらを丹念に切り分けていけばよい。題材は無限にある。

なにやら生産性が上がっているようで、実は怪しい。もともとフェミニズムは「何故格差(差別)が存在するのか」という原因・理由を追求することに意義があったはずだ。両方の側面があるという(当たり前の)事実の指摘は、このことにあまり答えてくれそうもない。

ブルデューらの再生産の議論は、元々このように記述的な志向を持っていたのだろうか。ブルデューは自身の議論の前提には、「社会構成体」、「権力関係」が常に存在していることを何度も強調している。日常的行動による構造の構成という議論は、ブルデュー理論の一側面にすぎない。この点に関するコンネルのブルデューにたいする批判的な位置づけは、その意味では適切である。

「ブルデューの教育研究やアルチュセール派の階級理論といった…再生産アプローチ…の特徴は『社会的再生産』という概念そのものに備わっていると考える。『社会的再生産』の概念は、変わらない構造を最初から仮定することによって初めて意味をなすのである。再生産論では、[日常行動の可変性を基盤にして推移する]歴史は、[物象不変の]構造的再生産という基本的循環に若干の付属物として入り込むにすぎない」

といって構造の構成的な側面をみようというだけでは、事実の記述に逆戻りしかねない。そしてこのような批判もまた同時にブルデューに対しては常に投げかけられてきたのである。ここに構造の構成的側面を重視する「再生産論」のジレンマがある。コンネルもまたこのマクロな構造と日常的な行動との間の関係を問題にする必要とその困難については十分自覚的であるようだ。「日常行動の理論」は、「構造」にたいする十分な配慮なくてはなしえないのだ。

1. 再生産論の課題

再生産論といってもいろいろな含みがあり、一概には定義しにくいが、ここではとりあえず社会構成体(生産関係と生産諸力を含む)の再生産に「文化的」なものの影響を重視する立場と大まかにいっておく。これには様々な意味合いが含まれる。伝統的なマルクス主義の用法では、経済的土台(下部構造)と文化的上部構造の相互作用の問題といえるだろうし、文化的なものは行為者の日常的な経験に従属するのだと考えれば、マクロとミクロ、あるいは客観と主観の相互連関の問題と考えられることにもなる。しかし重要なことは文化的再生産論は、いわゆる解釈的アプローチの諸議論とは異なり、日常的経験、主観的意味づけには還元できない領域における構造なり秩序なりこそが再生産されるものとしているということである。このようなことをことさらに述べるのは、主観的なレベルでの格差の「再生産」を主題とする議論との境界が曖昧にされるなら、再生産論の持っている理論的意義が見失われかねないからである。

再生産論は、社会的な何ものか(秩序なり構造なり)が再生産されるという現象を記述ないし指摘することを目的とした議論ではない。むしろ「再生産」は既知の事柄として扱っているといってもよいくらいだ。議論の前提として先に社会構造と生活世界などという二つの系を立ち上げている以上、この議論は両者の系の関係についてなど、事実の記述にとどまらない説明的なものとならざるを得ないのである。このことは再生産論に二つの意味をもたらす。一つは現象レベルでは再生産されるものもあれば、変革されるものもあるという当たり前の現象に積極的な意味を与えることができるということである。実際、個別的、主観的な水準の議論では、一方の側面のみを取り出してきて、「差別的構造は再生産されている(解消されつつある)」と主張するか、両方の側面があるという自明の事柄をことさらに指摘するだけであるか、にすぎないことがしばしばあった。重要なのは矛盾しているように見える諸現象が全体としていかなる意味を持っているか、である。こうした主観には還元できない構造、「全体」性への着目は、しかし、各論者がこれらをアプリオリなものとして設定してしまいかねない意味も持っている。しかもその性格付けは論者のたつ立場によって大きく変わってしまう。階級による性格付け、階層による性格付け、ジェンダーによる性格付け…。いずれの立場も別の立場からすれば、恣意的な特権化を行っている、と批判されることになるのである。

