重層的非決定

モーニング娘。
L. Althusser
No.13
2002/09/01-2002/09/30

★ひきこもりの秋

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妄想的殺人鬼

テレビ朝日の「TVタックル」というアホ番組をだらだらと見る。サル山か。

それはさておき石破という奴、本当に目がイッている。で、まあ、サル山の中では仕方がないとも思うが、いっている事も阿呆すぎる。自分が殺される前に相手を殺すのが当り前、だからアフガニスタンもイラクも北朝鮮もがんがんやっつければいい?お前が一番最初に殺されろ。

(2002年9月30日)

格差

持続力がないもので、一つの事にもともと集中できない性質で、しかも辺にプライドだけは高いから、一つの事に全てを賭けてしまう、という事ができない。そんなこんなで二足のわらじを履くというのは規定路線だった、あるいはそれをもともと目指していた節がある。そしてそれが今叶いつつあるのだが、一つ重要な落し穴がある事に気が付いた。二足のワラジを履くということは人の倍、生きなければならない、という事だ。しかし軟弱ひきこもりの私はもともと人の半分しか活動する力がない。この4倍もの格差、どうしてくれよう。

というので、今日もお仕事でヘロヘロなのだが、九月も最終という事で、ネタも体力も気力もないが、アリバイ的に更新だけしてみた。サイト更新を義務感で行う、というのも良くないのかも知れないが、それぐらいの義務感でも持っておかないと、どんどんひきこもりが加速するので。

(2002年9月30日)

回顧趣味

どんどんLinuxにはまる。まだエディタがXZなのは軟弱ものの性として、普段のWeb徘徊もWeb更新も、趣味系の作業はほぼLinuxで行う。仕事系はいくらOpenOffice.orgがあるといっても、仕事自体がWindowsベースなので、結局MSOfficeで表示確認その他を行わざるを得ない。もういっそのこと、仕事場もLinuxとOpenOffice.orgで統一してくれればいいのに、その方がコストも下がって良いだろう、と思ったりもするが、まあ考えるだけ無駄だな。とにかくLinuxを触りだしてから段々GUIまでもが疎ましくなって来た。FTPなんてコマンドラインの方がよほど効率的だし、と書いてWindowsのFTPはコマンドラインだったと思い出す。そうか、効率が悪いのはWindowsが悪いのではなくて軟弱な私が悪いのか。ともあれDOS時代にVZエディタで環境構築していたころを懐かしく思い出す。思えばいい時代だった。

(2002年9月28日)

無理矢理更新

リンク集作るのにアクティブソナーというのがはやっているようで、確かに便利そうで、私もリンク先を大幅に増やす時には活用してみようかと思ったりする。また私のサイトをそれでリンクしてくださっているかたも何人かいてくださるのだが、しかしこれが不思議なのだが、私のサイト、更新しているのに更新していない事になってしまっている。トップページはほとんど日付しか変えていないのがいけないのか、ちょっと気になったりもする。どうでもいいような話なんだけど、一応更新はもう少し頻繁にやってますので、と宣伝しておこう。

今日はリアル研究会に出る。フェミニズム関連の報告会。フェミニズムとか男性学とか市場が広がりすぎたのか、理論の欠如が著しいといつも思う。学会のジェンダー部会の停滞ぶり、しかもそれに気づかぬ「盛況」ぶり、危機感がないのだ。10年20年前の、どうにも古びて使いものにならない「理論」(というより言説)を「適用」したようなものがもっともらしくまかり通る。再生産論とかエスノメソドロジーとか、せめてその辺でいいから、少しは勉強してくれ、と言いたくもなる。

(2002年9月28日)

お詫び

昨日の日記、NHKテレビでやったのはもちろん「ジジェク」特集じゃなくて「ネグリ」特集でした。もちろん分かっていたんだけど、書いているときはなんか頭がおかしかったようだ。布団に入ってから、あれ?ジジェクと書いてしまっていたような、と気づいたんだけど、朝早いし、今更PC立ち上げ直すのがいやで、放っておきました。

(2002年9月27日)

一歩進んで・・・

大学の後期もはじまり、リハビリモードにようやく入った。授業は諸々ばたついた所があっていまいちなのと、まあまあ無難にこなせたのと、いろいろ。それでもそれなりに刺激にはなるし、もう一度自分の問題意識のようなものを喚起する体制はできて来たかな、と思った。

前々からからNHK教育でジジェクネグリ特集をやる、と聞いていた。もちろん見るつもりだった。朝、非常勤先で、今日、ジジェクネグリあるよ、と聞いた。そうか、今日なのか、10時までには家に確実に帰っているし、見られるな、と思った。夜18時すぎまで授業。ヨレヨレになって帰る。駅前のラーメン屋で夕食。テレビが付いていて、まさにちょうど「うたばん」でタンポポが登場して来た所だった。ラッキー。ラーメンを食べながら見る。並のアイドルと違って、人前でつくづく見入ってもそんなに恥ずかしい感じはしない。他の客も見ていたし、店の主人も見ていた。

タンポポ登場分が終ると支払をして家に帰る。つづいて「みなさんのおかげでした」のモジモジ君なるコーナーに辻加護が出るので見る。その後食わずぎらいのコーナーにはなっちも登場するはず。でもこちらはなかなか出て来ない。他のチャンネルをぱらぱら回したりしながら時間を潰す。10時半を回ったあたりでようやく登場。例によってそつなくこなす。辻加護のようなハラハラがなく、安心してみていられる半面、ちょっと物足りない感じがする。11時すぎに番組終了。明日は仕事するべか。ああ、しんど。

で、あの、ジジェクネグリ特集は?

