重層的非決定

モーニング娘。
L. Althusser
No.14
2002/10/1-2002/10/3

★冬眠支度

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10月総括

というわけで10月も終ってしまいました。お仕事、それなりにやりました。お金はそれほど稼げていません。ネグリを読み始めました。あまり進んでいません。人とあったりしました。虚しくなりました。モーニング娘。の新曲が出ました。売行きはいまいちのようです。中谷美紀のドラマでの役柄はいまいちです。菅野美穂がいいです。

(2002年10月31日)

棄権者の戯言

モーニング娘。の新曲はあまり売れていないらしい。自分が買わずにいうのも何だが、結構いいと思うんだけどなあ。皆健気に元気良くって、曲もそこそこノリ良くて、結構みんなに見せ場があって。これ以上モーニング娘。に望めるものは無いし、新規メンバー募集が起爆剤になるとも思えないし、本当にいよいよおしまいかなあ。初期モーニング娘。はそれはそれでとても良かったし、それはそれでとても懐かしいけれど、今のモーニング娘。も一旦無くなってしまったら、もうあんなグループ二度と現れない感じだし、かけがえの無いグループなんだけどね。と言っても私はCDなんて買わないからなあ。まあ、民主党の党首戦サポーター料払うのとは比較にならないぐらい価値があるとも思うから千円ぐらい払ってもいいんだけどね。でもまあ、私が買ったからどうと言うわけでもないしね。そもそもCD屋いくこと自体が手間だし、金出すより、テレビ見て、ネットで情報集めて、あれこれ批評している方が楽しいしねえ。

(2002年10月31日)

洗脳

自分たちの社会を至上のものと思えるというのは幸せかも知れないが「愚か」でもある。アメリカ人は世界の人間がアメリカ人のような生活をするのが正しいと信じ、我々(日本人)はそれを笑い飛ばす。日本人は北朝鮮の人間が日本で生活するのは絶対的に幸せなことだと信じる。今まで築きあげて来たもの(大学進学など)を無にされ、将来への思惑をかき消され(英語教師など)、あったこともない祖父母とやらの一方的な愛情を押しつけられ、そのエロス的結び付きのなかに「監禁」される。言葉もろくに通じず、仕事なり生活なりは父母への贖罪という形で(おなさけのごとく)与えられる。そんな生活をこそ、我々日本人は絶対的な幸せなのだと信じる。

(2002年10月30日)

エロスの限界

啓蒙主義というのはとても尊大だし、資本主義というのはとても傲慢だし、いずれもとても権力的なものだが、しかしいずれもあらゆるものを象徴化し尽くすがゆえに、権力自体の基板までも明るみにだしてしまい、それをも消費してしまう可能性を持つものでもある。そうした世界ではもはや聖なるものは存続し得ないのであって、民主主義とは畢竟そうした方向の延長上に成立するものなのだ。

いまや聖的なるものの最後の砦として性的(エロス)なるものがかろうじてその力を誇示している。管理買春でもない「援助交際」とやらにこれほどにまで「大人」が嫌悪感を示すのも、「拉致家族」の側の子どもに対するエロス的つながりに対する執着にこれ程にまで共感的なのも、こうした「聖」への執着の兆候なのである。狭い範囲でのエロス的結び付きに対する執着こそが「村社会」を支える原動力であり、新たな交通の展開を妨げる桎梏となるのである。

「えーと、つまりそれって清楚さ(処女性)売りにしていたころより、スキャンダル後のふっ切れた後のなっちの方がずっと幅広い人気を博しているってことですか」。

(2002年10月30日)

無知への執着

「知らない方が幸せ」というものいいがある。確かに全てを知ろうという努力は、知る方にとっても知られる方にとっても抑圧的である。しかしまた、自分が知っていることを他者に知らせまいとする努力も、それが知の独占といったものであっても、あるいは善意からのものであっても、いずれ劣らずこれまた危ういものである。

