重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

No.29
2004/09/01-2004/12/31

★未来は近づくとその輝きを失う

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■激動の一年を振り返る

更新はもう原則はてなの「重層的非決定?」の方で行っているので、こっちは完全放置。

向こうは新年の挨拶も済ませたが、こっちは最後に今年もとい去年の総括。

隠し芸での安倍姉妹の絡みで始まり、なっち活動休止で終わった一年。なんだそりゃ。

(2004年12月31日)

■勝利

こっちはジャスト一ヶ月ぶりの更新。向こうは「はてな」のキーワードシステムでの訪問者が圧倒的に多いので、とにもかくにも安倍さんを応援してやろうと意地になっている。久々だな、こんな意固地な気持ちになるのも。

向こうに「勝ち負け」に拘泥する馬鹿どものことをちらりと書いたが、要するに今の日本社会を覆っているどうしようもないすさんだ空気というのがこの単純極まりない二元論に発するものではないか、という気がしている。安倍さんの件でも「狼(2chモーニング娘。板)の勝利!」なんて書き込みを見るに付け、そう思う。

この単純極まりない二元論を、もちろん最先端で行く政治家が、あの単細胞小泉君だ。単細胞の癖に二元論とは生意気だ。靖国訴訟でも、「私が勝ったんだから」とか何とか言ったとか。裁判の、様々な含意はすべて消し去って、最後の最後の残りかすのような結果が全てか。

安倍なつみ、告訴されず。法的責任は問われず。なっち大勝利なのです。

(2004年12月4日)

■イデオロギー装置としての身体

結局のところ天皇である人の身体とはまさにイデオロギー装置なのだ。

天皇制とはもちろん「制度」ではあるが、それはまさしく「身体」を通じて機能する。天皇主義者たちは、「国旗」「国歌」なるものを強要し、それによって国家なる大きな物語に人々を動員せんと画策する。その動員には様々なイデオロギー装置が機能し、かの物語への動員を支援する。そのひとつとして天皇である人の身体は機能しているのである。

制度としての天皇制への動員を、「皇室の方々」への「人間的」親しみという回路を通じて実現する。人々の、有名人とりわけ「セレブ」な人々への憧れと親しみが国歌イデオロギーに回収される。それは長らく一貫した装置として機能してきた。

だから「我々」反天皇主義者たちは困難な踏み絵を踏まされてきたのだ。一方で天皇である人にたいして個人として敬意を払いつつ、制度としての天皇を否定する。しかしこの戦略は、まんまと身体としてのイデオロギー装置の機能に取り込まれてしまいがちであった。一つの装置として機能している制度としての天皇とその身体とは、理念上は分割できても、実質的にはその分割は説得力を持たなかったのである。そこで身体の持つイデオロギー装置に目を向けざるを得なくなるや、反天皇主義者たちはその身体を戦場に選ぶことになる。「天皇が暗殺される夢を見た」とか「裕仁は平和主義者ではない」とか「天皇の血筋は代々妾腹によって相続されてきた」など。いまなら「で、だから、どうしたの?」で済まされてしまうような言説が、しかし、闘争の言語として用いられざるを得なかったのだ。しかしその闘争は、反天皇主義者は人間の温かみを感じない奴らだ、というような感情の元に敗北する。まさに「身体」としてのイデオロギー装置に敗北を余儀なくされたのだ。

時が移ろい、先人たちの敗北の痕跡も消し去られたころ、イデオロギー装置は自らのうちに矛盾を抱え込むことになる。身体は次第に制度とずれを生じ始め、制度は身体の隠蔽に躍起となる。しかしそれはイデオロギー装置としての脆弱化を意味している。いまやナイーブな「皇室への敬愛」は制度的天皇主義者とは対立する。

