ブキミなバカを産出する装置

―『発情装置』上野千鶴子(の一部だけ)を<読む>

諸範疇の運動が現実の生産行為として現れるのであり、その行為の結果が世界なのである。

1. はじめに

女性の身体というものがすでに性的欲望の記号となってしまっている男性は、どんな女のハダカを見ても相手かまわず発情します。

『発情装置』なる題名の本がある。題名を聞くととてつもなく面白そうだ。そしてその本の帯にはこんなフレーズがある。「人はなぜ欲情するのか?」もちろん著者が上野さんなのだから、心理学的な回答などは期待しない。この問いを徹底して社会学的に解体していくことを期待する。ますますそそられる。

ところがどっこい、この本ちっとも面白くないのだ。書かれていること自体にさして異論とかがあるわけではない。しかし、全然ぐっと来ない。不満はまあ色々あるのだと思うが、今回はその中から「『コギャル』と『ブルセラ少女』をめぐって」の節を取り上げる。

2. 装置とは

誘惑者としての少女の価値は、実は誘惑される男の側の欲望の投影にすぎません。

「『ブルセラ少女』だの『ブルセラ・ショップ』だのについて伝え聞いたとき、わたしはなぜ『ブルセラ・オヤジ』という用語がないのか、不思議に思ったものです。使用済みパンツをセーラー服姿の持ち主の写真を添えて売り買いするマーケット。そんなものに大枚を支払う男のほうが、キモチわるい、に決まっています」

この節は徹底してこの視点で語られる。(それにしても「キモチわるい」に決まっているのなら、『ブルセラ・オヤジ』なる用語がない説明はそれで終わっているだろうに。キモチ悪いものなんてあまり触れたくないに決まっている。上野さんがどう思おうと、世間でブルセラ少女が語られたのは、それがキモチ悪いからではないだろう。もしそうならブルセラ少女と「発情装置」はそもそも関係がなくなってしまう。もしブルセラ少女と「発情装置」に何らかの関係があるのなら、それはブルセラ少女のなかに何らかのキモチ良さがなければならないのだ。そうでなければ誰も発情なんてしないのだから。)オヤジの欲望がブルセラ少女を産出したのだ。だから宮台たちも「使用済みパンツを買う男」をこそ取材対象にすべきだった、など(んなもん、するわきゃ、ねーだろ、つまんねーという宮台の声が聞こえてきそうだ。この辺のセンスは圧倒的に宮台の方を買うのだが、女性からすればまた違うんですかね)。オヤジの欲望をこそ問題にして行くべきだ、というのがこの節のどうやら主張らしい。

しかしオヤジの欲望の存在をはじめに前提にしてしまって、発情「装置」も何もないだろう。要するに、この本は最初から題名を裏切ってしまっているのだ。

いったい上野さんにとって、「装置」はどこにあるのか。オヤジの側にあるのだろうか(発情「する」装置?)?これはこれで革命的で大変魅力的な問いのたて方ではある。「発情するオヤジ」がここかしこでかたられ、それが少女たちをしてブルセラに向かわせしめている(ブルセラする「主体」の形成)という「社会的事実」がある限りにおいて。「ブルセラ・オヤジってぞくぞくするよね」なんて騒ぎながら。しかしおそらく(残念ながら)ブルセラ・オヤジは上野さんの指摘する如く十分「キモチわる」く、とても「装置」としての機能には耐えないだろう(もちろん女性をブルセラに向かわせる「装置」についての考察は別個に可能なはずだ。ただそれが女性にとっての「発情装置」なのか、それとも別の原理に則った「装置」なのか、私にはわからない)。やはり「発情装置」は発情するオヤジ(主体)を生みだす「ブルセラ少女」の側にあると言うべきなのではないだろうか(発情「させる」装置)。したがってもし「装置」を問題にしていくのであるならば、いかなる装置が、いかなる(発情する)主体(オヤジの欲望)を産出するのか、と問いは立てられるべきはずなのだ。そしてそういう問いをたてて初めて、帯の「人はなぜ欲情するのか?」(まあ帯なんてものは編集者が勝手につけたものなのだろうが、悪い問いではない)という問いも社会学的な問題設定の中で議論されうるのだ。オヤジの欲望から出発する限り、「ブルセラ少女」を巡る男の欲望を、「男の欲望はフェティッシュなものですが」などという社会学とはおよそ無縁の次元で規定してしまうことになる。

