主観主義と客観主義を考えるために

はじめに

このページは、社会科学における「価値中立性」の問題、あるいは「主客二元論」の問題を扱います。この問題は、構造主義による西洋中心主義批判、さらにそれに対するA.ギデンズ・P. ブルデューの批判等、現代思想、社会学等々さまざまな領域で中心的に論じられています。

もちろんマルクス主義もこの議論の中でさまざまな批判にさらされることになります。その主なものは、マルクス主義は客観主義偏重である、というものです。なるほど、生産関係、経済的構造を議論の中心に据え、意識諸形態、上部構造を二次的なものと考えるマルクス主義の議論が主観的な表象を議論の外に置いたと見なされるのは自然であるように思えるかもしれません。

しかし例えば広松渉の「物象化論」になじんできた日本のマルクス主義からすれば、先の批判は、全く意外な印象さえ持つことになりましょう。こちらの常識では、表象と構造の連関こそがマルクス主義の主題である、とさえ思えるのですから。

本ページは、このギャップを埋めつつ、先の問題に対するマルクス主義的な回答を考える手がかりを提示していきます。

目次

課題設定
対象
時間・歴史

課題設定

ブルデュー、ギデンズはともに、従来の社会科学の議論のなかに、行為、意識を中心とした議論(主観主義)と構造に関する議論(客観主義)の二つの流れを見いだし、その統合をもくろみます。

ブルデュー

現象学的とよびうる認識様式の対象は、定義によって反省されざる経験、身近な環境とのなじみ深い第一次的連関を反省し、たとえ「客観的」観点から見て幻想的に見えようとも経験としては依然として完全に確実なこの経験の真理を明るみにもたらすことである。しかしこの認識様式は、社会的世界の「いきられた」経験を独自に特徴づけるもの、すなわちこの世界を自明なものとして受け取ること、を記述する以上のことはできない。p.38

個人的意識と意志から独立した客観的規則性(構造、法則、関係の体系、等々)を確立することを目指す客観主義は、学問的認識と実践的認識とをはっきりと切断し、実践的認識が身にまとう多少とも明確な表象を「合理化」、「前概念」、「イデオロギー」などとよぶ。…とはいえ、客観主義は前述のような操作を行うにあたって、一次経験に距離をとり一次経験の外に立つことの中に刻印されていることを全く考慮しない。身近な世界経験の現象学的分析が呼び起こしてくれるもの、すなわちこの世界の意味が直接に与えられるという見かけを忘れて、客観主義は客観化関係、すなわち社会的断絶でもある認識論的断絶を客観化するのを省いてしまう。しかも客観主義は社会現象学が明らかにするいきられた意味と社会物理学または客観主義的記号学が構築する客観的意味との関連を知らないために、制度の中に客観化された意味を自明のものとして生きてしまうようにさせる社会ゲームの意味の生産・機能条件を客観主義はついに分析することが出来ないのだ。p.39

二つの認識様式の見かけ上の対立を克服し両方の成果を統合するには、科学的実践を「認識主体」の認識に従わせればよい。この認識は、主観主義であれ客観主義であれすべての理論的認識に内在する限界に対する本質上批判的な認識であって、いかにも否定的理論に見えるがそれは学問的認識によって隠蔽される問いをあえて問うことによって、厳密な意味での科学的結果を生みだすのだ。社会科学は、客観主義が願うように土着の経験やこの経験の土着的表象とたんに手を切れば済むというものではない。さらに第二の断絶によって、「客観的」観察者の立場に内在する諸前提を問わねばならない。なぜなら観察者は諸実践を解釈することに専心しながらも、対象との関係の原則を対象のなかに持ち込みがちであるからだ。p.40

『実践感覚』

ギデンズ

私が本節で論じるのは、社会理論では行為および構造の概念はそれぞれ相互を前提にしており、弁証法的な関係にあることである。この相互依存の認識こそ、これらの用語と結びついた一連の概念に、したがってこれらの用語自体にも新たな生命を与える。