たとえば差別問題。その存在すら知らなければ、差別心は持たない、というのは半分は正しい。しかし現存する差別を、ある特定のものだけがその存在すら知らない、などという状態を想定し続けるのは無理がある。むしろその「現実」は表面には出されてはならないものとして、じっとどこかしらに隠れて潜み続けたりするのであり、そのことの方が恐ろしいのだ。そのようなものはテキストの表面に出してしまって、消費し尽くす方がましなのだ。知らせる努力は確かに権力的だが、知らせまい、知るまいとする努力は症候的なのである。

障害者。自分の境遇を、他者の差別的な眼差しを知らなければそれで幸せか。今関西では再放送で「ピュア」という和久井映見と堤慎一のドラマをやっていて、この問題を問うている。また同時に本放送で「アルジャーノンに花束を」でも同じ問題を問う。「ピュア」は現実を知らさずに済ませようとする家族が次第に壁にぶちあたり、少し考え方を変えていくというストーリーだった。一方「アルジャーノン」の方は現実を知らせてしまう手助けをしてしまった教師の悩みが一つのテーマになっている。主張が逆だ、というのではなく、いずれとも決めがたい現実をそれぞれに描写しようというものだ。簡単に結論を出し得る問題ではない、というところだが、それでもやはり私は「現実」を知らないより知った方が「良い状態」であると思うのだ。

たとえば「アルジャーノン」の主人公は母親に「捨てられた」という「現実」を知らずに、それなりに楽しげに暮らして来たのだが、それを菅野美穂演じる教師の努力の結果としてその「現実」にも気づいてしまい、傷つく。それを見て教師も悩む、というのが今日までのところなのだが、結局のところ自分を捨てた母親のことなど最終的には振り払うより無いのであって、そういう断念を「不幸」と決めつけるのが間違いなのだ。だからここでの問題は「現実」を知るか知らないかの問題というよりも何者かへの執着を抱え続けるか、適当に切り捨てるかの問題であり、知らされる「現実」とは執着を切り捨てるきっかけにすぎないし、またそのようなものとして意味を持つのだ。

「えーと、つまりそれってこのドラマでいえばしわくちゃのいしだあゆみなんかに執着しても不幸で、そんなのより菅野ちゃんとあんじょうやれればその方がいいに決まっている、ということですか」。

(2002年10月29日)

ふとした疑問

Linux、一日がかりでようやく修復。修復といってもハードディスクのフォーマットからやり直したので、それまでのデータなどは全部没。もちろんあちこちにバックアップがあるので大した被害は無いはず。

それでも一応30代にもなって、平日の一日中PCいじりに興じていられるというのはどういう身分なのだろう。

(2002年10月29日)

絶望の淵

信用していたり、期待していたものに「裏切られる」というのは辛いものだ。もちろんそれは往々にしてこちらの一方的で自分勝手な「信用」であり、相手にとっては「裏切り」もへったくれでもないとは頭ではわかっている。だから怒りをぶつけることも出来ず、ただただ落胆と絶望感にさいなまされるしかないのだ。

Linux、いろいろ使い込んできたのに、突然起動もしなくなった。ファイルシステムが破壊されたらしい。再インストールしかなく、しかも前のパーティションはフォーマットからだ。

(2002年10月28日)

裸の私

私がこのサイトを運営しているのは、要は下のナイーブな表出に抵抗する防波堤作りなのだ。不特定多数の読者に向けて何かを表出する。そのためにはさすがに何らかのコーティングを施さなければならず、それを足掛かりに何とか踏みとどまろうとしているのだ。

今の私の精神的な疎外状況と、サイト更新の停滞ぶりは一つの事象である。一年前までの私ならこの状況を、敢然たるひきこもりを行う事によって脱しようとしただろう。世間並に近い生活をおくらねばならぬという圧力に屈っし、その維持に窮々としている現状では、それが叶わない。私は己の不様な精神を披露しながら、世間並の顔を取り繕ってこの社会を練り歩く。

(2002年10月27日)

