ブルデュー「再生産論」を<読む>

その1

およそ象徴的暴力を行使する力、すなわちさまざまな意味を押し付け、しかも自らの力の根底にある力関係を覆い隠すことで、それらの意味を正統であるとして押しつけるにいたる力は、そうした力関係の上に、それ固有の力、すなわち固有に象徴的な力を付け加える(Bourdieu&Passeron 1970=1991:16)。

「生魚を食っているだけのものを、刺身なんて名付けただけで高級料理にするなんてすごい!」

その「サシミ」の味に関して、たとえば「脂がのっている」と答えるとしよう。<我々>はその陳述を理解できる。そのサシミの味について、何かを*知る*。

しかしこの陳述は、魚は必ず火を入れてからしか食べない文化圏の人間に、何かを伝え得るだろうか。刺身文化が立ち上がり、それを刺身と名付ける象徴システムがあって初めて上の陳述は意味をなす。サシミに関して、刺身という名付けはその味に関して象徴的な価値を付け加える。かかる刺身の味の認識を誤認と呼ぼう。では誤認をただした、真の認識とはいかなるものであろうか。

生魚の味は誰にも言い当てられない。たとえば外の文化の<異邦人>が、「グニャグニャしていてかみ切れない」と表現したとしよう。それはサシミの味の何者かを確かに語ってはいるだろう。しかし、「脂がのっている」と比較して、その語りが真の味に近づいたかは不明である。要するに「グニャグニャしていてかみ切れない」にしても、生魚の切り身の味を言い当てているわけでは決してない。その意味でこの味の認識とて、誤認した味であることには相違ない。

真の味なるものは、決して言い当てられることはない。味について何かを語り、それを表現すれば、それは必ず誤認となる。しかしまた、何かが語られない限り、その味の存在は無とされるだろう。たとえば「ああ、旨いなあ」という簡単を心の中でつぶやいたにせよ、それは誤認であるが、そのような誤認なしにいかなる味も存在し得ない。その意味でこの誤認は同時に承認である。

しかし、「グニャグニャしていてかみ切れない」と「脂がのっている」は等価なものだろうか。それは個人の経験を言い表した表現としてはそうであろう。いずれの表現が正しいかを言い争ったところで、おのおのの主観の問題だとされるにすぎず、水掛け論に終わるよりない。にもかかわらず、ある特定の象徴システム(場)内部においてはこの両者は等価ではないのだ。「グニャグニャしていてかみ切れない」はあくまでその場その場の思いつきの表現であり、これと等価のありうべき味の表現は無数にあるだろう。ところが「脂がのっている」はそうではない。この表現は「グニャグニャしていてかみ切れない」よりも理解するに難しく、にもかかわらず特定の文化内においてはその味を*適切に*伝え得るであろう。これと等価に刺身の味を表現する言い回しは希少なものなのである。そしてかかる希少な言い回しの連鎖において我々の刺身文化は成立し、存在している。そしてその文化のもとでは刺身は紛れもなく「旨い」ものであり、火を入れる手間を省いた欠陥品ではない。

では刺身を「旨い」と感じる我々の認識(誤認=承認)はいかにして可能なのか。我々に与えられたかかる表象(「刺身は旨い」)は、何を表象しているのか。それは刺身文化を含む我々の食文化、さらには文化全般に対する我々行為者の関係である。我々はかかる文化装置の中に存在し、刺身を旨いものとして語る言語を用い、それを食す。かかる慣習行為の中に挿入された我々の身体をハビトゥスと呼ぼう。もとより我々の舌はかならず刺身を旨い、と認識するわけではない。その意味で我々の舌は自由である。しかしそうした個別的な自由は何らの制限を加えられる必要もなく、以前「刺身は旨い」ものなのである。

ここでブルデューは象徴的な力の価値を、従来の議論に比して積極的に語っているのだろうか。もちろんある種の実態論に対してはそうだといえるだろう。しかし、構造主義的な理論潮流においてはその含意はむしろ逆というべきだろう。象徴的構造の一元論を唱えたと言うべき構造主義に対して、ブルデューは<現実的な>「力関係」を招き入れたのだ。ブルデューが招き入れた、というより、構造主義*以降*の理論のそうした流れにブルデューも乗ったのだ。ラカンの現実界からアルチュセールの経済的審級と続くそうした理論をごくあっさりとブルデューも反復しているにすぎない。そしてブルデューの目指す積極的貢献とはそうした枠組みの反復にあるのではなく、こうした枠組みにおける「現実界」と「象徴界」の関係についてのアルチュセールの議論をより具体的に展開するところにあると言っても良いだろう。

その2の予定はなし。

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