多分、だが石原慎太郎は明仁氏のこと、個人としてはそれほど敬意を持てていないように思えてならない。口が裂けてもそうは認めないだろうけれど、そうでなければあそこまで明仁氏の発言を抑圧できるはずがない。私のほうがナイーブな「皇室への敬愛」に近い心性を持っているんじゃないか?少なくとも私は、あのような信じられないひどい環境下において、べつに件の発言だけに限らず、それ以外の部分でも日常的にとても真っ当な感性を持っている人、という意味で、ごく普通の環境下で真っ当な感性を持っているがゆえに私が普通に尊敬するに値すると考えている人よりも、明仁氏のことは敬意を払うに値する人だと思っている。石原氏の明仁氏への、人間としての敬意がどんなものかは私は知る余地がない。

(2004年11月4日)

■続き

天皇制に関することは「はてな?」ではなく、こっちに書くヘタレ。向こうの芸能系キーワードからのアクセス数の多さに畏れ。

明仁氏発言だが、はっきりしているのは米長は冷や水を浴びせかけられ、政府関係者はそのような発言が引き出されたこと自体を苦々しく思っているであろう、ということだ。だからかれらのとる戦略はひたすら鎮静化を図り、つまり何事もなかったかのごとく、その発言を事実上抹殺することだ。

となると問題になるのは逆の立場の戦略、日の丸君が代の押し付けに抵抗する側の戦略だ。件の発言を「利用」することありやなしや。天皇制を否定、あるいはぎりぎり象徴天皇制をよしとするそれらの立場からして、件の発言を利用することは出来ないように思われる。実際、内心ざまミロと思うものはいるだろうが、表立って「利用」することにはためらいが見られる。

しかし私は利用するのも可ではないか、と考えている。「ご成婚」ブーム、「懐妊」報道などこれまで天皇の身体は制度に利用されてきた。制度はまさに身体を媒介として強力に機能するのである。身体とはまさしく政治的闘争の主戦場足りうるのである。

もちろん慎重な戦術は必要である。天皇の身体は圧倒的に天皇制の下にある。「天皇が言っているのだから、押し付けはだめだよね」というナイーブな物言いでは「勝てない」。そうではなくて、天皇制と身体との連続性に生じた軋みとしてのこの発言を楔にして、撹乱させること。かれらの戸惑い・困惑を最大限に増幅させること。早い話、かれらの嫌がることを徹底して行うこと。要は明仁氏の発言を面白がって反復しつづけることだ。

(2004年11月02日)

■平成源氏

最初重層的非決定?のほうに書きかけたものだが、なんとなくこっちに上げるのが正しい気がしたので、久々にこっちで更新。

天皇こと明仁氏が東京都教育委員の米長氏に対して「日の丸・君が代は強制でないことが望ましい」と述べた件。

さしあたり、痛快。米長氏が得々と「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話しかけたその腰を折る発言、ブラボー。米長氏や石原がいろいろ言い繕っているようだが、いずれも「言い繕い」であることは本人が一番わかっていることだろう。彼らにとって制度として敬愛すべき天皇から出された最大限の批判。自らの愚行に冷や水を浴びせかけられた気分になること明白。

それとは別に憲法とのかかわりに関する問題。天皇は「国政に関する権能」を持ってはならない。これに抵触するか否か、だが、明仁氏の発言に対して*有名人*の個人的な感想*以上の*意味が付与されるのは発言を受けた相手が制度的天皇崇拝者だからであって、明仁氏自身はなんら政治的「権能」を制度として持っていない。憲法が述べているのは、天皇が制度的にいかなる権能も持ってはならない、といっているだけであって、個人としての意見表明を制約するところまで踏み込んでいるわけでもあるまい。あるいはもしそうだとしたら、それこそ天皇制とは天皇である個人の人権を完全に踏みにじる制度なのであって、それは天皇である、あるいはこれから天皇になる人のためにもこの制度は廃絶されるべきなのではないか、といってみようか。

