重層的非決定

モーニング娘。
L. Althusser
No.20
2003/04/1-2003/04/30

★光り輝く週、その後の病

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■猥雑さへの*執着*

「サンデープロジェクト」を一瞬見る。田原総一郎が石原待望論を煽るような、あいも変わらないセンスのない老害振りを発揮する。小選挙区制待望論、新進党待望論、小泉待望論、それらを煽りながら、後で「いや、自分はそれには与していない」などと開き直る。それの繰り返しだ。

多分彼は主観的には「与して」などいないのだろう。彼自身の好みとは別に、「客観的に」そういう声がある、それに対してどういう態度をとるのかを単に聞きただしているだけだ、と。「政治家」たちは、田原のそうした「追及」にあいまいな回答をして口を濁す。田原は、いよいよヒステリックに、「追及」を反復する。「決断」をせよ、と迫る。「決断」することが価値化される。

望みもしない結果を執拗に引き出す田原の問いは症候的である。「見たくもない」女子高生のミニスカートのすそに引き付けられる視線に似て。

(2003年4月27日)

■夢か現か

平家みちよが新規プロジェクト開始とかで久々にテレビに出ていた光景が頭の中にぼんやりと浮かぶのだが、たぶん夢なのでしょう。

(2003年4月27日)

■ひ弱な私

先週からずっと風邪を引いている。寝込むほどでもないので仕事には行っている。すると、悪化はしないまでも、なかなか完治しない。常にのどに引っかかりがある感じが続く。物事に集中できない。

本を立て続けに三冊購入。ジジェク『信じるということ』、『「テロル」と戦争』、冨山一郎『暴力の予感』。でも集中力を欠いた状態ではぜんぜん読み進まない。

看護学校の授業。作文させようとしたら、ごねる奴、複数名。「作文」といった途端に文字を書くのが嫌だなんだとぬかす。こんなのも初めて。文章を書くことの意義を説教がましくしゃべるが、どうにもならん。先行きが不安になる。

大学。購読はともかく、情報処理の授業はなんとも騒々しい。常にどこかで喋り声がする。私語の注意など例年数えられるほどしかしなかったのだが、この授業では一回の授業で一年分の注意をせざるを得ない。苛立ちが募る。体調が悪いとどうにも辛抱ということができないようだ。学生の質が悪いのか、私の辛抱がきかなさすぎなのか。

それに比して反射神経だけで成り立つ仕事は楽だ。辛抱が要らない。ものをじっくり考える必要がない。突き詰めることを必要としない。それでも仕事は成立する。そういう「楽な」仕事に慣れてしまったのかもしれない。「資本」に抗うのには体力が必要なことが分かった。まさしく「労働者」の強固な身体が革命には必要なのだ。プロレタリアート万歳。

(2003年4月27日)

■スローガンを高らかに

こんなやる気のないサイトでも、まだ見てくださる方、そして励ましのメールを下さる方がいる。ありがとうございます。

そのなかで、本サイトのメタ次元というより「斜めから見る」スタンスを気に入っているといってくださった方がいた。メタ次元からではなく「斜めから」は多分ジジェクのスタンスで、とてもありがたい誉め言葉なのですが、実は本サイト、「まっすぐ見る」をスローガンにしているつもりだったりする。社会学の「脱常識」に食傷気味、「斜め」もまだその匂いが残り、私はそうではなくて、まっすぐに見よう、己の正義を、己の欲望を、まっすぐに主張しよう。そして今こそ高らかにスローガンを掲げよう。「反帝反スタ」もとい「資本(経済・性における)のロジックへの緩やかな不服従」を、早い話「貧乏人・持てない君マンセー」を唱えよう。あややがいかにハロプロの稼ぎ頭になろうとも、平家みちよの原基的歴史を絶えず想起しよう。

(2003年4月19日)

■お知らせ&近況

というので、新学期のペースがつかめるまでしばらくは週末だけの更新になるかもしれません。

今日はそれでもなんだか久々に「意欲」なるものがあって、部屋の大掃除なんかをやっていた。ダンボール箱に入ったままになっていたり、本棚に二段重ねになっていて、書名が見えなかったりした本をきちんと並べなおした。そうして自分が持っている本を一瞥できるようにすると、自分が想像していたより蔵書が少ないことがわかった。見なくて良いものを見てしまった気分だ。

(2003年4月19日)