(2002年9月26日)

補足

結局今のエスノは闘争の場所とか、戦略とかを見失っているように思えるのだ。言語運用のなかに差別が生起するといってしまうと、いわゆる「言葉がり」のようなものに組してしまいはしないか?あるいは逆にやりとりされる言葉の記述に終始して、その先を何ら提示できなくなってはいないか。言語運用の次元に焦点を当て続けるエスノは今この両極に分岐してしまって、「排除「という問題を真正面からとらえる可能性すら見失ってはいないか。

わたしは言語運用を見据えながら、その「空白」にまで行きつきたいのだ。言語運用に着目しつつ、さらにその見えざる地点にまで到達する、その可能性に賭けずして何のための「理論」か。具体的な記述の次元に留まり続けるのであれば、それはただの「記述」である。

(2002年9月25日)

復習−エスノメソドロジーの限界

エスノメソドロジーが主張するように、ある社会、共同体はその言語運用の中に生起し、かつまたその共同体を参照して言語運用がなされる、という再帰的な構造を有している。たとえば「モーヲタ」が一つの共同体として成立しているということは、かれらの普段の言語的運用において見出される。「ゴマキ」という言葉を聞いて、一瞬「おや」と思い、「ああ、ゴッチンね」と翻訳するその間、その間のなかにかれが己を「モーヲタ」であると承認する実践が存在しているということだ。そしてその実践は外部に向けて、戦略性を帯びて継続される。「カムアウト」していないモーヲタは「ゴッチン」を再翻訳して「そうそう、ゴマキね」と応じる事によって、自らは「モーヲタ」ではない、というふりをするかも知れない。もちろん決然と「いや、ゴッチンというのだよ」などと蘊蓄を垂れるモーヲタもいるだろう。ここでは「ゴマキ」と「ゴッチン」という語の使用をめぐっての駆け引きがあるが、この駆け引きこそが自らが属すると宣言する集団を規定するものなのだ。

しかし更に付け加えるべきは、この「駆け引き」のメタメッセージ(私はなになにの集団に属しています)もまた、当の行為者によって運用されている、という事だ。いわばメタメッセージが、メッセージと等価の位置に存在している、ライオンやキリンに並んで「動物」が展示されているような事態がここでは成立しているのだ。つまり「汝はモーヲタであるか」という問いかけが*既に*存在していて、それへの応答というかたちで先の言語実践はなされているのであって、言語実践の後に集団およびその意味が確定するのではない、という事である。この先行する「問いかけ」をエスノメソドロジーは見ない。だからある用語の使用がある集団を別の集団から隔て、時に差別を生み出す事までは論じられるが、その用語を戦略的なものとして位置付けようとする「意志」の存在を無視する。結局戦略的なやりとりの存在はいいえても、そうした場が生起する力学は射程外となる。

エスノメソドロジーが差別論やいじめ問題を論じる時に常に私が感じる苛立ちはこの点にある。集団からの排除は言語運用によって達成されるが、しかしそれ以前に排除は既に決定しているのである。この「既に」の次元こそ、「現実界」である。エスノメソドロジーは言説のなかのこの空白、その力を見られていないのだ。この次元を抜きにして差別やいじめの持つ隈雑さ、「魔力」を見る事などできないだろう。

モーヲタとは単に能天気に「ゴッチン」「娘。」「ゴキメン」「のの」などと語るだけの存在ではない。それを語る*前に*既にある決断を終えた存在なのだ。

(2002年9月25日)

学力問題

朝日新聞にでていた学会ネタというのが、「学力低下」の問題。20年前と今との小学生の学力を比較して、「学力低下」の実態を見ようとする研究。この手の議論はしばしば印象論だけで語られがちであるが、きちんと20年前から同じ問題でデータを蓄積しておいた、というのがさすがである。こういうのが社会科学者の面目というものではある。

結論としては学力低下は確かに起こっているという事と、同じ年代同士の比較でも学力間格差が広がっているという事である。確かにそういう事なのだろうな、とは思う。20年前、私が小学生だったころ、まだ「修養主義」的な気分というのは残っていた気がする。「とにかく勉強というのはしなければならないのだ」。「勉強はするものだ」という義務・規範(ディシプリン)が社会的に広く存在していた、あるいはそういう幻想を*私*たちはもっていた。それが「受験戦争」批判などを口実に、文部省が方向転換をして、いまや「勉強規範」は解体した。