さらにまたそれとは別に、しかし明仁氏の発言は、小泉の靖国参拝と同じく、個人と制度的存在とは切り離し得ない状況でなされたのだから、軽率であった、とはいいうるかもしれない。ただそれにしても、小泉は記帳にわざわざ「内閣総理大臣」と制度的存在であることをことさらに誇示していること、それに対して明仁氏はあくまで会話の中で感想を述べたに過ぎないこと、また小泉は総理大臣をやめることはいつでもできるが、明仁氏は天皇であることを辞める手段がないこと、などを考え合わせれば、やはり状況は違うし、そうやって突き詰めれば突き詰めるほど天皇制は非民主的な制度であるとの結論に行き着くよりない。

一刻も早く源明仁(仮名)氏としての、当たり前の人権が保障される時代が来たらんことを。

(2004年10月30日)

■お知らせ

日々の内容のないただの日記は原則「はてな?」を用いた重層的非決定?に書くようにします。

まだ全容がつかめておらず、よちよち歩きですが、とりあえず更新の手間が省けるのは確か。いろいろ思いもかけない機能が働いたりして、ちょっと楽しい。どんな環境でもネットにさえつながれば、こそこそ更新できるのがよい。なるべく最低一日一回は更新。ただし現代思想系はリハビリ中に転んでしまったので期待薄。モーヲタ系中心になる模様。ついでにアンテナも作ってみました。まだ未完成。

(2004年10月26日)

■境界の揺らぎ

これまた古い話だが、デリダ死去。

そのニュースを私はかろうじて朝日新聞で知った。「かろうじて」というのは一歩間違えれば2chしかも「モーニング娘。板」で知るところだったからだ。

というわけで、もうそのスレ自体はなくなってしまったが、なかなかに面白いスレだった。なんで「モー板」にデリダ?というわけで、娘。ヲタが何を言っているのか、哲学板の人間が偵察に来たりして、あそこなら半端な知識でチューターが務まる、とか言ってきてみたら、意外とまともなレスがついていて驚いた、とかそんな感じ。娘。ヲタはキチガイか、ロリコンしかいないと思っていた、というレスもついたりしていたが、それは間違いで、キチガイでロリコンでもデリダは語れる、というほうが正しい。

(2004年10月24日)

■なちコン

気合を入れて書きたくなったネタが表題。といっても時間がたちすぎてかなり印象も薄れ気味。

10月4日から東京で仕事があり、前日夜には東京入りしていなければならなかった。これまでは同じ東京へ行くなら早い目に行って東京見物していたが、そろそろ東京も飽きた、ということで、丁度?前日3日に奈良で安倍なつみソロコンサートがあったもので、「ついで」に行きました。

ネットでいろいろ見ていると空席だらけだとか書いてあったりして、じゃあせめて枯れ木の賑わいとでも行くかとか、当日券も間違いなく買えるだろうとか、一度くらいはヲタとして見ておくものだろうとか、そんな感じの低いテンションで。

会場は割りとこじんまりとした小奇麗なホール。会場前にはぱらぱらと待ち人が。ただし想像していたより疎らで、かつ想像していたよりおとなしい雰囲気。「いかにも」というはっぴを着ていた人を一人見かけたが、そのはっぴには「石川梨華」という字。そして想像していたとおり、おっさんが多い。50−60台と思しき男性の姿もちらほら。女性もちらほら、それも結構おばさんが目に付く。ある意味アイドルのコンサートらしい、のだろうか。ヲタの集団と思えば「らしい」が、それにしては年齢がやや高め。少なくとも華やいだ雰囲気ではない。現役のアイドル、というよりは伝説のアイドル10周年記念コンサート、という感じだろうか。モーニング娘。のころのコンサート報告を読んでいた限りでの印象とはかなりずれる。

会場ではグッズの販売。コンサートパンフレット代わりのDVDを購入。ついでにちょっと変わったデザイン(「な」と「A」を組み合わせた)のストラップも買ってしまった。DVDはともかくプラスチック製の安っぽいストラップに1600円。金銭感覚をあえて狂わす。

チケット代6500円をざっくり払って当日券を入手。当然会場最後列。左隣は割と普通のファン2人連れ。右隣はかなりのおっさん。ちなみに私は翌日以降の仕事着をそのまま来ていたので、背広にネクタイ姿。日曜日昼間のコンサートにそんな姿で来るやつは他に誰も見かけなかった。