本節では、行為理論に関係するいくつかの問題を考察した後、主体的行為と構造分析との関係を明らかにする予定である。私が依拠するのは過去二十年間英米系の哲学者によって展開されてきた行為の分析哲学である。ただし、私はこれらの人々の定式化に特徴的に示されているように行為哲学には重大な欠陥があると主張したい。既に触れたように、私の中心的な関心は、行為哲学には制度の理論が欠落していることだ。私が提唱する二つの考察は、制度の理論を構築するのに不可欠である。ひとつは人間の主体的行為を理解するさいに時間性(temporality)を組み込むことであり、もうひとつは権力を社会実践の構成に不可欠なものとして組み込むことである。

『社会理論の最前線』p.58

こうした主観主義、客観主義双方への批判とその乗り越えという試みが十分意義深いものであることは確かでしょう。ただ、こうした試みがブルデューやギデンズの世代になってはじめてなされたものである、ここにはパラダイムシフトが起こったのだ、というのはいささか軽率な気がいたします。少なくともこうした試み自体は、いわゆる「近代哲学」の枠組みでも十分に意識され、論じられてきているのです。

広松渉

マルクス・エンゲルスは、唯物論の立場の標榜にともなって、もはや以前のように、唯心論と唯物論、観念論と唯物論、これらの対立を統一する真理の立場とやらを云々することはしなくなります。が、しかし、主観主義と客観主義、精神と自然、自由と必然、形相と質量、本質と実存こういった一連の二元的対立を止揚・超克しようというモチーフは決して放棄されたわけではありません。

原型的存在としての「人間」とは、ヘーゲル学派にあっては、そこにおいてこそ、かの主観性と客観性、個別性と普遍性、精神性と物質性……といった一連の分裂的対立が止揚され、二元的対立がしよう・統一されるごとき特権的な存在であったこと、まずはこのことが銘記されねばなりません。

『マルクスの根本意識は何であったか』p.111-172

そしてマルクス自身はこの問題を簡潔に、そして実に明快に以下のように述べています。

マルクス

これまでのすべての唯物論(フォイエルバッハのをも含めて)の主要な欠陥は、対象、現実、感性がただ客体のまたは観照の形式のもとでつかまれるだけで、感性的人間的活動、実践であるとはとらえられていないこと、主体的にとらえられていないことである。だから、能動的側面が唯物論に対立して観念論-これはもちろん現実的な感性的活動そのものを知らない-によって抽象的に展開される、ということが起こった。

『フォイエルバッハテーゼ』

マルクスが、既に過去形(「起こった」)で述べている事態、これは今でもつねに起こりうる事態なのではないでしょうか。こうした事態は、マルクスに習って「主体的実践」といったお題目を唱えれば構造の能動的側面を説明できると考えたある種のネオマルキストにも該当するといえましょう。

対象

デュルケーム

ひとつの新たな種類の諸現象が科学の対象となってくるとき、ふつうそれらは感性的なイメージによってばかりでなく、大ざっぱながらすでに形成されているさまざまな種類の概念によって、精神の中にあらかじめ表象されているものである。…人間は、諸物からなる環境の中にあって、それらについて種々の観念をつくりあげ、これをもって自らの行為を律することにより、初めて生きていくことができる。ところが、それらの観念は、これが対応づけられている実在よりも、われわれにより近しいものであり、より手のとどく範囲にある【と思われる】ため、われわれはおのずと、それらを実在に置き換え、思弁の対象とさえしがちである。諸物を観察し、記述し、比較する代わりに、この場合、自らの観念を意識にのぼせ、それを分析したり、結合させたりすることで満足してしまうのだ。実在にかんする科学に代えて、もはや観念論的分析を行っているにすぎない。…およそこのような科学は、観念から物へと進むのであって、物から観念へとすすみはしない。

