教育問題と社会科学-教育問題を語るということ


0 社会科学における語り

1 教育を語るもの

教育問題−「当事者」がいる切実なことがら

社会科学−高々「観察者」(=他人)の立場でしかあり得ない。

「いじめ」を語り、論じるものは言うだろう。「いじめをなくそう」。「いじめが横行している今の学校は間違っている」。我々は結果の正しさを「知って」いて、その「正しいこと」を反復するだろう。そしていじめがなくならない現状をみて、いらいらしながら言うだろう。「いじめっ子は人の痛みがわからないのだ」。「教師・保護者は無策だ」。「脇でみていたものは無責任だ」。「いじめられっこにも問題があるんじゃないか」。

「いじめ」被害者、加害者、傍観者、教師、保護者、おのおの何らかの想いを持ってその場にいる。その様々な想いは「正しい」語りの中に閉じこめられ、「無かった」ことにされてしまうだろう。しかし、だからといって、我々が勝手に当事者になりすますことはできない。部外者はどこまで行っても部外者でしかない。そのたかが部外者は、いったいなにを成し得るのだろう。

2 「科学」としての語り

■プロの「解説者」とは

「ここで三振するようではだめ」という解説は、応援ではあっても、まともな解説とは言い難い。素人のファンと全く同じレベルの語りでしかない。

なぜ彼は打てなかったのか、投手との駆け引き、配球、スイング、そして試合の流れなどによる十分な蓋然性(必ずそうなるわけではないが高い確率でそうなる)の根拠を説明しなければならない。仮にそのとき無理にヒットを打ててもその後調子を落とすはずだ、とまでいい切れるような説明。

逆にたとえ三振に終わっても、「次につながる」と評される場合もあるだろう。これらはその場限りの成否とは別の次元にある説明である。

あるいは、ある時点で負けていても逆転を予期できる場合がある。「リードはしているけれども、何か流れが悪い」。それを試合をしている当事者も感じ、解説者がそれを指摘する。

優れた解説者とはそうした「流れ」を読み、それを伝えられる者だ。科学的な語りは、まずこの水準でなければならない。

■「流れ」を読む

二つの方法?

この二つは対立しているように見える。そしていずれもおのおのの「メリット」を持っている。

前者は「すでに終わった」ことに関して、その結果を要領よくみる手段を与えてくれるだろう。そして未来に関してある程度の蓋然性に基づく予測を提示してくれるだろう。「当事者」より大局をみるというメリット。

後者は「すでに終わった」ことに関して、より具体的なイメージを提供してくれるだろう。そしてそこから、未来に関して、具体的事例からの教訓を得られるであろう。「当事者」より多くのことを知っている、というメリット。

そしてこのメリットは、デメリットの裏返しでもあることも明らかだろう。

前者はいわば事例を「要約」してしまっているのであり、その要約からこぼれ落ちた「過程」を見落とす。

後者は果たして「当事者」以上に物事を知る、ということが本当に可能なのか、が問題となる。たとえば歴史学者は今の人の知らない過去の様々なことを語るが、しかしその時代に生きた人以上のなにを知っているというのだろう。まして社会学者は、今生きている人について語らねばならないのに、その当事者以上のなにを知りうるというのか。仮に事例を多く集めるのだとしたら、それは薄く広く「要約」したものを知っているにすぎない。

いずれにせよ科学者は、「観客」とともに、現実の要約したバージョンしかみられない。

折衷案

ならば我々のなすべきことは、一般化によって大局を把握しつつ、個別的な事例によって少しでもリアリティを補完していく、ことなのだろうか?

おそらく、違う。なぜならばこのような折衷は、それ自体矛盾をはらんでいるからだ。先の「一般化」は個別性をなくすことによって初めて可能になったのである。「一般化」とはより多くのことをみることによって可能になるのではない。むしろ特定の偏った見方を貫くことによって初めて可能になるものなのだ。

また逆に、「具体的」なイメージを析出するとは、統計的な方法論がしばしば行う抽象的なカテゴライズを拒絶することと同値である。小異を捨てて一つにまとめられることを拒否し、微細な差異を析出していくこと。

■事例の集積を越えるもの

個別的な事例をかき集めてきて、それらの抽象度を上げ下げしてみたところで、それらは依然として「要約された事例の集積」でしかない。「流れ」とはそういった「事例」とは別の次元に生起して、かかる事例を産出する「力」である。これは「事例」一つ一つの中にすでに宿っているのであって、みた事例の数が少ないから析出できないものでもないし、逆に多くの事例を集めたからといって見えてくるものでもない。

聞き手のアナウンサーが過去のデータをかき集めてきても決してかなわない何物かを持っているのがプロのプロたるゆえんである。

当事者にとって、その場その場に現出している「流れ」に対して直感的にどの程度反応できるか、が勝負である。そしてそれは*いかなる場面*でも、瞬時の判断を成し得る、という性格のものであって、過去の事例をかき集め、反復などしている暇はないのだ。選手はそれを身体レベルで持っているだろう。まさに「センス」としか言い様のない物である。それは取り立てて意識化される必要もなく、諸々の行為を産出するであろう。

しかし解説者はそれではつとまらない。そうした瞬時の判断を、センスを持っていない(共有していない)素人(部外者)の観客に言語で伝達しなければならない。ここには二つの飛躍があるわけで、彼/女は当事者のみているものをともにみなければならず、そしてそれを見ていない人に伝えなければならない。

繰り返すが、観客がみている要約された事例を反復することが許されるのは同じ「素人」の観客だけである。彼/女らはそうして安定した観客の場に居続けようとするだろう。そうした要約の反復を拒否し、要約の中に塗り込められた瞬間瞬間のダイナミズムを表に出すのがプロ、そして科学である。

3 語りの力

こうした語りは、社会科学においては、より実践的な意味を持っている。野球解説では、単にデータをかき集めたり、あるいは「無責任」な声援を送るのか、プロとしての「解説」をするのか、いずれを評価するかは好みの問題ではある。しかし社会科学においてはそうではない。観客と当事者の分断は、しばしば事態を悪化させてしまうことがあるのだ。安定した観客の反復する語りはその場を硬直化させる。

「科学」の元で何かを語るものは、その語りの持つ力、作用を考慮しなければならない。たかが部外者としての限界と可能性を見据えねばならない。それでは科学はいったいなにを成し得るというのか。

当事者が「知っている」ことを一般的に提示してみせること。<いま−ここ>に生じている一瞬に一般性を与えること。そうして当事者の語られざる「想い」に言葉を与えること。代弁(すでに語られたことの反復)ではない語りを生産すること。そうして自身を含めた「部外者」に当事者性を与えていくこと。そのとき、当事者を幾重にも取り囲んで、その場を安定した見せ物にしていた構造が崩される契機が見いだされるだろう。

重要なのは言語である。ものを語るという営為を実践*と*すること。かかる実践を通じて、想いは言葉に、言葉は力になるのだ。

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