コンサート自体も割りと淡々と進む。ネットなどで聞いていたよりもみな大人しく、暴れる人など見かけない。声援もうるさいほどではない。安倍さんもハロモニのようなテンションではなく、わりと「マッタリ」した雰囲気。ゲスト出演している中澤さんが頑張ってテンションを上げようとしているが、ちょっと空回り気味。ハロプロコンサートではDVDを見る限り、安倍さんもかなり煽り役なのに、自分のソロコンサートではゆったり、マッタリ。テレビではほとんど見られなくなった「年上メン」の中澤さん、保田さんとの共演で、すっかり妹キャラに逆戻り、「リーダーは裕ちゃんなの」ってな感じで、自分は割りと気楽に楽しんでいる感じ。

そういうわけで盛り上がったんだか、盛り上がらなかったんだかよくわからなかったのだが、後でネットで参加者の感想を聞いてみると、いつになく盛り上がったコンサートだったらしい。え?あれで盛り上がったほうなの?というのが正直な感想。大体においてなちコンはまったりしたものらしい。

で、結局お前は楽しんだのか?と聞かれれば、それはもう、想像していたよりずっと楽しかった。顔・表情ほとんど見えず、静かな曲の最中に隣のやつが私語しやがってムカつき、私自身も声援ひとつ送らず突っ立って見ていただけ、なのにとても楽しかった。

会場販売のDVDは全然期待していなかったが、これまたとても面白かった。中澤さんと水族館に行き、はしゃぐ安倍さん。何回見返しても飽きません。ついでに会場で購入したストラップ。普段持ち歩いているUSBメモリに付けた。人の目にも触れるけれど、よもや気づく人はいるまい。

(2004年10月19日)

■シツレンジャー

さらにまだまだ古ネタを。

後浦なつみのデビューシングル「恋愛戦隊シツレンジャー」、精神修行の一環として購入。当初A面の予定が途中でカップリングに格下げになったという「Love Like Crazy」をほめる声も聞き、ちょっと期待。

「恋愛戦隊シツレンジャー」のほうは大体曲はテレビで知っていたので、想像通り。曲だけ聴いてもいまいち、やはり映像込みのほうがいい。CDはそういうわけでいまいちだったが、テレビでは久々に後藤さんが楽しそうにやっていたのを見れたのでよかった。

「Love Like Crazy」は完全に期待はずれ。面白みもなければキャッチーでもない、なんかつまらない曲。

(2004年10月19日)

■姉妹喧嘩

とりあえず比較的どうでもいい話題から。

突然、藤本美貴のことが気にかかり、近所のツタヤの中古売り場探したら、藤本のソロアルバムを発見、いそいそと買い、早速MP3に落として聞きまくる。すばらしいアルバム。ついでに某所でファンクラブ用のDVDに収録されたという藤本の「ウソつきあんた」を入手するが、これまたすばらしい。ミキティ熱が上昇する。

ハロモニで藤本が司会の安倍に思いっきり突込みを入れる。早押しクイズで問題途中で回答ボタンを押したチームに対して回答の権利を確保した上で、問題全文を読もうとする安倍に対して、藤本すかさず「え?続き読むの?」。思いっきりため口。安倍「続き読んでいいの?」とスタッフにお伺いを出し、「後で藤本さんに締められる」。

なちミキヲタにはたまらないシーン。

(2004年10月19日)

■無題

気がつきゃ、一ヶ月近くの大放置。週休3日制は一応保たれているはずなのだが、何かと家で作業をしていたりして、なかなか落ち着いた気分にならない。

また安直に書きたくないことがあって、それなりに気合を入れて、などと思っているとどんどん筆が遠のき、ますます気合を入れなければ書き出せなくなる、という悪循環。どの道じっくり物をかけないのなら、何もない日常を淡々と書くほうが更新できるかもしれない、などと退廃的なことさえ考える。

