京大教育学部生の象徴闘争

はじめに

かつて『金魂巻』なる書物がベストセラーになった。わたしは読んでいないのだが、大学生の出身階級によるカルチャーの差異とその結末をコミカルに描いたものだという。そこで描き出されたストーリーは以下のようなものである。

エリート大学において、貧乏人の子供は文化のギャップに苦しみ、努力が報われることなく苦労し続けるのに対して、金持ちの子供は文化的な親和性や人的つながりによって、大学生活、就職先ともに成功を収める…。

こうした筋書きとブルデューによる象徴闘争の分析とが重なるものであることを見いだすのは容易であろう。従ってこの本をヒントにした大学カルチャー論が当京大教育学部教育社会学コースで一定はやった(院生研究室を探せば今でも『金魂巻』は一二冊は見つかるはずだ)のも無理からぬことである。しかし、わたしはこの手の分析に違和感を持った。その中にはブルデューが恣意的なブルジョア文化を追い求めることのむなしさを笑っているのに対して、『金魂巻』的分析が「貧乏人」を笑うかのごときスタンスのずらしに対する「左翼的」憤りがあった(現在完了形)ことは正直に告白しておこう。しかしそれ以外にも、もし京大教育学部の分析にこの視点を当てはめるとしたら、その時の現状認識に対して違いがあったのだ。

以下、京大教育学部の文化的威信を巡る象徴闘争を、わずかな経験と話半分の誇張と根拠なき思考実験とルサンチマンに満ちた心情によってわたしなりに描き出してみよう。

京大教育学部内部の象徴闘争とその文化的威信の程度

はじめに簡単な思考実験から始めよう。各大学生あるいはその大学を志望している受験生に「一流大学をあげてください」と質問してみたとする。京大「関係者」はほぼ間違いなく京大を入れるだろうが、東大「関係者」の何割が京大を含めるだろうか。

実際、灘、開成クラスの受験生は「大学どこ受ける?」という質問に対して学部名しかいわないという。大学とは東大のことでしかないのだ。

教育学部の初めての自己紹介の場面を思い起こしてみる。「灘(開成、ラサール)出身です」との自己紹介の後、他から「おー」という歓声が上がる。京大入学は彼らにとって文化的威信の後退でしかない。

こうなると京大内部の文化的葛藤は、一流私立出身者(金持ち)による主流文化とそこへの参入に苦労する公立出身者(貧乏人)、という図式とは異なってくるだろう。一流私立出身者にとって京大入学はすでにある種の挫折を意味している。つまり京大内部の象徴闘争はブルデュー流に言えば、ブルジョア文化の参入を巡る攻防ではなくて、たかだかプチブル内部での、限界のしれた二番手争い、にすぎないのである。

彼らは、時には必死の努力をし(下層プチブル)、時には余裕を見せながら(上層プチブル)、京大の限界を乗り越えるべく、国家公務員上級職を目指したりする。しかし、官僚の世界で京大の限界を逆にまざまざと見せつけられることになるだろう。

「京大」一般においてさえ、この低落である。これが「教育学部」となるとさらに状況は哀れなものになる。

京大の「プチブル」文化を支える進学校(そのメーンは、灘、開成、麻生、ラサールではなくて、洛星、洛南という京都ローカル進学校である)出身者が、教育学部に占める割合はきわめて低い。彼らにとって京大文系学部とは悪くても経済学部までであり、教育学部とは同志社大学における神学部のようなものでしかないのだ。

こうした中で教育学部生の採る戦略は大まかに言って二つに分かれる。腐っても鯛ならぬ教育学部でも「京大」というところに威信を求めるか、「わたしは河合隼雄につきたいのだ(今は過去形)」などと教育学部という選択を正統化するかである。前者は「京大合格」というだけでほめてもらえた公立校出身者(下層プチブル)、後者は進学校のマイノリティー(脱落を重ねた上層プチブル)が多く採る戦略である。

そしてこの両者の象徴闘争はブルジョア文化を巡る象徴闘争の似姿にもならない。なぜなら下層プチブルにとって、教育学部内部の上層プチブルがすでに負け犬であることは見えており、それだけにそこへの参入を目指す戦略をはじめから採らないからである。逆に下層プチブルは挫折せる上層プチブルにたいしてある種の同情すら感じたりする。そして我こそは京大文化の担い手なりと自認するのである。

こうして下層プチブルは、当面は挫折感を持たず、逆に誇り高く、京大の威信に期待をかけて「よい就職」を目指すかもしれないし、京大にしがみつくべく大学院を目指すかもしれない。一方、傷ついた上層プチブルは自らの選択の正統性の確認をもとめて大学院の進学を目指すことが多いようだ。

しかしこの戦略は、所詮むなしい結果に終わる。

たとえば、「よい就職」の場合、
とある就職情報誌に、
Aランクの大学…東京大学、京都大学(法学部、経済学部、文学部)、早稲田大学(政経学部、法学部、商学部、第一文学部)、慶応大学

などと書かれていたりするのだ。

一方、大学院進学の場合
大学院進学には学部段階で京大にいる必要は全くなかったという当たり前の事実、特に京大にはいるのに浪人している場合、「受験時代には自分より偏差値の低かったが故に現役で別の大学に入学した」他大学生が自分より先に京大の大学院に入学していたりすること、に直面してショックを受ける(これは別に京大教育学部には限らない話だが)。
といった具合だ。

はじめにもどって

このような所詮負け犬同士の象徴闘争を、教育学部の学生(院生)がエリート文化を巡る闘争だと感じ、あるいはそのように分析するとしたら、負け犬を負け犬と認識できない典型的なプチブル的ハビトゥスのなせる業だといわねばならないだろう。

マルキストの端くれとしては本報告のような「ブルジョア」「プチブル」と言う用語の使い方には本当は大いに違和感がある。「ブルジョア」は階級概念が第一義なのだから、階層論ではふつうに上流、中流を使えばよいのに、ブルデューさん。


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