ただこの手の研究で一つ留保しておかなければならないのは「学力」観は変化している、ということだ。20年前と今と同じ問題の正解率を比較しても、解くべき問題の内容が「低下」ではなく「変化」している、という可能性は留保しておく必要がある。その意味では学力低下よりもむしろ深刻なのは学力格差の拡大である。それを無くすという名目で「ゆとり」教育にしたはずなのに、逆の効果をもたらした。平等の達成とはいかにして可能なのか、この逆説的結果にこそ、「教育」の今の考えるべき問題がある。

「ゆとり」教育。普遍的な規範ではなくして、個人の成果としてお勉強を意味づけようとする。これは端的にエリート主義なのである。一方で「ゆとり」と称して大多数のものに楽をさせ、少数のものだけ勉強をさせる。その結果が全体的な学力低下と学力間格差の拡大である。文部科学省は、あるいはエリート主義を唱えるものたちはそれでいいのだ、ともいうだろう。努力したものがむくわれる社会。大多数のものは安上がりな単純、時間制労働をさせればそれで良い。エリートたちは創造的な仕事をして、大衆をひっぱっていくのだ。それが「ゆとり」ある「エリート主義」的教育の落しどころである。

もちろんかれらは「分かって」やっている。平等・民主主義といった価値観を共有していないものたちが何を指向してもさしておどろくべきことではない。問題なのは善意のつもりの、無能な教育者たちである。「学力」を高次の体系に位置付けられずに、単にその場限りの「全員」の達成感などに解消しようとする。学ぶべき事は常に先にある、そういうメッセージを最初から伝えようともせずに、多数派の落ちこぼれを堂々とつくり出す。

(2002年9月23日)

道具を愛す

三連休は天気も良く、どこかに出かけるのに絶好だったが、ずっと家にひき籠っていた。サボった教育社会学会ネタを朝日新聞が取り上げていて、結構面白げな感じの話だったりして少し落ち込む。サボった分やるはずだった授業準備も読書会の準備も全然やらず、ひたすらLinuxいじりに興じる。

Linux、いよいよWindowsより具合が良くなって来た。コマンドラインでのテキスト処理がとても便利な事にいまさらながら気づく。例えばこのページ。アクセス解析をつけているので、ローカルでブラウザの表示確認をすると、それもしっかり解析に引っかかる。自分のアクセスを解析しても仕方がないので、表示確認すると来は外しておきたい。というので、Windowsではいちいち解析部分の記述を手動で削除することになる。Linuxではコマンド一発で不要な部分が削除できてしまう。またApacheが立ち上がっているので、表示確認用のファイルはローカルなウェブサーバに吐き出す(コピーする)ようにすれば、Windowsマシンからも表示確認ができる。この不要部分の削除とファイルのコピーが一回の操作でできるのだ。このあたりはCUIの面目躍如といったところだ。

ついでにGUIのデスクトップ環境もKDEをしばらく試してみる。Linuxには(限らないが)、WindowsやMacと違って複数のデスクトップ環境があって、自分で好きなものを選ぶ事ができる。その代表的なものとしてGnomeとKDEがあって、わたしはずっとGnome派だったのだ。古くからあるのはKDE。完成度が高いのもKDE。しかし、妙な話だが、KDEの完成度がなんとなく疎ましく、いい加減なところのあるGnomeの方がピンと来ていたのだ。強いていえば、KDEはMacっぽくて、GnomeはWindowsっぽい感じ。完成されたGUIよりも、未熟なものの方が馴染める。

そう思ってずっとGnomeだったのだが、どうにも完成度に差がありすぎて、あえてGnomeに留まる理由がないような気がして来たのだ。とくに私が今使っているTurboLinuxというのが、KDEに力をいれている、というのもある。心情的にはどうにもGnomeが好きなのだけれども、すまぬ。まあGnomeを捨てるわけでもなくて、その日その日の気分で使い分けるだけの話なのだが。ってたかが「道具」に何をそんなに思い入れを持たねばならないのだ?

(2002年9月23日)

安倍なつみ観察日記

後藤真希卒業スペシャルをテレビ大阪で見る。例によって安倍なつみは冷淡だ。他がぐずぐずになっているのに安倍なつみだけは愛想泣き?をして見せているにすぎない。何か悲しく振舞わなければならないが、そういう気分でもないので困惑している、という感じだ。もうメンバーの卒業にはなれてしまっていて、いまさらいちいち万感の想いなど込めていられるか、ということか。あるいはオリジナルメンバー以外は安倍にとってただ素通りしていった通行人でしかない、という事かも知れない。感動の場を作り上げようとする全体の雰囲気に逆らうでもなく、といってそこに加わるでもなく、なんとなく手持ち侮沙汰なかんじで、ただそこにいる。普段とくに白けた、斜に構えた性格には見えないだけに、見ていていたたまれない。

最後あたりに市井が登場して来た時には少し冷やっとした。もっとも安倍はずっと場違いな感じでつったっているだけだったから、市井が来た時もそのまま場違いなままで、かえって目立たなかった。

(2002年9月22日)