さしあたり今忙しくなったのは、看護学校が後期から始まったことが大きい。例年苦しみ続ける看護学校。「今年こそは」といつも思う、その思いとは「気合を入れよう」、ではなくて、「割り切ろう」、というものなのだが、今のところその割りきりがぎりぎり何とかなっている。明日で3回目だがまだ自己紹介中。明日でようやく全員の自己紹介が終わる見通し。一人一人に90秒で自己紹介をさせて、それを受けて雑談。何の授業だかわからん。とりあえずかれらは「メタ」思考はまったく興味を示さないから、とにかく「ベタ」に、となれば教育屋としての売り物は己のみ、ひたすら己の人間性を切り売りする。今クールのドラマの話をしていたら、生徒が「先生は矢田亜希子がタイプでしょう」とか言ってきたので、「今やってるドラマの中でだったらミムラがいい」というと「え〜」と来た。「なっち」などと言おうものなら変に納得されそうで、いずれにせよ今はドラマに出ていないから、言わなくてすんでよかった。これってでも、ただの雑談、後12回、この調子でやるわけにもさすがに行かない、そろそろ何かネタ考えないと。

(2004年10月19日)

■後浦なつみ

もうすっかり乗り遅れた話題だが、しかしまだ曲の発表はしていない、あの話題沸騰、レコード大賞他賞総なめまちがいなし、まさにハロプロ最強のユニット「後浦なつみ」について。

最初その話題がネットで流れたとき、安倍なつみ、後藤真希、松浦亜弥三人のユニット誕生、ユニット名「Global」、新曲「Love Like Crazy」だと聞いた。正直、がっかりした。興味を持つまい、と思った。なんというか、小室哲哉の二番煎じみたいなユニット名だし、そういうのをこの期に及んで企画するのはつんくとかとは全然別の力学が働いていること明白だし、そんなのに我がなっちこと安倍なつみが添え物のごとくつき合わされるのを見るのは真っ平だ、と。

次に情報が入る。ユニット名は「後浦なつみ」だと。多くのヲタどもが落胆する中で、私は舞い上がる。後浦なつみ、最高じゃねーか。

さらに曲名の情報が入る。「Love Like Crazy」はカップリングで、A面の曲名は「恋愛戦隊シツレンジャー」。ヲタどもがまたもや落胆する中で私はますます舞い上がる。「シツレンジャー」!!これを買わずしてJ-POP、何を買うのか。まだまだハロプロを見捨てられなくなったのだが、私の感性、正常だよね?

(2004年9月22日)

■古きむなしき時代

もはや放置の言い訳は書くまい。もう、なのか、今は、なのか、何か思想を表現しようというだけの気力・体力がない。なっちは相変わらず可愛いが、といって別に明日例えば結婚して引退してもそれを喜びこそすれ、何を惜しむだろう。

看護学校。今年は後期。またしても開講前になって、やることがないと慌てふためく。かれらに何も伝えたいものがないのだからどうしようもない。せめて看護学校がIT教育に熱意なり、最小限設備なりが整っていれば、その周辺でごまかせるが、それもない。開き直って、ヘルバルトが、とかクルースプカヤが、とかやってやろうかなどというのも冗談にもならない。家の本棚をあさっていたら「医療社会学を学ぶ人のために」という本が出てきたので、このあたりで何かネタになるか、と思って読んでみたが、いかにもただの社会学を「医療」という場でやってみましたというだけで、看護学生にぜひ伝えたいと思えるようなネタが見当たらなかった。