再生産論はさしあたりマクロな構造とミクロな事象という二つの系の関係について語ることになるが、そのときマクロな構造の性格付けを恣意的に行っているという批判を受けることになる。結局、再生産論は、二つの系の関係をいかなるものと捉えるか、マクロな構造をいかなるものと捉えるか、を説明しなくてはならない。

2. 再生産論における「内面化モデル」批判

ジェンダー論が再生産論と何らかの接点を持つとするならば、「ジェンダー的」な諸行為が単なる個別的な行為にとどまらない意味を持つという点においてであろう。その意味をどう捉えるかでおのおのの研究の方向が決まる。

その意味を「経済」という点から捉えると、階層(階級)社会論の枠組みと交錯することになる。ここで先の二つの系とは階層秩序とジェンダーであり、この両者の関わりが問題とされるのである。

この研究の出発点は階層社会論である。階層社会論はもともと二つの系の関係を問題にするという枠組みを持っていた。学歴と階層、社会意識と階層、文化的嗜好と階層など。この枠組みは個人の階層的位置を確定させることが前提となる。このことは漠然と「収入を得ている者」を個人の単位として考えている限り、比較的容易であった。しかし先の二つの系のうちの前者に「ジェンダー」を入れたとき、おもに「家事労働を行っている者」の階層的位置をいかに捉えるかが問題となる。このとき階層社会論研究に対してジェンダー研究の側から投げかけられうる問題とは、経済(的構造)をジェンダー(による抑圧)研究の帰着点にすることについてであろう。ジェンダー(による抑圧)には経済に帰着できない独自の領域が存在しているのではないか?

ここに立ち上がった領域をたとえば「家父長制」といった独自の論理構造を持ったシステムとして捉えると、この家父長制と経済構造(資本制)という二つのシステムの関わりを説明しようとするいわゆる「マルクス主義フェミニズム」ということになる。

しかし、経済とは独立的な構造をとらえ、それと経済的構造との関わりを論じようとするマルクス主義理論はマルフェミの専売特許ではない。経済とは異なるシステムに教育をおくマルクス主義教育社会学がまずある。この議論の理論的出発点たるアルチュセールがマルフェミにおいてもしばしば言及されるように、両者の理論枠組みは当然似たものになっている。

マルクス主義フェミニズムにせよ、マルクス主義教育社会学にせよ、あるいはブルデュー流の文化的再生産論にしても、この二つのシステムの関わりをどう説明するかが課題である。

マルクス主義教育社会学は経済的構造と教育システムの自律性を捉えながら、しかし、教育達成と経済的成功とが結果からしてそれなりに整合的であるため、この二つのシステムの結びつきを、個人のレベルで対応したものと説明した。そして個人にその役割を持たせるメカニズムとしての内面化(社会化)を想定した。教育システムにより、おのおのの階層(階級)にふさわしいパーソナリティを内面化され、おのおのの経済的地位に振り分けられていくというモデルである。

このモデルはもちろんジェンダーの領域でも応用可能である。家庭、メディア、教育によって、ジェンダーが内面化され、それにふさわしい性役割を担うようになるというモデルである。

このモデルへの批判は主に、このモデルが再生産を無条件に安定的なものと捉えてしまっていて、その内部の矛盾や変革への契機を軽視しているという、理論的というよりは経験的、あるいは政治的な意味合いからなされたものである。

ともあれ、構造の単なる担い手でなく、構造変革の契機を持った「主体」を想定し、それによって構造が新たに作りだされる側面をも重視しようとする流れが「構造化」などのタームでよく耳にする議論である。

こうした議論をとりあえずブルデューのハビトゥスという概念に代表させて「ハビトゥス」モデルと呼ぶことにする。ハビトゥスとは「構造化され構造化するところの構造」なのだから、再生産を担いつつ、それを変革する可能性も持っているという、一見すると先のジレンマを解決する上で大変便利な概念である。便利すぎてそれをアプリオリに設定してしまうと何も言っていないことになりかねないので、ハビトゥスが形成される過程が議論、考察されることになる。ここにおいて日常的な世界におけるハビトゥス形成=個人、現象レベルでの「再生産」が論じられることになる。ハビトゥスは日常的な諸行為の中で日々形成され、そのハビトゥスの生み出す諸行為によって社会の構造が再生産される…。