いわゆるひとつのLinux日記

学会にもいかず、ひたすら家でPC環境の整備に励む。WindowsXPはSP1をインストール。800MBほどの空き容量のあるHDDに30MBあまりのものを入れようとしたら空き容量が足りないと怒られた。不可解な事もあるものだ。ファイルを圧縮したり何したりして1.3GB程度空けて再挑戦。今度はきちんと入った。空き容量の減り方も30MBそこそこ。つくづく不思議な話だ。

Linuxはデフォルトのインストールではいろいろ抜けていたものを追加で入れる。とりあえずApacheを入れたので、CGIなどの実験ができるようになったはず。ついでにカーネルの入れ換えもやってしまう。Windowsと違ってこんな事ではいちいち再起動は促されない。

ちなみにいま使っているデストリビューションはTurboLinuxで、添付のツール(zabom)を使えばDebianのように依存関係とか気にせずにガシガシアップデートができる。それに気づいたのが今日で、それでカーネルの入れ換えやらKDEのバージョンアップだとかちょっと気の重い作業もがんがんやる気になったのだ。多分再起動を何回もかけなければならないWindowsUpDateよりも手間は少ない。もうしばらく使っていけばWindowsよりもストレスなく使えるようになるかも知れない。

ただやはりCannaは使いづらいのと、安定度もあくまでカーネルレベルの話であって、デスクトップ環境自体が岩のように安定しているというわけではない。無理矢理電源を切らなければならないような事は起こらないだろうが、それなりに再ログオンとかはせざるを得ない時もある。このレベルの安定度はWindowsと五十歩百歩といったところだ。

学会出席記録を書くはずが、Linux日記とは。

(2002年9月22日)

水洩れする容器

つんくが安倍なつみを評して「最初に安倍を見たとき、たしか“何もなさ”がいいなと思ったんですよ」といったという。「空のいれものに水をいれていくような良さがある」のだとも。前半は同意。何もない良さ。そのよさをつんくは見事に安倍の中に表現し続けた。どのユニットにもいれず、ソロ活動もさせず、無役のまま、モーニング娘。を担わせた。実際にはつんくは水などいれなかったのだ。光源氏でもあるまいに、水をいれるなどとおこがましい。

「何もなさ」、そこに惹かれるのは、それを自らの手で満たしたい、という充足願望ではない。そうではなくて、その願望が決して満たされることはない、という帰結をこそ願望しているのである。「何もなさ」が醸し出すそこはかとない不安定さが「私」を呼びかけるのである。そこに意味を与え、埋めようとする行為、それが常に失敗し続けるその構造の中に、「私」は己の居場所を見出すのだ。

(2002年9月20日)

心残り

明日からは教育社会学会。94年から出席して以来初めて欠席する。ちょっと前あたりから自分の報告だけをする感じになっていた。今年は報告をしないから行かない。報告をしないのはエントリーを忘れていたからで、その程度の物なのだ、といい聞かせる。去年報告をわざわざ聞きにくれた人がいたのにな。

でも学会報告するのなら8月9月のバイトはほとんどできなかった。バイトとはいえ、こっちはこっちである種のキャリアになっているはずだし、お金も、まあ稼いだ。学会行くよりよほど合理的な選択だったはずだ。そして仕事疲れで、明日広島くんだりまでいく元気はない。非常勤の準備もやらなければならない。看護学校だってまだ残っていた。そうだ、読書会の準備もしなければならない。この三連休は貴重な時間なのだ。

(2002年9月20日)

ブラックホール

はっきりしている事は日本政府には自信がない、という事だ。拉致被害者が仮に銃殺されているというような事があったとしても、そのことへの想いを抱えてなお、未来のためには前に進まねばならぬと人々に対して宣言するだけの自信がないのだ。

ただ逆説的にいえば、外務省は良くやったというべきかも知れない。理不尽な想いはどこかへ怒りとして向けられざるを得ない。それをブラックホールのごとき吸い取る外務省。自らを犠牲にして日朝国交正常化への障害を取り除く。感嘆すべき官僚魂。

(2002年9月19日)

目にはさやかに見えねども

あれよあれよという間にもう後期。そろそろそっちに気持を持って行かねばならないのに、バイトの方の仕事も佳境にはいる。XMLでテキストを作成せよ、という指示。はぁ?XML?誰か教えてくれ。

(2002年9月19日)

小さな発見

<marquee>って今のNetscape(モジラだけど)では表示されるようになったんだ。だからなんだって感じですが。というか、使わないけど。

(2002年9月18日)

仲間と敵と

私「たち」は北朝鮮を「テロ国家」と認識する。確かに閉ざされた秘密組織を持ち、それが人の命などよりも重要な「使命」とやらのために動き、そうしてさまざまなテロを行うのを国家として承認するかの国は「テロ国家」と呼ぶのがふさわしい。それはCIAを後生大事に抱えるアメリカ合州国が「テロ国家」と呼ぶにふさわしいのと同じ意味でそうだ。何やらとんでもなく恐ろしく、理不尽な事が起こっていたのではなく、「普通の国」ならば被害、加害、どちらもそれなりに経験して来た事が起こっていたのだ。