企業研修がらみで「ロジカルシンキング」という、カタカナで書くとやたら胡散臭いことに関わっていたりするので、その辺から何かないかとこれまた家の本棚をあさっていたら、鷲田小弥太の「論理的に考える練習」という本が見つかった。鷲田小弥太、「大学教授になる方法」という本を出して一躍有名人になった、もともとはマルクス主義思想研究者。彼が有名になる前に私は目をつけていて、「唯物史観の構想」とか「イデオロギーの再認」とか、そんな本を買い込んでいた。非常に小難しい、哲学的な文体だったが、しかし何かしら飄逸なものを感じ、現代マルクス研究者として何気に期待していた人だった。その人が「大学教授になる方法」という人を食ったような本を出して人気だと聞いたとき、己の目の付け所のよさに一人うれしくなったものだった。権威をマニュアル化してしまう、そのセンスこそ「左翼」に必要なものだと私は感じたのだ。しかしなぜか「大学教授になる方法」自体は購入しなかった。それで今はアカデミズムから離れて、、、(以下省略)。

そんな人が書いた「論理もの」。買ったのは比較的最近で、何かに使えるだろうと思い、著者名だけで購入した。いつか使おうと読まずに放置していた。それで改めて読んでみた。

「トンデモ」本だった。著者名よりも出版社を見て怪しむべきだった。PHP出版。もちろんプログラミング言語とは無関係の*あの*出版社。なんというか、薄っぺらい、それなのに変にイデオロギー色のついた、フジテレビのような出版社。

この本もすっかり出版社の色に染まって、肝心な内容は薄いくせに、変なイデオロギーの押し付けだけは熱心だ。「論理的」に考えることを教えるはずの本なのに、全然論理的ではない。題材として様々な文章を取り上げてそれに問いを付すという形式の本なのだが、そしてその問いが「論理的欠陥を」指摘せよ、というような問いなのに、解説部で、素材となっている文章は「(日本の歴史に)無知だ」とのたまう。無知と論理的欠陥の存在とはフェーズが違うだろう。別の例題。ある小難しい文章を取り上げて、その問いに「この筆者を推定しなさい」。解説部でその文章に散々難癖つけて、この文章の筆者は大江健三郎であると明かす。どこが「論理的」な思考の練習問題なのだ?単に大江健三郎を腐したくて、そのもっとも効果的なやり方としてあえて筆者を隠すことによって焦点化するというレトリックを使いたかっただけじゃないか。一切が万事この調子で、論理なんてどこいったっけ?単に己が社会に向けて提言したいらしいことを今はやり(?)の「ロジカルシンキング」物の体裁を整えて本にしただけなのだ。

言ってしまえばこの人、マルクスのよき部分をどうしたかは知らないが、マルクス主義の最悪の部分だけはしっかり受け継いで、「保守」化しただけの人なのだ。明らかにそこで期待されるべき文脈とは無関係の事柄を持ち出して、その事柄を知らないやつはだめだと主張しているだけなのだ。文化論の文脈で「帝国主義の横暴」を考えないやつはだめだ、論理的思考の文脈で(例えば)「日本の歴史」に思いを寄せないやつはだめだ、それこそロジカルには瓜二つの最悪の思考形態を反復し続けているのだ。

人気評論家だかなんだか知らないが、そんな「トンデモ」本を書く暇があったらもっとやるべきことがあるだろう。80年代に散々ぱら書いたマルクス主義思想書、それらをもう一度読み返して、内在的に自己批判し、いかにマルクス主義が間違っていたか、そうしていかに己はそこから脱却し、新たな思想を築いていったのか、その「転向」の過程をきちんと振り返る作業が必要ではないのか。それが「マルクスの生前中においてもその死後においても、成長しつつある世界史の思想として展開するために、絶大な知的エネルギーを結集・発揮するときがまさに来つつある」と煽った著者の、最低限の責任ではないか。それを行いもせずに口をぬぐって「マルクスは、自分の学説や主張の優位さを誇るために、彼以前の学説に『新たなもの』を付け加え、壮大な宮殿を打ちたてようとして、むなしく終わった」(「思考法辞典」鷲田)などと薄っぺらいマルクス批判を口にするなど、よほどの厚顔でなければできぬことである

(2004年9月22日)