そして、上野さんの分析は、この「装置」への目配りを決定的に欠いているのだ。

3. 装置と主体

ブルセラ・ショップで高い値段で使用済みパンツを買う男たちは、じぶんたちが生みだした妄想に勝手に発情する「鏡を見ながらマスターベーションするサル」とでもいうべき存在になります。

上野さんはブルセラ少女の商品価値に関して、「使用禁止の身体」と「性的身体」との「落差」に存すると指摘する。そしてこの指摘自体はおそらく正しい(ただしこの指摘は宮台の踏襲だと思うが)。しかしこの「落差」の存在を、「オヤジ社会の規範が、彼女たちに押しつけたもの」と考えてしまったとき、説明を単純化しすぎているというばかりでなく、おそらく間違ったことを言ってしまっているのだ。

「ブルセラ少女」はオヤジ社会の作り上げた発情装置の中での最高傑作なのだろうか。オヤジ社会が彼女たちに押しつけようとしているものは、もっと別なものなのではないのだろうか。

ここで思考実験をしてみよう。いろいろな(可能性としての)発情装置を次の言説のなかに置いて、比較してみよう。

オヤジは何を語り、何を語らないか。どの語りが抑圧され、どの語りがあふれ出るか。

両端に比べて、あいだの3つが言説として、相対的に弱いことを確認。

両端がどんどん語り、語られる対象を生産し続け、発情の場を拡張していくのにたいして、「ブルセラ少女」他はアングラ化した場を形成してしまう。そしてそれについて語るものはその特殊な場に置かれてしまうのだ。価値の上昇はあくまで閉ざされた場内部で起こるにすぎない。「ブルセラ少女」は、語りの場を、閉ざされた特殊な場にしてしまうのだ。ここかしこに発情せる主体を立ち上げる(べき)発情装置としては明らかに弱い。

上野さんが「落差」と述べた如く、確かにオヤジの欲望は二極化し、矛盾したものとして存在している。しかしその矛盾した事態を「『使用禁止の身体』の価値をかってにつりあげ、それに性的妄想を託して高いおカネを払う」「バッカみたいな」存在の内的な欲望に解消するべきではない(それではオヤジは本当にただのバカだ)。

そもそもその欲望の最高形態はおそらく、同時性ではなく、決定的な分離にこそあるのだ。そしておそらくこの相矛盾した二つの欲望(第三者にたいして清純、自分にたいしてセクシュアルな存在)にはそれを支える制度的基盤が各々にあると見るべきであろう(ここからようやくフェミニズムの考察がはじまらなあかんのではなかろうか。例えば近代家族における一夫一婦の思想と関連づけるとか。私はさしあたり興味ないけれど)。そしてそれが「不幸」にも「同時」的なものとして結合してしまったのが「ブルセラ少女」であり、「援交」なのだ。しかしこの結合はオヤジ社会の結果ではありえても、オヤジ社会の規範からは明らかに逸脱している。「ブルセラ少女」が発情装置として有効なのはごく一部にすぎず(対オタク)、それは一般的には別の場(例えば教育場)に振り分けられ、その場での装置として機能せしめられることになる(理想的な欲望の対象ではなく、逸脱した教育の対象)。発情場には、より有効な装置(健康な(使用禁止という否定形よりこちらのほうが適切だろう)身体←→セクシュアルな身体、を相互に独立したものとして流通させる)が存在しているのだ。

となれば「発情する」主体も「ブキミな」フェティシュさに代表させてはならない。そういうイメージで「発情する」主体を捉えてしまうならば、ごく一部のオタク的オヤジをいじめることはできても、世の大多数の主体を取り逃がしてしまうのだ。一方で例えば「石鹸の香りのする女性がいい」などきざったらしいことを言いつつ、「ああ、AV?みるよ」とさらっと言ってのけるのが、代表的な発情する主体イメージでなければならないのである。そしてブルセラショップに通う「ブキミ」で「バッカ」なオヤジは、突発的に非合理的な発情をなすサルなどではなく、二つの欲望の切り替えが上手くできない愛すべき落伍者にすぎないのだ。

参考文献

上野千鶴子 1998, 『発情装置』 筑摩書房
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