『社会学的方法の基準』

広松渉

社会を関係主義的に把え返すことによって、マルクス・エンゲルスは、社会唯名論と社会実在論という近代社会哲学における二元的分裂・対立の地平を止揚するに至りましたが、そこで改めて、それでは関係としての社会はいかなる存在であるのか、それはいかなる構制になっているのか、これを解明することが課題になります。

『マルクスの根本意識は何であったか』p.111-172

社会というものはなるほど諸個人の営為とは独立な固有の実在であるかのように現象する。しかし、社会が諸個人の営為からまったく独立な実体である筈はない。このことはいかなる社会実在論者といえども知っている。だが彼らは、社会現象と諸個人の営為との関係を究明し、それを学的に把捉することができなかった。社会というものが自存的な法則性をもった固有の実在であるかのように現象するのは、諸個人の協働的営為が物象化されて形象化されることに因るものであるというこのこと、およびそのメカニズムを、”ブルジョア社会学”がしかるべくして究明できなかったのに対して、唯物史観はまさしくそれを対自的に究明する。

『唯物史観の原像』p.85

マルクス

われわれがそこから出発する諸前提は、けっして手あたり次第のものでもなければ、教条でもない。それは空想のなかでしか無視し得ないような現実的諸前提である。それは現実的諸個人であり、かれらの行為とかれらの物質的生活諸条件−既成のものであれ、かれら自身の行為によってうみだされたものであれ−である。それゆえ、これら諸前提は純粋に経験的な方法で確認されうるものである。

『ドイツイデオロギー』

意識にとっては、諸範疇の運動が現実的な生産行為として現れ、それの成果が世界なのである。そしてこのことは、具体的な総体が思考の総体として、一つの思想の具体物として、じっさい思考の、概念的に把握する行為の産物である限りでは、正しい。しかしそれはけっして、直感と表象の外部で、またはそれを超越したところで思考しながら、自己自身を生みだしていく概念の産物ではなく、直感と表象とを諸概念へと仕上げていく行為の産物である。

具体的なものは、それが現実の出発点であり、したがってまた直感と表象との出発点であるにもかかわらず、思考においては総括の過程として、結果として現れるのであって、出発点としては現れない。第一の道では、完全な表象が蒸発させられて抽象的規定となったのだが、第二の道では抽象的諸規定が思考の道をへて具体的なものの再生産に向かっていく。

『経済学批判要綱』

物理学者は、自然過程を、それがもっとも典型的な形態で、またそれが攪乱的な影響によってかき乱されることがもっとも少ない状態において減少するところで、観察するか、あるいは、それが可能な場合には、過程の純粋な進行を保証する諸条件のもとで実験を行う。私がこの著作で研究しなければならないのは、資本主義的生産様式と、これに照応する生産諸関係および交易諸関係である。その典型的な場所はこんにちまでのところイギリスである。まさにこのゆえに、私はこの国から、私の理論の展開にとって例証として役立つ主要な事実と例を借用するのである。

『資本論』

アルチュセール

イギリスもまたこの観点では不純で攪乱された対象であり、これらの「不純さ」や「攪乱」はいささかも理論上の障害ではない。というのも、マルクスの理論的対象はイギリスではなくて、KerngestaltならびにこのKerngestaltの諸規定において捉えられた資本主義的生産様式であるからだ。だから、マルクスが「理想的平均」を研究すると言うとき、この理想性は現実でないものや理想的規範の含みではなく、現実的なものの概念の含みであり、この「平均」は経験主義的平均ではなく、したがって特異でないものの含みではなくて、反対に特定の生産様式の種差の概念の含みである、と理解しなくてはならない。

現実の思考とこの現実との間に関係が存在することは疑いないが、それは認識の関係であり、認識の適切か不適切の関係であって、現実的関係、つまり思考がそれの認識であるところのこの現実の中に書き込まれた関係ではない。現実の認識と現実との間の認識の関係は、この認識のなかで把握される現実の関係ではない。