私「たち」が今度の一件にことさらに衝撃を受けるのは、その被害者が「同胞」だからである。私が生まれて以降の、年齢は違えど確かに同じ年代を生きたものとして、戦時でもない「平和」な時間を当り前のように生きた経験にてらして、かくのごとき理不尽な事件が起こり、ただ見過ごされるよりなかったということ、それが同じ生活圏で生じていたという事、その「同じ」という感覚が「同胞」という感覚を構成している事は確かだ。アフガニスタンの悲惨は、しかし私たちからは遠い世界の、別の論理で動いている世界の悲劇である。アメリカへのテロはそれよりは「同じ」世界の出来事だが、しかしやはり世界の番犬として振舞うその様に対する反感が生じるのもまたそれなりに想像可能である。しかし「我が」日本は、少なくとも「戦後」は、そういう世界とは無縁であったはずだった。それなのに一方的に狂ったテロ国家によって一方的に理不尽な結果をもたらされた。拉致された人々は、私「たち」と同様にイノセントなのであり、逆にイノセントな私たちもまた同じ危険にさらされていたのだ。

しかしさらにまた、「同じ」空間というその感覚は*相手*もまた持っていたという事も確かなのである。アメリカがイスラムを敵視し、侮蔑して来た帝国主義国家であるがゆえに、その象徴に対する「テロ」がふさわしい報いであり得たように、あるいは「テロ」を行った奴らをかくまうアフガニスタン政府を転覆させるためにはそのもとにいる人々の犠牲もやむを得ないものであるように、東西陣営が「戦争」を演じているさなかに明らかに「西側」に属した日本とその人々が危険にさらされるのもまた「やむを得ない」ことなのだ。

その理不尽にやむなき連鎖を断ち切らねばならぬ。朝鮮人学校への嫌がらせを行っているもの、それを先導し兼ねない反朝鮮感情をかきたてる発言をするもの、やつらこそしょうこりもないテロリストなのだ。

(2002年9月18日)

今日のニュースより

人間の感情をどのように組織するかは、いわゆる心理学・生理学の問題ではなく、政治的な問題である。怨みは怨み、悲しみは悲しみ、しかしそれを絶対不可侵な物にして「報復」感情を駆り立てさせるのは政治的な組織化の結果というべきだ。

(2002年9月17日)

Linuxと肩と

今凝っているのがまた再びLINUX。OpenOffice.org。いままでThinkfreeOfficeとかKOfficeとかいろいろ試用しては見たがいまいちだった。それで今度もさして期待しないでいれてみたが、これがなかなか。日本語のかなり込み入ったExcelファイルをほぼ完璧に読める。そしてまた私がExcelでやりたい事もあらかたそのままできる。意外と今までの表計算になかったのが「クロス集計」機能なのだが、これがExcelとくらべると若干貧弱ではあるが、十分使えるレベルで装備されているのだ。もちろん関数の種類は文句なし。Excelとは微妙に違う部分もあるが、OpenOffice.orgのほうが好みの部分も多い。

MSOffice代替としてはかなり使えるだろう。少なくとも無作法に(私も時にやるが)、添付ファイルがMSOffice形式で送られて来ても、これがあればほぼ問題なく読めるだろう。自分で新たにファイルを作る場合も、ワープロ機能はWordと比べると貧弱な来はするが、あまり妙な事をしなければ十分だ。Windows版もあるから、Linuxユーザならずとも、Office文書を読んだり作成したりしないといけないが、値段諸々で買いたくないな、という状況であれば文句なく「買い」(無料だけど)だ。

実際、私が初めてPCを買ったころはソフト代も今よりも高く、そして機能は貧弱だった。また今程Office系ソフトが「標準化」されていなかった。だからそのころにこんなのがあれば文句なくこれに決めていただろうな、と思う。本当に「無料」とは信じられないぐらい高機能でできのいいソフトなのだ。

ただ、今ほとんどのPCでMSOfficeがバンドルされている状況ではやはり少し辛い。いますでに持っているソフトはもはや「無料」だし、両方あればMSOfficeのほうが何かと便利ではある。ファイルの互換性やら、操作の微妙な違いだとか、そういうのはやはり当然ながらMSOfficeのほうに馴染まざるを得ないのだ。

それでも私のような軟弱Windows流れのLinuxユーザにはやはり朗報だ。Linuxをデスクトップ用途として使うなんて、と硬派のLinuxerからは馬鹿にされつつ、かつてOS/2に託さんとした脱Windowsの夢をもう一度見させてくれるのだ。

ちなみに軟弱Windows流れにぴったりのテキストエディタはXZエディタ。ずっと(多分ここ数年)試用版のままだが、十分使える。かな漢字変換はAtokXが欲しいが、今はCanna。まあ、使える。というので今日のこのページの更新はLinux上でやってみました。ついでに後期非常勤用の資料作りもLinuxで。Windowsでの作業と比べると、ちょっと肩は凝りましたが。

(2002年9月16日)