ナイーブな表出

恐ろしいもので、成果を吐き出し続けるような仕事をしていると、どんどん己の内側にまでそうした表出圧力というようなものが侵食して来て、何かを止め置く、というような事ができなくなる。前までならじっと内部に潜み続け、そのごく一部がなんらかの強力なコーティングを施されて表出されていたものが、いまはあまりにストレートに、ナイーブなまま表出されてしまう。それはあまりに不様で、かつまた脆弱だ。

一般的にはそういう不様で脆弱なる表出は「彼氏・彼女」だとか「親友」だとか称する人間に対して行うもののようだ。私はそうした表出圧力に自分なりに抵抗し続けて来たつもりだったのだが、その制御がうまく効かなくなってしまった。そうなれば閉じた二者関係という防波堤がない以上、一気に誰彼構わずナイーブな精神を披露してしまうことになる。

(2002年10月27日)

文句いうなら金を出せ

昨日のMUSIXでは娘。の新曲のみ成らず、メロン記念日の新曲「香水」も披露されていた。こちらの方が、人数といい、グループ構成といい、曲の暗さ(淫靡さ)といい、初期娘。の「いやらしさ」を彷彿とさせて、なかなかのものがある。もちろん柴田をセンターに据えているのも初期娘の安倍重用の反復であろうが、しかし、残念ながら柴田にはその役は重すぎる。初期娘。だって露骨に安倍センター路線をとるとほぼ例外なく失速したのに、この後に及んでその失敗までも反復するとは。

せめて柴田押しを、モーニングコーヒーの時の安倍程度に押えておけば、私のようなヲタの支持を得られたのに。といっても私、CD買わないので多分その「支持」には何の実質も伴わないけれど。

(2002年10月23日)

「遅れた」社会の中央と「進んだ」社会の僻地と

被害者の声は絶対である。被害家族の声も絶対である。

ではこの両者が対立したとすれば。

拉致被害者は、経緯はどうあれ、北朝鮮(共和国)を第二の祖国とし、そこに生活の基板を持った。そこで仕事を持ち、誇りも持った。両国の架け橋たらんと思いもするだろう。北朝鮮憎しで日本が懲り固まっているのだとすれば、それをときほぐす役目だって担いたいとも思うだろう。かれらは故郷でひっそりと仲間内で暮らす暮らしを、経緯はどうあれ、捨て去ったのであり、彼らは彼らなりに前進したのである。それは、経緯はどうあれ、いわば地方からの上京物語の変形なのであり、その物語を、代々親戚で寄り添って生きて来たコミュニティの論理で、無にせよ、ということの方がよほど残酷かも知れないのだ。

確かに自らの属するコミュニティから無理矢理引き離される事は悲劇に相違ない。しかしまた一旦離れたそのコミュニティに引き戻されるのも抑圧的なものなのである。

(2002年10月23日)

どこにいるぜぇ?

Musixで娘。の新曲を見る。加護がひさびさに*らしい*感じで良い。なっちの、いつもながらのちょっと無理気味にイキッて見せる感じも良い。曲自体は体して頭に入って来なかったが、衣装、踊り、表情、そういった全体的な作りは久々に娘。らしい。

後藤のいない娘。だが、これだけ人数がいればどうということはない。また今度の曲は殊更にそういう作りになっている。ただ、多分後藤が抜けた影響もあるのかも知れないが、まあ見事に「いやらしさ」のないグループになっているものだ。「モーニング・コーヒー」のころは誰がどうというのでは無しに、どこかしら裏びれた「いやらしさ」があったものだが、そういう雰囲気は影も形もない。ただそれにもか変わらず、しつこくヲタがへばり付いている、というのはある意味脅威的な事だ。ヲタは娘。に何を求めているのか。かつての「いやらしさ」(育成ゲーム性、内部人間関係邪推性などを含む)は今やなくなり、全く持って健康的なグループになり果てた娘。に何を期待しているのか。結局のところ私にとっては、なっちのゆく末を見届けるまで止められない、という消極的な義務感のようなものでしかないような気がする。まだ何かにときめくだけのものがあった頃の代用品としての娘。捨ててしまうにはまだちょっと名残惜しい。