■非常勤日記つづきのつづき

大学の非常勤は、一応滞りなくできている。英書購読は学生さんの英語力が例年よりもある気がした。最初にあてた学生さんがたまたま英語ができた、だけかも知れないが。授業はマルクスがどうとか、ウェーバーがどうとか、ポストモダニズムがなんだとか、喋り散らしながら、所々に「There is」構文の意味だとか愛情教育70年だかの知識を織り交ぜて気分よく進める。授業終了後、学生さんがおずおずとくる。「もう少しゆっくり授業を進めてもらえませんか」。またやっちゃったよ。

不穏な空気があった情報処理。かなり警戒して、慎重に授業を進める。喋り声が断続的に聞こえる。「そこ、うるさい」と一喝する。学生さん、ちょっと驚いた感じで、あっさり黙る。身構えすぎか。なーんも考えていないだけかもしれない。ちょっと拍子抜けする。

(2003年4月19日)

■ああ、青春の日々

4月29日を「昭和の日」にするかしないかでもめているらしい。社会民主党とか共産党が反対しているらしい。良いんじゃない?確かに記念日ではあるんだから。後世に記録として残してもよいかな、と。戦犯ヒロヒトの記録。「誕生日」なのは確かに気に入らないが。

って、自分で思いついてびっくりしたよ。いまどき「戦犯ヒロヒト」って。やたら懐かしくて涙が出そうになったよ。私が一番輝いていたころだよ。そうだよ。卒業文集に書いたさ。「さよならヒロヒトラー」って。担任がびっくりして電話かけてきたよ。若かったんだよ。ゆるしてくれよ。

(2003年4月19日)

■非常勤日記つづき

看護学校の学生は、受講態度はとてもよい。ただかれらは別の目標を確固として持っているので、一般教養などにたいした期待をもたせられない、というだけのことだ。

それに対して大学は「社会学」がかれらの学ぶべきものなのだから、語学にせよ、情報処理にせよ、要するに私が担当する講義はかれらの学生としての本分に合致するはずだ。看護学校よりはるかに自信と余裕を持って授業に向かう。

何なんだ?一瞬ひるむ。看護学校の学生の、どうでもよい授業でもとりあえず、好意的に接そうとする態度とは対照的だ。敵意、というのでもなく、ただ少なくとも好意的ではない空気を読む。

慌てて結論を急いではならない。年々、学生の勉学意欲は、などと世代論などに持ち込んではならない。落ち着いて教室を見回せば、そうした空気を発している学生は少数であることが分かる。しかしまた、十分警戒しなければならない。そうした少数の学生だけで、理論的にも経験的にも「授業崩壊」は起こりうる、ということを忘れてはならない。

「学級崩壊」「授業崩壊」は、一般に思われているように、多くの生徒が教師に抗ない、あるいは授業を聞く気をなくしているという現象ではない。「授業崩壊」とは生徒―教師関係の問題ではない。それは端的に秩序問題なのであって、それ以外ではない。つまり大多数の生徒が授業を受ける気があったとしても、授業を成立させるための基本的な秩序か揺らいでしまえば、生徒たちは拠るべき規範を見失う。そして規範を揺らがせるのは、ごく少数の生徒だけで十分可能なのだ。

大学で授業崩壊が起こりにくいのは、秩序を破壊するものの「排除」が正当なものとして認められている事が大きい。「排除」は教師が行うというよりもっぱら学生自らが授業に出てこないことによって成立する。それゆえまた、大学が学生に出席を強く要求する体制になれば、授業崩壊は大学でも起こりうる、ということだ。そしてその危険性、予兆を今年早くも感じることになった。

大学にいたって、「しつけ」を一からやる義理はない。そんなことをしていて、大学でやるべき授業がおろそかになるのは間違っている。「腐っても大学」とはそういうことだ。そこが、理念的にもすべての児童・生徒を、児童・生徒として受け止めなければならない義務教育とは根本的に異なるところだ。それゆえ大学の教師としての私は、はじめから授業を聞く気のないものに対して、いちいち責任を負わない。そういう輩は学生もどきのゴロツキとみなすことにする。私は教師の義務において、「学生」に対して授業をきちんと行うという責任を負う。その責任を全うするためならいかなる犠牲も払う。己の正当な権限を越えて、ゴロツキどもを大学からたたき出すことをも厭わない。

そうした私のひそかなる決意の百分の一でも、あのゴロツキどもに伝わればそれでよい。大学の授業も、しかし、そろそろそうしたぎりぎりの覚悟を教師も持たなければならなくなるのかもしれない。初日の授業からそんなことを考えたりしていた。

(2003年4月13日)