しかし、ここでの「ハビトゥス」モデルと再生産論の結合は、自明的なものなのだろうか。ハビトゥス概念のもともとの意義は、構造を普遍的なものと捉えた「構造主義」に対する批判として、いささかなりとも自律性を持っているところにあるのだから、むしろこの概念は、再生産されないこと、の説明に使ってもよいくらいのものだ。つまりこうしたモデルにおけるハビトゥスという概念の意義には構造変革の可能性を持っているということが軽視できないわけで、それだけにこの概念は、再生産されること、自体については特に積極的な説明を与えてくれているわけではないのである(ハビトゥスは構造を再生産することもあれば、変革することもある…)。

このままでは先のジレンマをそっくりそのまま、ハビトゥスという概念に移植しただけにすぎない。そこでハビトゥスの自律性を「誤認」の論理で制約して、再生産へつなげようとしても、「本質」「建前」モデルに入っていくだけで、特に目新しい議論にはなりそうもない。

つまり、ハビトゥスの形成を論じたところで、それ自体は再生産が何故、いかになされるかの説明にはなっていないということである。逆に言えば、もし「構造化される構造」によって再生産を説明したいのであれば、従来の社会化、内面化論の枠組みで一向にかまわなかったということになるのである。確かにブルデューは内面化論の枠組みを完全に捨て去ってはいない。しかし彼の再生産の説明がそれで完結しているわけではない。というよりもそれ以外に部分にこそ、彼の再生産の説明についてのオリジナリティがなければならないのである。

しかしこれについて述べる前に、別の議論についてみておくことにしよう。先に留保したままになっていたマルクス主義フェミニズムである。

先に、マルクス主義教育社会学とマルクス主義フェミニズムには共通点があることを指摘した。しかし経済的構造とジェンダーシステムとの間には、経済的構造と教育システムの間以上に、不整合が存在しているために、マルフェミはマルクス主義教育社会学にはない困難がある。二つの構造の対応を、経済的優位→高度な学歴達成→経済的優位、というように個人を媒介としては説明できないからである。

しかしそれだけにこの議論は、両者の対応を個人レベルではなく、各構造の論理のレベルでとらえようとすることになる。

この理論自体の中身はここでの趣旨からずれるのでこれ以上は述べない。ともあれ相互に異なる論理を持った複数の構造の関係を、個人、行為者などの媒介を使わずに説明しようとしている点が重要であり、「内面化」ではない説明のあり方を示しているのである。

コンネルはこうした議論の枠組みを「二重システム論」とよび、以下のように評価している。

「かれらの一般的な方向性は正しいといえる。言い換えれば、私たちがもしかれらの理論を、ある一般的な理論タイプの最初の発現であるととらえるならば、かれらの理論のもつ潜在力は新しい発展方法を見いだすことができるのである」

しかし同時にまたコンネルは以下のような指摘も行っている。

「二重システム論には二つの無視できない難点がある。第一は『システム』の概念である。なぜ家父長制『システム』がシステムなのか、いかなる意味で資本主義と家父長制が同格の事象であるのか、これが必ずしも明確でない。第二の難点は、資本主義と家父長制との間の『相互作用』をどのように理解するか、という問題である」

「二重システム論」もブルデューもコンネルも、課題として残したものに大差はない。繰り返すが、二つの「システム」の関係が問題なのであり、これらは「内面化・社会化」論や行為者の主観的意味づけの記述とは異なった次元の考察が必要となるのである。

3. 個別と全体

ジェンダーシステムと資本制経済システム、そして教育システムほか諸々の構造、システム、これらは相互にいかなる関係にあるのか。たがいに同格の事象であるのか、それともある構造を土台とした因果関係にあるのか。