妄想の構造

藤本美貴と松浦亜弥、どちらも妄想系アイドルだが、にもかかわらずファン層はかなり分断されているように思える。そして両者のファンが相手よりどこがいいのか、さらに相手のどこが気いらないのかを言い合うとすればかなり奇妙な事が起こるだろう。藤本派は松浦を評して、「作り込んでいる」、「わざとらしい」というだろう。一方松浦派は松浦派で同じ事をいうだろう。自分の応援している方は「天然」である。一方相手は「狙っている」。「本当は」計算高いやつなのだ。

このやりとりの本質は、しかし、「本当」対「嘘」、「現実」対「虚構」をめぐるものではない。藤本と松浦、いずれが「本当」に「清純」であるか、いずれの表情が「素」であるか、など誰も考えてはいない。藤本、松浦いずれも極めて明示的にメタメッセージを発し続けている。「私は(妄想を対象とした)アイドルなのだ」と。そして違いはただ、そのメッセージが伝達される伝わり方なのだ。

藤本は「私はアイドルだ」というメタメッセージを、テレビカメラを見る視線=ファンに見せる顔の中で、つまりファンへの「メッセージ」と同じ地平で展開する。「素」に装うのだ。

一方松浦はそのメタメッセージを、メッセージとして伝えない、ということによって表現する。メタメッセージは、確かに誰にでも伝わっているのだが、しかしそれは松浦が伝えたものではない。ファンが松浦のなかに否応なしに発見するのである。

ただいずれも共通しているのは、メタメッセージの解読が明示的になされている、ということだ。かつてはそこにメタメッセージがある、という事自体が古典的アイドルにとってはスキャンダラスだった。小泉今日子が「なんてったってアイドル」でそれを相対化して見せて一つのパラダイムシフトをなしたといわれる。その評価はさておき、いまやそれは相対化して見せる必要もなく、逆に絶対的な形で価値として存在している、という事だ。いまやアイドル妄想家たちにとって重要なのは、そのアイドルの「本当」の「素顔」などではない。現実のいきざまなどもはや問題にならない。重要なのはメタメッセージが構成され、伝達される形態あるいは構造なのであって、そこに妄想家たちの「筋」に適合するか否かが問題なのである。

(2002年9月16日)

近況2

このサイトを置いているプロバイダがなくなってしまって別のプロバイダに吸収された。それで新しくアカウントをくれるのはいいが、メールアドレスもサイト置き場も全部変わってしまうことになる。まだ猶予期間はあるし、新しいアカウント名をどうするかも決めていないので、しばらくはこのままだが、近いうち引越しすることになります。せっかくYahooにも登録されているのに。もったいない。今は申請しなおしても相手にしてくれないだろう。Googleでもそれなりに上位に出てきたりするのに。他も少しはリンク張ってもらっているのに。メールアドレスが変わってしまえば、連絡が途切れる相手も出てくるだろう。一度それである研究会との縁がぷっつり切れた経験もあるし。もちろんアドレス変更のお知らせをばら撒けばいいのだが、そういうことがなかなか出来ないのが「引きこもり」の臆病な傲慢さというものだ。

さて新しいアカウント名だが、今までと同じで行こうか、全く変えてみようか、悩んでいる。凝ったのにしてみたいが、あまり懲りすぎて飽きが来たり、余計な突っ込みが入ったりするのもよくない。仕事関係にも使うアドレスになるので、あまり妙なのはまずい。nacci-angel@xx.so-net.ne.jpとかさ。

(2002年9月15日)

近況

更新する気があるのか、ないのか、というような状態が続いている。末期的症状というのだろうか。

私がサイトを更新する気が起きない、というのは相反する二つの状態があって、その一つは表現意欲が他でまかなわれているため、サイトにまで気が回らない、というものだ。あるいは逆からいうべきなのかもしれない。何かしら表現したい気持ちがあるが、それをぶつける相手・場所がないとき、サイト更新で気を紛らしている。このケースではサイト更新がされないのは私にとってむしろ喜ばしい、ということだ。

もう一つの状態とは、要するに何の表現意欲もない、というものだ。単なる無気力。引きこもりが身体だけでなく、精神にまで浸透している状態。

今日のハロモニ。もなっちは出ず。録画して3分で見終える。

(2002年9月15日)

嫌米的想像力

人間の想像力というのは、訓練の賜物なのであって、何を想像するか、何に共感するか、何に己を重ね合わせるか、というのはそういう何がしかの訓練の結果なのである。ただ厄介なのは、その想像力というのがあまりに身体レベルにまで透徹するので、私たちはそれを「人間的」必然とでもいうべきものに感じてしまう、ということだ。

私たちはニューヨークの高層ビルから逃げ送れた人々の惨状やら、ハイジャックされなおハイジャック犯に立ち向かい、その意志を挫折させた乗客やらに、己を重ね合わせることが比較的容易に出来ている、とみなされるようだ。突然の理不尽な「死」を前に、それに直面した人たちの無念と勇気に思いをはせよう。「識者」はいう。そして中にひねくれ者がいて付け加える。アフガニスタンの現実もお忘れなく。