ところでなぜ「なっち」と書いているかというと、ファンだから、ではなくて、Cannaで安倍という漢字を出すのがちょっと面倒だからだ。Canna、使えなくもないのだが、漢字登録が面倒なのだ。どうでも良いけど一応言い訳。

(2002年10月22日)

ドラマ批評にもならない

後藤真希の良さが分からない人はまずは後藤の出ているドラマを見るべきだ。今なら水曜日にTBS系列で「やんぱぱ」というありきたりなコンセプトのドラマに出ている。ドラマ自体はどうでも良くて、ただ演技も何もしない後藤が、にもかかわらず圧倒的な存在感を醸していることだけを確認すればそれで良い。松浦とかなっちとか、ハロプロヲタが演技がうまいなどといろいろ評しているようだが、ああいうコザカシイ演技とはレベルが違うのである。全く芝居せず、素のままなのに、目に力がある。

ただその同時間にやっている「サイコドクター」、これも筋はどうでも良いのだが、竹野内豊と西村雅彦が出ていて、どちらを見るかとなるとこっちの方がいい。竹野内は目の表情がとてももの悲しくていいし、西村雅彦は男から見てもかっこいい。男優に免じる、というのもまれなのだが、この二人はかなり、いい。もっとも今クールのドラマで一番いいのは、これまたドラマが良いわけではないが、菅野に免じて「アルジャーノン」だ。

(2002年10月20日)

全てが象徴化される

段々脱力系サイトへと向かいつつある当サイトですが、皆様いかがお過ごしですか。というか、更新する気がないのなら止めちまえ!という天の声が聞こえなくもないのですが、やる気ないわけではないのです。ただ恐ろしく何も考えていない日が続いている。その状態で無理に更新しても内容が薄くなるだけだし、といって止めてしまえばものを考える、という機会自体を失ってしまうだろう。日々の仕事に忙殺される生活も、精神的には案外楽で悪くはないのだが、まだ完全に割り切れないものがある。割り切った生活ではなく、どこかに何かしら激しくも妖しいものを己のなかに残しておきたい。象徴化に抵抗する核とでも言っておこうか。

ところでどうでもいい話だが、最近のGoogle、更新がやたらと早い。「ごまっとう」について書いた部分でヒットするようだし、「フセイン支持率」でもヒットする。恐ろしい早わざ。私のくだらない垂れ流しまでもがどんどんデータベース化されていく。ついでに「Hな水着写真」などという私が書いてもいないはずの私の妄想までもきっちりデータベース化してくれる。あな、おそろしや。

(2002年10月20日)

日々の思考

本当はもっと日々いろいろな事を考えているはずなのだ。いくら疲れ果てようが、一瞬一瞬はたしかに何かを考えているのに、それが無為に流れ去る。どこかでせき止めねばならない、とおもいつつ、せき止める手立てを持たない。

たとえば今私がすんでいる町は選挙をやっていて町長選があって、その現職候補というのが蝦蟇みたいな顔をしていて、そんな奴に投票するやからというのは精神が蝦蟇なのだろうとか、イラクのフセイン支持率100%はそれこそルソーの一般意志が体現されたというべきであり、真の民主主義があそこに成立したんだな、とか、メロン記念日、柴田ごときに命運を託してどうする、とか、そんな事を日々考えていて、でももうちょっとましなことを考えていたはずだけれど、一旦流れ出た思考を無理に救いあげてもやっぱり駄目だな、とか、でもきっともともと大した事は考えていなかっただけだという事なんだな、とか、そんな事を考えていたようです。

(2002年10月17日)

日々の暮らし

火曜日

看護学校の非常勤。朽ち果てる。学生の前で「宇宙人が来襲して来た!」と叫びだしたくなる妄想を必死で押える。そのまま意識をなくして気が付いたら寝ていた(嘘)。菅野美穂は見たはずだが記憶にない。

水曜日

前日の疲れで、一日中寝て暮らす。翌日の非常勤の準備におびえつつなので、安眠できない。結局大して疲れはとれない。バリバールが来日しているとかで講演会があったらしいが、サボる。自己嫌悪が更に増す。「HR」はビデオにとってさっさと寝る。