ブルデューなら、そして現代マルクス主義の多くもまた、さしあたり同格であるというだろう。これらの事象はいずれも、これから観察されるべき対象であって、アプリオリに与えられるべきものではないからだ。このいずれを土台の位置に置いても、その事象を表象せしめる特定の論理コードを特権化する本質主義的還元論だと批判されてしまうだろう。

諸構造はいずれも独自の論理を持っていながら、かつ相互に関連づけられている…。結局、問題はここに帰ってくる。

アルチュセールはこのような関係を、一方が原因で他方が結果である(機械論的因果律)、あるいは一方が他方の本質の顕現である(表現型因果律)と考えるような因果律と異なる構造論的因果律という概念によって説明しようとした。しかしこの概念、万人が手を打って納得できるようなわかりやすい概念ではない。それゆえここから出発しながら、様々なバリエーションの議論が存在することになる。

マルクス主義フェミニズムは、資本制と家父長制の関係を「共犯」的な関係にあると考えているようだ。おのおの内在的には異なった原理によって成り立っていながら、他方の構造を相互に利用しあうことで自身の構造を再生産していく…。やや目的論にすぎるきらいがあるようにも思えるが。

ブルデューなら、各構造内部の行為者の行動を、諸構造の総体としての社会空間(社会構成体)上でなされる地位獲得(とでもいうべき)闘争の象徴的形態だというだろう。ブルデューの場合、この社会空間上の行為者の位置は「資本」によって確定される。この「資本」概念、さらには「社会空間」概念をいかに捉えるか、がブルデュー理論のポイントであり、同時に批判が集中する点である。

コンネルは「歴史」を重視する。「歴史」の意味を「非自然性」「社会的構成性」という側面からだけ捉えてもかまわないかもしれないが、それにとどまらない現代ヘーゲリアンマルキストの「全体性」としての歴史の意味合いもありそうだ。かつてのように図式的にとらえ、それを特権的な解釈コードとしてしまうあの「歴史」ではなく、日々生起している行動、闘争の複合体としての「歴史」である。この歴史概念も十分くせ者ではあるが。

いずれも、個別的事象から出発しながら、なにかしら構造と構造を結びつけている「全体」を視野に入れているようだ。「日常的行動」の解明は、その次元の考察だけでは完結してはいない、というのが一応の落ちである。

最後に一言

といって報告者は、個別事例研究を批判しているわけでは、もちろん全くない。ただそこからもう一歩進んで、もうちょっと「でかいこと」を言おうよと言いたいだけである。

はっきりいって「ジェンダー部会」に出たり、「ジェンダー論」を読んだりする人って結構すでに一定の前提を共有していたりすると思う。そんな人たちの集まりの中で、個別に「こんな差別的事象があります」、「こういう事象、意識が実は差別を作り出しているのです」といったって、みなそれなりに了解してしまうだけなのではないか。さらにすすんで「だからこれこれをなくしましょう」みたいな結論では、最初からその意志のある人(あるいは気の弱い男性)だけに訴えかけることになってしまう。もうちょっと、差別ってなに、抑圧とは?、権力とは?、社会構造はどんなものか、などぐらいにつっこんだ話をしないと議論にならない。

かつての(今でもやっているのかな)上野・江原論争みたいなのをもう一度やってもらいたい(やりたい)。

文献

Althusser, Louis & Balibar, E. 1965, 権寧、神戸仁彦訳『資本論を読む』、合同出版、1974.
Bourdieu, Pierre, et Passeron, Jean-Claude, 1970, 宮島喬訳『再生産』, 藤原書店, 1991.
Bourdieu, Pierre, 1979, 石井洋二郎訳『ディスタンクシオンTU』, 藤原書店, 1990.
Connell, R. W. 1987, 森重雄他訳『ジェンダーと権力』、三交社、1993.
Duru-Bellat, M. 1990, 中野知律訳『娘の学校』、藤原書店、1993.
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