人間の想像力とは訓練の賜物である。しかもそれは身体化されてしまう。恐ろしいことだ。私はニューヨークでビルの残骸にまみれた人たちや、ハイジャックされた飛行機の乗客の想像はほとんど出来ないくせに、アメリカの爆撃にさらされ、死にさらされるアフガニスタンの人々に対する想像やら共感やらが出来てしまうのだ。「同時多発テロ」と称される事件の被害者の数より、アメリカの「誤爆」による被害者のほうが上回っているという話を聞くと、人口密度など話にならないほど違うだろうことを想像に付け加えると、その「誤爆」の執拗さに対する、それにながきに渡って、じくじくとさらされ続ける無念と恐怖に共感を覚えるのだ。

(2002年9月11日)

なっち不足

今日のMUSIXも録画してから見たら2分で全部見終えた。

われに妄想のネタを

宇多田ヒカルの結婚がらみでいろいろ話していたのだが、その中で割と直接的な妄想の対象だった、という人がいた。宇多田は私も結構好みだが、結婚ということに取り立てて感慨を持つ類の存在ではない。そういえばなっちの「スキャンダル」も別に取り立ててどうとは感じなかった。どこかで私はすでに「満たされて」しまったのかもしれない。そうなのだ。これは「奴ら」の陰謀なのだ、と無理やり妄想してみました。空しい。

(2002年9月10日)

妄想の組織化形態

というので?今は妄想を搾取された状態であるので、それが捻じ曲がった方向に表出されてしまう。「生産性」第一主義という資本の論理に緊縛された私はある特定の他者を「天才的な馬鹿」などと心の中で平気で罵倒する。

あるテキストから抜粋するにあたり、よりによってそのテキストの数少ない間違い、問題点を、そこに限って持ってくる。そこ以外だったらほかの何を抜粋してきても良いものを。ある意味神がかり的なセンスでその間違いを反復する。こういうのを目の当たりにするとそれはもはや「天才的」というしか言葉が浮かばない。何かに魅入られたような反復動作。これはもはや「論理」を超えた精神分析的な問題系になるのかもしれない。

(2002年9月10日)

少年よ、妄想を抱け

リアル読書会でネグリ・ハートの「帝国」を読むことになる。その前勉強ということで、ネグリの「ジル=フェリックス」というドゥルーズ・ガタリ論を読む(「批評空間」1999年II−20)。

労働とは、欲望の表現でなくしていったい何であろうか。そして搾取とは、欲望のコントロールでなくしていったい何であろうか。

搾取なき労働とは欲望の表出でなければならぬ。私がまだ生産的であったころ、私の頭は妄想で満ち溢れていた。私は妄想に導かれて思考をしていた。そしてその思考はユートピア性をたぶんに持っていたはずだ。今、私は「労働」に感ける。「労働」にエネルギーを吸収され、妄想を抱けなくなった。私の思考は資本の論理に緊縛され、「生産性」で人を評価し、見下す。私の思考は、私の妄想とは無縁の、まさに資本の量的な価値に転化していく。これほど古典的な「搾取」概念を、今これほどに身近に感じる、というのがいまさらながら新鮮ですらある。

ネグリのドゥルーズ論はこの欲望の実定性(positivite)を論じようとするものだが、一点ジジェクのようにその猥雑さがいまいち掬い上げられていないようにも思える。欲望をコントロールし、あるいはそれを解き放とうとする闘争の中に循環する猥褻さ。呼びかけの空白点からこちらをそそり、誘いかけるエロティシズム。そのあたりにどの程度まで迫れているか、などゆっくり読んでいくことにします。

それにしても最近なっち見てないな。それが「妄想」枯渇の原因か?まあ、それは違うけれど。

(2002年9月10日)

タンポポ「解散」

タンポポにとって加護(も石川)も、必ずしも必要な歌唱力ではなかったが、加護にとってはタンポポはいいユニットだった。ミニモニ。よりもタンポポの加護のほうが「らしかった」。ミニモニ。の加護はガキのスーパースターだが、加護にはそれほどの「力」はないように思う。だからどうにも無理があるようで、見ていて痛々しい時がある。タンポポの加護は頑張らない。無責任な末っ子でしかない。それでいいのだ。

(2002年9月8日)

守るべきものは、ない

いまさらだが、どうにも「現状打破」というのは難しいものだ。こちらは「状況」を批判し、現に今その「状況」の内部にいるものとしての責任のもと、それを変えようと主張しているだけなのだが、その「状況」を作った側からすれば、それは個人攻撃に映るらしい。なにやら自分の存在自体が否定されるような気がするのかもしれない。聞かれててもいないはずの弁明(言い訳)をはじめるだけなら良いのだが、それが次第にどことなく攻撃的になってくるのが痛々しい。「戦争責任」問題が頭をよぎる。過去を正しきものと位置付けなければ生きられぬ強さと弱さ。ああ、守らねばならぬものがあるのだ、と思う。その一点を守らねば己の存在を否定されるような恐怖。私からすれば、取るに足りぬ、むしろあらゆることの桎梏でしかないものとしか見えないだけに、私は無遠慮に土足で蹴散らそうとしてしまう。後でそれが相手を否定していることになっていたのだ、と気付く。