木曜日

大学生相手にここ数日のうっぷんを晴らす。一コマ目はRepresentation概念の説明を、学生が寝たりしているのを無視して、一人で勝手に喋る。二コマ目はHTMLの理念を一方的に喋り、ますます気分が良くなる。昼休みをはさんで少し反省し、後は真面目にやる。授業中にゲームをやっていた学生を叱り飛ばす。うたばんでソニンが走っているのを見て和田への憎悪の念を新たにする。この無意味な日記更新中に例によってLinux上のCannaがおかしくなり、書いていた文章を無にする。MS株が相対的に上がる。

(2002年10月17日)

ただの日記

このサイト、大学からのアクセスが多いせいか、休みになるとアクセスが少なくなる、と今までも書いたことがあるが、少し違っている感じで、金曜日など休みの前日から減りだし、休み最終日からは増えだす。どういうアクセス動向なのでしょうか。

最近お仕事で統計づいているせいか、そんなことがふと気になったりする今日この頃。

というか、明日看護学校だ。今から憂鬱。登校拒否したい感じ。でもそれが終ればひと息つく。

(2002年10月14日)

たぶん私信〜宛先に届かずとも良い

カムアウトというのは「象徴化」を含み込んで起こる。象徴的な次元での主体化と、それに伴う決断と、その結果としての言語化がカムアウトである。それに対してそうした「象徴化」「決断」がなされていない時に、アクティングアウトが生じる。アクティングアウトとは非主体的な行為である。

たとえばどうしても好きでたまらない同性がいる。しかし「同性愛者」という主体性を引き受けられない。こうしたときに、好きでもない異性と性交渉を重ねる。それは自分をどこかしら傷つけているのかも知れないが、そうした行為を反復してしまう。それが「アクティングアウト」でしょう、きっと。

(2002年10月13日)

「他者」評価

10分でIQ診断してくれるサイト。やってみたらIQ96.5だった。

ほぼ平均的な知能指数です。良い人間関係を築き、順調にやっていけます。

こんなものか、と思う私は自分の能力を過大評価していたということだろうか。あまり「良い人間関係」を築けていないし、順調にやっていけていないのは能力がありすぎのせいか、と密かに思っていたりしたのに。

(2002年10月13日)

あーあー、生徒の呼出を致します。

このサイトに「後藤真希 アダルトビデオ そっくり」で訪問して来た人、表に立ってなさい。

(2002年10月11日)

人間やめますか?

人間としてほとんど「終っている」状態というのがあるもので、たとえばプライベートに会いたい人に会う機会を持とうと思うより、仕事がらみの用事の方を優先させる、というのがそうだ。ましてその仕事に己の将来やらなにやら(たとえば結婚相手とか)をかけている、というのならともかく、ただのバイトでそうなるのは、どこか根本的に間違っているはずなのだ。

「ただのバイト」、例えばそれが私の場合、さる企業がらみのデータ分析であったりする。で、それは所詮コンピュータを相手にしていればいいので、楽なばかりか、オタク的なのりでのめり込んだりする。

生身の女性と会うよりも、アイドルに、そしてさらにゲームやアニメの女性にはまるというのが仮に「悪化」だとするならば、コンピュータ上のデータにはまるのは何と言えばいいのか。

(2002年10月11日)

ごまっとう

引続き疲れているので一言だけ。

後藤真希、藤本美貴、松浦亜弥でユニットだと。「ごまっとう」だと。なにそれ?