■ググリテラシー

WindowsXPの再インストールでトラぶり、見たこともないエラーメッセージが出てきたので、それをGoogleで検索すると、それなりに情報が出てくる。また知り合いが160GBのハードディスクが137GBまでしかWindowsXP上で認識されないが、なぜだろう、と聞いてきたので、果てさてそんな137GBの壁なんてあったっけ、とやはりGoogleで検索をかければ、あっさり出てきた。USB外付けHDDは問題なく認識できていたのでうっかり忘れていた、まだWindowsXPにはそんな壁があったとは。その結果を教えたら、どうやってそんな情報を見つけられたのか、と驚かれる。ネット上にあった、といってもいまいちぴんとこないようだ。

今は大概の情報は、PC関連であるなしを問わず、ネット上で探し出すことができてしまう。しかしその方法は意外と伝えるのは難しい。やっていることは単にGoogleにアクセスして、*適当な*キーワードを打ち込むだけ(このことを「ググる」という動詞で通じるというのも、その作業が人によっては端的にルーチン化していることの証だ。もちろん「ヤフる」でも「インフォシークる」でもいいのが)、口で伝えても一瞬なのだが、「適当なキーワード」が簡単なようでそれなりに技がいる。それほど複雑なことをやっているつもりもなければ、特に技術として確立するようなものもないのだが、検索エンジンの特性とか、ネットで情報をあげる人の一般的な癖だとか、調べたい分野についてのある程度の教養だとか、そういうさまざまな要素が絡み合って、そう一筋縄ではいかないものなのだ。逆にこの検索に慣れてしまえば、知識を得るだけならば、新聞の縮刷版もいらなければ百科事典も不要、図書館で探し物をする必要もない、IT技術について言えばマニュアルも要らない、というヒッキーにはたまらない知の天国が得られるわけだ。もちろんきちんと人に伝えたり、文章にする際には「ソースはネット」でよかろうはずもないが、自分で知識を得るためだけなら、ネットだけで十分信頼できる情報を得られてしまう。

いまさらながらそれはたいしたことだと思うのだ。特に意識して行うような明文化しうる技術はなく、単に経験をつめばそれだけスキルがあがり、さらに効率的に情報を得られる。多くの具体的知識はもはや頭の中に必要なくなり、外部に蓄積され、ただそれを探し出すロジックだけが重要となる。ロジックが重要だが、その体系は経験的にしかえられない、というこの構造はまさに「言語」そのものであり、確かに検索エンジンの活用は「リテラシー」と呼ぶにふさわしいものなのだ。

(2004年9月2日)

■だらだらPC日記

8月18日から3日間横浜。帰ってきたら一週間某市民向け研修担当。その後も後始末やらなにやらごちゃごちゃ仕事。気がつけば9月。気分一新、ページも一新。

今回の横浜、宿泊先がネット接続できないことが事前にわかっていたため、仕事の都合上それでは具合が悪いこともあって、ぎりぎり新幹線に乗る直前、京都駅sofmapにてb-mobile U50(PHS,32kbpsでのネット接続権)を購入。税込み52500円で一年間使い放題。普通にH"に契約するほうが若干安いかもしれないが、何の事務手続きも要らず、ショップでただ金を払えばおしまい、という手軽さに負ける。すでに使いもしない携帯に3000円も払い続けていることもあって余り通信費を増やしたくもないし、また仕事のために自腹を切る、というのも理念的にも避けるべきだと思ったが、出先で常にネット接続環境を得られる、というのは個人的にも魅力的で、つい購入してしまった。

32kbpsという速度は確かに速くはないが、しかし56kbpsモデムで時間を気にしながら接続していたころを思い出せば、どうということはない。b-mobileはH"のDDIポケットの回線を利用しているのだが、このPHS網、実に接続性がよく、うわさに聞くPHSの弱点をほとんど感じることはなかった。新幹線車内でもそれなりにネットにつながるのには正直驚く。これならば音声通話もPHSにすればよかったか、とほとんど使いもしないauの基本料金を恨めしく思う。使おうが使うまいが一日140円という額は(ヒッキーである私にとって)微妙だが、出先での仕事が増えれば、かなり重宝するはず。なっちこと安倍なつみ新曲の売り上げを出先でいち早く確認できた功績は大きい、といわざるを得ない。