私は本質的に破壊者でしかないのかもしれない。過去のしがらみも、過去の「実績」も、過去の方針とやらも、すべて潰してしまえ。日本という国だって潰れてしまえ。一度すべてをご破算にした後のユートピアを私は妄想する。「もっと大人になれよ」。

(2002年9月7日)

僕はここにいない

私はいつも「脳内」で生きてきた。外の世界(現実の世界)は、都合よくフィルターをかけられて私の脳内に整除されて入ってくる。「世界」はそうして、私の論理で構築され、そうしたものとして存在していた。

私は、しかし、それが私の世界でしかないことを知っている。それがどこか外で通用する場があるとは全く信じられていない。私の脳内の世界はそこでしか通用しえないもので、それが外で何かの意味を持つ、という可能性があるとはどうにも思えない。だから私は最終的には何も語らない。

奇跡的に何かを伝えられるのではないか、という可能性を不意に感じるときがある。私はその「奇跡」を前に熱くなる。私は己の「脳内」世界を一度に吐き出そうとする。おずおずと、しかし不遜に、私はそうする。

やはり不意に、その可能性は現実ではないことを思い知るときが来る。私はまた脳内に戻る。

(2002年9月5日)

疲れる

ネットというのは、氏素性が問題にならないだけに、言葉で関係をつむいでいかなければならない。私が「書いた」責任は取る、というのもすべて言葉で責任を取る、ということであって、それ以上でもそれ以下でもない。そして「それ以上」なんて本当はなくて、それが最大の責任の取り方だ、とも思っている。

サイト運営の方針はそれぞれあるだろうし、どれがどうということは必ずしもないが、少なくともこのサイトはそういう価値観の元でやっているし、それを外でどう批判し、言及するもの御勝手に(もちろん反論権は当方にもある)だが、このサイトの掲示板はその方針で運営する。私の権利と責任においてそうなのだ。

というので、掲示板には何をかいてもいいが、きちんと「言葉」で書いてください。「かくかくしかじかのこれこれの内容がこういう観点からして納得がいかない」、それが「言葉」というものだ。いきなり単語を投げ捨てるのは止めてください。

(2002年9月4日)

暴れん坊

掲示板で、お前は乱暴者の「ジャイアン」じゃないか、といわれた。この日記を読んでそう感じたのだろうか。そう指摘した人も最初にジャイアンといったわけではなく、「浜村龍造」だと感じたようなのだが、私が「浜村龍造」を知らなかったために言い換えてもらった。そこで多分某かのずれが生じているのは間違いなく、私がピンとこない主要因はそこにあるかもしれない、と留保はつけなければならない。しかしその上で、「ジャイアン」とはいささか驚いた。多分私のリアルな知り合いがそう聞けば、噴出すだろう。

私はジャイアンのような肉体派ではない。それは単に体格の問題だけではない。問題はジャイアン自体の把握にかかわる。ジャイアンはしばしばただ強く、繊細さに欠く人物とされるようだが、多分そうではない。逆にジャイアンはある意味とても弱い人間なのだ。リアルな世界で、己の存在への不安を、他者への暴力的なコミュニケーションによって覆い隠そうとする。「われはここにあり」を彼はひたすら叫びつづけようとし、しかし彼の存在は希薄なままに留まる。己の存在の希薄さ故にリアルな世界に執着する。それがジャイアンだ。

私は、そしておそらく「オタク」的志向を持った人間はそうではない。私は、己の妄想の世界に留まろうとしつづける。私が固執するのは己の脳内の価値基準であり、私の頭の中の「理」(ロジック)だ。私はそれを不遜にも、絶対のものとして、現実の世界に持ち込む。私が「暴力」的なのはそういうことだ。

(2002年9月3日)

一つ覚え

しまった。もういつのまにか八月が終わってしまっていた。というわけで、慌てて新しいページ作成。

八月。不調なのか何なのか良くわからない月であった。サイト更新は不調。お仕事はまずまずやった。でも金は大して稼げず。モーニング娘。とは疎遠。リアルな知り合いとの交流もいまいち。

今はバイト先のサイト作成にのめりこむ。個人の趣味サイトではないのだから、と企業サイトなどを見回るが、参考にならない。フラッシュだなんだというのが主流っぽいが、技術もないし、というかソフトもないし、趣味でもないので、ローテクに徹する。画像もいろいろいじってみたが、センスも技術もないので断念。テーブルタグ使いまくりの、汚いソースのサイトは作りたくないので、strictなサイト作りにする。デザインはもちろんCSS。企業サイトなのにNN4を切り捨てていいのか、という疑問が浮かぶが、無視する。ソースはきれい(なつもり)なので、CSSを切っても充分見やすいはず。おまけで色使いなどを変えたalternate stylesheetを添えておく。この手間賃まではさすがに請求できない。

出来上がりはお見せできないが、なんだかんだここのページと同趣向。才能のない人間のやることなんて、馬鹿の一つ覚えに決まっている、と自ら実感した。

(2002年9月1日)

★夏の夜の夢

(-2002/08/31)



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