経済の科学はマルクスにとっては、あらゆる科学と同様に、現象の本質への還元、あるいは彼が天文学と比較していっているように「外見的運動の現実的運動への」還元に依存する。たとえ小さいものであれ科学的発見をした経済学者は、すべてこの還元を通過してきた。けれどもこの部分的還元は科学を構成するには十分ではない。そのときに第二の特徴が介在する。対象の全体性を包摂し、すべての経済現象の諸本質を結びつける「内的絆」を把握する体系的理論が科学なのである。

本質/現象のカップルの役目は、経済主義的または機械論的仮説をもって、非経済的なものをその本質としての経済的なものの現象として説明することである。この操作ではひそかに、理論構成法(と「抽象的なもの」)は経済の側に置かれ(というのも経済の理論は『資本論』のなかにあるのだから)、経験的なもの、「具体的なもの」は非経済的なものの側、すなわち政治、イデオロギー等々の側に置かれる。

経験主義的認識過程は、抽象と名付けられる主体の操作のなかにある。認識するとは現実的対象からその本質を抽象することであり、そのとき主体によるその本質の所有が認識と言われる。…現実的対象の現実的一部分として考えられた認識を現実的対象の現実的構造のなかに投入すること、これこそが経験主義的認識観の独自な問いの構造をなす。…経験主義的認識観にとって、認識の全体は現実的なもののなかに投入されることになる、そして認識とは、この現実的対象の現実的に区別された二つの部分の間の、現実的対象に内在的な一つの関係にほかならない。この基本的構造を明瞭に理解するならば、それは多くの場合に、特にモデルの理論という無邪気な姿で登場する経験主義の現代的形式の資格を評価するのに役立つことが出来る。…経験主義が認識の対象を本質のなかに指示するとき、それは重要な何ごとかを告白しているのであるが、すぐさまそれを否認してしまう。それは認識の対象が現実的対象と同じではないと白状する。というのも、それは認識の対象が現実的対象の単なる部分でしかないと断言するからだ。

経済領域の概念は、政治やイデオロギーといった生産様式の他の「レベル」のそれぞれの概念と同様に、そのつどの生産様式について構築されなくてはならない。だから、経済の科学は、他の科学と同様に、その対象の概念の構築如何にかかっている。…対象の概念を構築しないで、「事象自体へ」、ずなわち「具体的なもの」や「与えられたもの」へ向かおうとするすべての「経済学」は、望むと望まないとにかかわらず、依然として経験主義的イデオロギーにとらわれている…。

経済学は「素朴な」人間学を前提にしてはじめて、経済的事実をその実証性と計測可能性を持つ等質的空間に属すると考えることができるということだ。…経済学に固有の理論的構造は、与えられた現象の等質的空間と、その空間の現象の経済的性格を欲求の主体としての人間(ホモ・エコノミクスという与件)のなかに基礎づけるイデオロギー的人間学とを無媒介に直接に関係づけることである。

認識とは知識の生産過程であって、その過程はそっくり思考のなかで進行する(われわれが正確にした意味で)けれども、いやむしろそのゆえに、現実的世界に対して獲得(Aneignung)とよばれるこの把握(概念Begriff)を与えるのである。まさにこれによって、認識の生産の理論的問いが真実の地盤の上で提起される。認識は、その対象の認識として(われわれが正確にした意味での認識の対象として)、現実的対象つまり現実的世界の把握、獲得である。

『資本論を読む』

ブルデュー

経験至上主義とは、自生社会学に奉仕し、理論構成の権利と義務を放棄するものである。したがって経験至上主義が、人間行動は意識的・自発的な熟慮を表現したものであり、当人にとっても透明なものと見る自生哲学を取り戻していたとしても、驚くにはあたらない。