出先での環境が進展すると、さらに整えたくなるのが人情、また秋以降の仕事の都合上、カメラ付端末があったらいいな、とか、もっと軽い端末がほしいな、とか思い出すと、ThinkPadT40のほかにPDAなり何なりがほしくなって来る。現在PDA市場は冷え込んでいて、あまり種類は出回っていないがZAURUS、クリエ、WindowsCEの中に何かあるかもしれない、と物色しに行くつもりになっていた。しかしその前にそういえばずいぶん前に買って、現在放置してあるWindowsCE機Sharp Telios AJ-2を思い出し、電源を久々に入れてみる。810gという重量はT40からすればずいぶん軽いが、Sony VAIO X505が785gとか聞くと、ありがたみも薄れる。動作が遅く、機能も貧弱で、これ一本で出先で仕事OKとは行かないし、さりとてT40と一緒に持ち歩くには重過ぎる。まさに「帯に短し、襷に長し」状態なのだが、b-mobileでつなげてみたら、これはこれなりに使えそうな気がしてきた。Pocket Internet ExplorerはCSSには未対応だし、動作が特に緩慢で、またちょっと重いページを閲覧していると落ちてしまうなど、とても快適とはいえないのだが、しかしぎりぎり使えなくもない。付属のメーラはなかなか使いやすく、出先でのメールチェックするのには十二分だ。また購入時におまけとしてもらったPCカード型のデジカメ、購入時にはマニュアルの対応機種としてTeliosが入っておらず、店が間違えてサービスしたのだと思い込んで、放置していたのだが、今使ってみると問題なく使えていた。これまでにも使うチャンスがあったかも、と悔やみつつ、結局なんだかんだ、予定の仕事環境がそれなりに整備されていくではないか。たしかに810gのWindowsCE機を持ち歩くよりはX505を持ち歩きたい、でもTeliosは今現に手元にある(つまりただ)のに対してX505は240,000円も投資が必要。ただと思えば逆にずいぶん使い出がある気がしてくる。

T40と2台の持ち歩きはかなりつらいものがあるだろうが、紙資料を減らせば何とか、などと考えて、それならさらにT40とのデータの連携を何とかせねばならない、と考えが進む。Telios AJ-2はシリアル経由で母艦(Windows機)と接続をする。しかしT40にはそのシリアルポートがない。となればデータ交換はこれまた以前に買ってあったMicroDrive(コンパクトフラッシュサイズのハードディスク)を使えばよいだろうとT40のPCカードスロットに入れるが、なぜかうまく認識しない。他ではきちんと認識できているから、T40の設定が悪いのだろうといろいろいじっていると、T40の調子がおかしくなってきた。まともに起動もできなくなって、データのバックアップなどぜんぜん取っていないこともあって、途方にくれる。リカバリをするのが常道だが、それをすると大量のデータが消えてしまう。何とかリカバリをせずに済ませたい、とライセンスがあまっているWindowsXPを用いて、上書き再インストールを試みる。ところが理解不能なエラーを出して失敗。どうやらXPのシステムファイルのバージョン違いで、上書きインストールはうまくいかないことがよくあるらしい、というのをネットで確認。やむを得ず別のフォルダにWindowsXPを新規にインストールする。この状態で何とかWindowsXPが立ち上がり一安心、ただしこのまま使い続けられる状態でもなく結局データを全部外付けHDDに退避して、リカバリすることになる。セキュリティの都合などでUpdateしたら、再インストールがうまくいかなくなるというOS、とてもイカしている。けっきょくそれで一晩徹夜する羽目に。

それでもかつてはリカバリする際には、ツール類、ブラウザのブックマークなども全部バックアップを取っていたものだが、ツール類は再度ダウンロード、ブックマークがなくなってもググれば(Googleで検索すれば)おしまい、何らかのトラブルもすべてネットで情報が得られる、いまさらながらよい時代だ。

(2004年9月2日)

★過去は常に美しい

(-2004/08/15)



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