というか、なんで後藤がいまさら藤本とか松浦とユニット組まなければならないのだ。CD売り上げとかそういうのとは別な意味で格がちがうじゃん。

(2002年10月10日)

本日の収穫

菅野美穂はいい。

(2002年10月8日)

弱々しい言語

疲蔽しきっている。看護学校の授業の後はいつもそうだ。伝えるべき事もないのに何かを伝えなければならない。いや、伝える事がないわけではない。私なりに伝えようと思う事はある。しかしそれが学生の関心に結び付くようなやり方がどうにも浮かばない。それを付き抜けさせるだけの力はない。「やっぱり、語る言語が違うな」とすぐあきらめてしまう。数年前は何があそこまで私を駆り立てていたのか。そんな力が私にあったのか。それとも学生が変わってしまったのか。

実際「語る言語」というのは不思議なもので、語る内容とは独立して話が通じたり通じなかったりする言語的な違いというのが同じ「日本語」でも確かにあるのだ。そうして同じ言語を語る人間を見付けると、そこに「共同体」のようなものが立ち上がっていると妄想する。もっともあらゆる共同体は妄想的なのだから、確かにそこにはある種の共同体が立ち上がっているというべきなのかも知れない。いこごちはいいが、排他的な共同体。その共同体を析出し、その内部でしか通用しない言語。

(2002年10月8日)

妄想を手紙にしたためて

初めて講義を担当した時と今とでは、もちろん今の方がずっと喋りなれて来ているはずだ。もちろん準備の仕方も分かって来ている。最初に担当した科目では、予定の14回分の準備内容を2回で終えてしまったものだ。

それでもその時の授業の方がずっと活気があった。学生がとても乗ってくれて、とてもいい感じの授業だったようにおもう。ずいぶんと気に入ってくれた学生もいた。それが初めての非常勤で受け持った看護学校の話。

それから時が流れ、看護学校のほうは手を変え、品を変えてもうまく行かなくなった時、大学の非常勤も回って来た。不思議にこちらもまた、とてもうまく行った。そしてまたこちらも数年後には、うまく行っていなくもないとは思うが、初年度の私の脳内でのきらめきはなくなった。

最初は緊張して、初々しく、熱心にやったのだ、というだけの事だとは思う。でももう一つ、看護学校初年度も大学初年度もいずれも、たまたま私の中でとても高揚としたものがあり、それを授業でぶつけていた、というのもあった。それは私の頭の中で肥大化した妄想にほかならなかったのだが、それもつもりに積もれば力になる。わたしは、本来目の前の学生相手ではなかったはずだが、何かを伝えたい事があり、その相手がいた。私は伝えたい相手に向けて語る事ができず、ただ目をつむってでたらめにそれを投げた。そしてそれは誰かに伝わった。

逆に、妄想なき今は、学生に何かを、やみくもにせよ、ぶつけるものがない。妄想は私の飯の種だった。

(2002年10月7日)

感染るんです

風邪引いた。体の節々がいたい。風邪を引いているのに無理に外に出て来る人がいると、そこから風邪が蔓延する。「風邪薬飲んで来たから大丈夫」って君が大丈夫でも、こっちは大丈夫じゃないの。頼むから家で寝ていてください。

なんていいながら、私も風邪気味でも明日は仕事に行く。風邪のネットワークはこうして拡大して行くのだ。

ゴホゴホ

ネット越しには感染しないはずなので、ご安心を。

(2002年10月6日)

どくしょかんそうぶん

ネグリを読んでいるのだが、まだ一部しか読んでいないのだが、どうもあまり理論的に突出したところがなくて、淡々と読めてしまう。思っていたよりも、講壇的社会学の流儀に乗っていて、おかたくウェーバーなんかも真面目に参照していたりして、社会科学の学生向けのテキストとして読める。一方でドゥルーズ・ガタリの名前も出て来るのだが、それほどイッちゃっているような議論の展開にはならない。うさんくさくない、というのは多分良い事なんだろうけれども、うさんくさい議論になれた身としては少し物足りない。

それにしても、フツウの議論の展開をしているこの英語はとても読みやすいのにたいして、ときおりイッちゃった議論を展開するジジェクやバトラーの英語はとても読みにくい。文体と内容の関連があからさまに出ていて面白い。

(2002年10月5日)

フリーター興国論

フリーターを「若者論」で語る論調があるが、全く本末転倒である。雇い側と雇われ側、いずれが権力を握っているか、自明だろう。今企業は経費節約のかけ声のもとに、個々の合理的な判断、社会的責任など全てなげ捨てて、ほとんど「横並び」意識で、人権費を抑制しようとしている。やるべき仕事はあっても、それで一定の儲けがある事が分かっていてもなお、経費節約の声に従属する。