■非常勤日記

非常勤。大失敗をやらかしていたことにいまさらながら気づく。

後期、二コマ連続分、同一名の講義を依頼される。私は半期で二コマ、通年一コマ分の講義だと認識し、そのようにシラバスを作った。30回分のシラバス。

二コマおのおのの受講者が別だ、半期一コマ分の講義を連続してやればよいのだ、と出講して初めて知る。半期先だから良いか、という問題ではなくて、シラバスはもう学生に配られている。前後の担当者が15コマ分のシラバスを作成している中、私一人30コマ分のシラバス。

幸先悪いスタートを切った。

(2003年4月13日)

■ニュース速報―芸能情報

モーニング娘。の新曲を聞く。ああ、終わっていく。もう彼女たちに歌うべき歌は残っていないのかもしれない。松浦の曲を聞けば、つんくにまだ作曲能力が残っていることは明らかだ。ただモーニング娘。に提供できる曲はもうないということなのだろう。それでもメンバーは追加され、「分割」という一大イベントが待っている。タオルを投げたい。

(2003年4月13日)

■ニュース速報―イラク情勢

アメリカはフセインやその幹部を指名手配しているそうだが、それでつかめえて、どうするのか、何ができるのか。戦争犯罪?自分が一方的に仕掛けておいて?国連決議無視?それをしたのはお前だろう。いったいどういう罪状で、何の資格でもって誰を裁けるというのだ?

(2003年4月13日)

■ニュース速報―統一地方選

ならず者国家が大統領にブッシュを選んだように、東夷どもは知事に石原を選ぶ。

(2003年4月13日)

■漸進

どうにも授業のイメージがつかめない。もう7年目になる授業なのに、いまだどんな授業をすればよいのかが分からない。初年度だけは「うまく行った」。初めての非常勤、私には期待があった。集中講義形式だったので一日二コマ、1週間ぶっ通し。あらかじめしていった15回分の準備分など一回の授業で終わってしまった。それ以降はただただ「気合」だけで時間を持たせた。学生に伝ええたものは私の必死さ、それだけだったし、またそれだけで十分だった。

翌年度以降は週一回の通常の授業になった。必死さだけでは持たないし、またそれほど必死になる必要もない。小難しいことをしゃべっては空振りに終わり、何か作業をやらせようとすれば、学生はめんどくさがり、こちらはこちらでその作業結果にコメントすらできない。かれらの作業結果はこちらの予想の範囲を大きく逸脱しているのだ。荒唐無稽なのではなくて、ただただ平凡に脈絡がない。筋のとおった常識の反復なら覆しようもある。そうではなくて、茫漠とした感情の羅列なので、脱常識もへったくれもないのだ。

もっと頭ではなくて、手を、体を動かす作業をさせなければならない。しかし私がそういう作業をしない人間なので、どういうのがよいのか分からない。また学生数も少なく、図書館もろくにない学校なので、インタビューやら調べ物やらも使えない。宿題などもってのほかだから、90分の時間中に、こちらが用意しうる素材だけで勝負しなければならない。何も思いつかない。

だめだ、だめだと思っていても話は前に進まない。新年度だ。新たな出会いを、久々にきちんと楽しもう。長年忘れていたそのときめきを、不安とともに楽しみに待とう。

(2003年4月07日)

■ただの馬鹿

・・・

早くやめればいいのに。そうすれば被害が少なくてすむのに。

(2003年4月07日)

■プロフィール

懸案の「プロフィール」欄に相当するものを書きました。註解のページに書きましたので、一応ご報告。といってもほとんどこのページで書いたことのある内容なので、新しい情報はないと思います。

(2003年4月07日)

■新年度

いよいよ新年度である。2月、3月は雑事に時間を取られたが、4月以降は非常勤もまじめにやらなければならない。頭の使い方を少し変える必要がある。どの方向に?

大学はよい。腐っても大学だ。「本職」に近い思考がある程度通用してしかるべきだ。

問題は看護学校だ。毎年鬱になりそうになる。一回分の講義に、ぜんぜん生産的でない準備時間(ただうだうだと悩む時間)として丸一日ではすまない時間を取られる。本当は誰かに譲ってしまいたいのだが、譲る相手が思いつかないのと、一応収入源を、金額ではなく、場所として減らしたくないので、ずるずると延長しつづけている。

修行なのだ、と言い聞かせる。結局のところ「メタ」次元でしかものを考えていない私が、いかに具体的な次元でものを語る能力を有するか、その己の無能振りを確認する修行なのだ。アルチュセールのイデオロギーの空白だとか、ラカン・ジジェクの「現実界」だとか、バトラーの攪乱だとか、ネグリ・ハートのマルチチュードだとか、そういったキーワードで語られうる事象をいかに具体的に彼らに提示しうるか。

ま、無理だな。

(2003年4月07日)

★戦争とB'zにあけくれる