モデルの説明上の価値は、モデルを構成した原理から生じているのであり、モデルがどの程度まで形式化されたかによるわけではない。…理論モデルというものを認めることができるのは、そのモデルが認識論的切断の力を持ち、一般化の力を持っている場合であるが、この両者を切り離すことは出来ない。理論モデルとは、構成された対象を定義している関係すべての間の関係を形式化した図面であり、現象面ではきわめて異なるレベルの現実へと投影され、新しいアナロジーとの類推のよって、新しい対象構成の法則を示すものである。

理論こそ経験に対する理性の認識論的優位性を実現しているという事実に基づいて[頂点に位置するものと]決まっているからである。したがって、理論こそ認識論的切断、対象の構成、実験の根本的条件であり、それは理論を理論たらしめている体系性のおかげであるとしても驚くにはあたらない。…ただ理論だけが、事実の間に体系的関係を成立させることによって、事実の体系を作り出すことが出来る。

『社会学者のメチエ』

確立した秩序、およびその基礎をなす資本の分配は、それらが存在していることそのことによって、つまりそれらが公に正式に肯定され、したがって(誤)認識され承認されるときから及ぼす象徴的な効果によって自分自身の存続に貢献する。それゆえ、この秩序と資本分配が、それが社会的存在の客観性そのものにおいて認識(誤認と言うべきか)の対象であるという事実に負っているものいっさいを取り逃がすことなしには、社会科学は、デュルケームの準則に追随して「社会的事象を物として取り扱う」ことなどできないのだ。社会科学は、自分が「客観的」定義を勝ち取るためにまず破壊しなくてはならなかった対象の一次的表象を、対象の完全な定義のなかに導入し直さなければならない。個人や集団は、どれが何であるかによってばかりでなく、何だと見なされているか、つまり存在にしっかりと依拠してはいても決して全面的には存在に還元できない知覚された存在によっても客観的に定義されるのだから、社会科学は、個人や集団に客観的に付着している二種類の属性を考慮しなくてはならない。一方では物質的な諸属性があり、それは、身体をはじめとして、物理的世界のどんな物とも同じように数えあげ測定される。もう一方には象徴的な属性があるが、それらは、相互関係のなかで、、つまり弁別的な属性として知覚され評定されるときの、他ならぬ物質的な属性なのである。

社会物理学と社会現象学との二者択一を乗り越えうるとすれば、それは、諸々の属性からなる物質的宇宙が示す規則性と、ハビトゥス、つまりそれにとって、それによって社会的世界が存在する、社会的世界の規則性の産物であるハビトゥスのクラス分けの図式との間に成立する弁証法的な関係の源にひとが身を置く場合に限られる。

『実践感覚』

時間・歴史

アルチュセール

歴史の対象は、歴史的探求自身を通しての、歴史概念の生産と構築である。理論的学問としての歴史学の対象は、特定の歴史的実在の諸変動の特有の規定の概念特定の歴史的実在の特有性の概念の生産なのである。そしてこの特定の歴史的実在とは、特定の生産様式の属する特定の社会形成体の構造と過程の実在に他ならない。

歴史学の対象は独自の規定をうけた歴史の概念そのものなのである。歴史の対象は、歴史的探求自身を通しての、歴史概念の生産と構築である。理論的学問としての歴史学の対象は、特定の歴史的実在の諸変動の特有の規定の概念、特定の歴史的実在の特有性の概念の生産なのである。そしてこの特定の歴史的実在とは、特定の生産様式の属する特定の社会形成体の構造と過程の実在にほかならない。

『資本論を読む』

ブルデュー

マルクスが幾度となく示したように、ある社会システムの示す特性、ならびにシステムの作動によってもたらされる結果が、システムの「本質」のせいであると考えられてしまうのは、そのシステムの生成ならびに歴史的機能(すなわちそのシステムを諸関係のシステムたらしめるすべてのもの)が忘却されてしまった場合である。マルクスのいわんとしたことをもっと正確にいえば、こうした方法上のあやまりがなぜそれほどに多いのかというと、「歴史」を消し去ることによって、このあやまりがイデオロギー上の機能を達成しているからである。

『社会学者のメチエ』

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