「若者の意識」などというのはそういう外的状況の結果の産物にすぎない。企業側が、頼むから働いてくれ、というのを敢えて断ってフリーターをしているものなど、圧倒的少数派にすぎない。フリーターというのは積極的な選択である事などまれであって、どこまでいっても「強いられた結果」以外のなにものでもないのだ。そこをごまかして「若者論」などを語るのは笑止というしかない。

ただ、それはそれで、その状況をそれほど私は否定的には考えていない。強いられたものであろうと、企業に一生を託し、従属して生きるのとは違った生き方というものの可能性が存在するという事、「フリーター」としてなお、別段貧困にあえぐ事なく何とか生活していける状況、それで豊かでないまでも生きていけるというのであれば、それ自体はそう否定しなければならない事でもない。もちろん「若い内はいいけれど」という主張があるのは承知している。そのまま年月が経てば、明確な貧困層が誕生する事になるだろう、と。確かに今の社会体制のままで、「フリーター」として年齢を重ねるのは、多分、辛い。でも、無責任ないい方だが、多分社会は変わる。良きにつれ悪しきにつれ、社会は変わる。確かに「フリーター」は企業の怠慢が生み出した悪しき社会現象である。しかしその「鬼子」が、社会変革の中でどう化けるか、どういう可能性をもたらし得るのか、その予測についてはそれほど否定的なものにならないように思えるのだ。もちろん無責任な勘だけれど。

(2002年10月3日)

桎梏としての感情

分かりやすい言葉というものの力は絶対的に認めなければならないが、だからといってそこに留まっていてはいけない。一人の人間の死、それは想像し得る最大限の悲劇ではあるかも知れないが、しかしそこから出発しても何も生み出さないのだ。

ある人が交通事故で死んだ。その肉親が訴える。自動車を無くそう、そうすれば交通事故死はなくなる。

人が人と生き、交わるというのは感情を越えた次元でなされているのであって、感情に留まる限り、「今理解可能な」狭いコミュニティを絶対的なものとし、「他者」との交通の可能性を損なう事になるのだ。

分かりやすい感情に訴える言葉とは別の言葉をつくり出さなければならない。それはことによると感情を排した冷徹な言葉に見えるかも知れない。へ理屈のこね回しに終始するかも知れない。それでもなおあえてそのまま突き進もう。どのみちユートピアは冷徹な論理の鎖の綻びの中にしか見えて来ないものだ。

(2002年10月2日)

まどろっこしい良さというのもあるものだ

下は本当は9月30日更新分だったのだが、操作ミスで更新されていなかったものをいまさらながらUP。

CUIは手早いけれど、確認を逐一する事を怠るので、こういうミスが出る。流れの中で書いたものなので、「いまさら」感が強いが、仕方がない。

(2002年10月2日)

生か死か、それは問題ではない

「反戦平和」と「自主防衛」の対立は、とどのつまり「愛する人を戦争に送らない」のと「愛する人を守る」の対立だったわけで、「平和ボケ」しているらしい日本の状況では「戦争に行かされる」という危機感よりも、何もしていないのに突然拉致されたり、飛行機が突っ込んで来たりする、という恐怖心の方がリアリティがあった、ということだ。「革新」陣営が何ら新しい言葉を作れなかったのは確かだが、「保守」陣営が何か新しい言葉をつくり出し得たわけではない。何ら変わりばえのしない旧態依然とした言葉を両者ともに反復し続けていたら、「保守」の言葉の方に「現実」とやらが近付いて来ただけの事だ。

そんな抽象的な「愛する人」なんて捨ててしまえ、と思う。更にいえばテロで死のうが、交通事故死しようが、病死しようが、死は死だ。程度の低い恐怖心を煽って、倫理の公準を定めようというのがむちゃなのだ。「死」から出発する倫理のうさんくささ、重要なのは生きているものと生きているものとの関係なのだ。

(2002年10月2日)

★何もやらなくて・・・秋

(-2002/09/30)



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