重層的非決定

モーニング娘。
L. Althusser
No.12
2002/08/01-2001/08/31

★復活へ向けてのリハビリ

←Index →Logs


適材適所

なんでも屋もここに極まれり、である。バイト先からWebページ作成を依頼された。HTML化はやります、といったのだが、デザインまで全部押し付けられた。あの〜、わたし中学高校と美術、「赤点」取っているんですけど。

(2002年8月31日)

兵役拒否以前の役立たず

モーニング娘。関係のサイトを見ていると、娘。を「性的」に見ることにあからさまに嫌悪感を示す記述に出会う。自分にとって娘。はそういう存在ではない、といいはるのだ。とはいえ、もとより実際完全に非性的な存在である、ということはない。そういう性的なるものを排除して、例えば「萌え」などといわれるたぐいの感情を提示することなど不可能なのだ。歌がうまい?踊りが上手?しゃべりが面白い?そういう説明をいくら積み重ねてみても、むしろ逆に言い当てることから遠ざかる。そうして言葉を積み重ねてなお残る残余こそが「性的」なのだ。構造主義にしろ、エスノメソドロジーにしろ、この残余に向き合うことが出来なかった。そしてまた逆にフロイトはこの残余をあからさまに言語化(構造化)しようとして、却って残余を取り逃がしたように思う。

オタク論に積極的な意味があるとしたら、この猥雑なる残余を組織し、それに人々を隷属させんとする「権力」に対する攪乱の可能性を見出すことだ。確かにモーヲタの多くは資本の要請どおりに金を落とすだろう。しかしかれらはあからさまに消耗品として、それに従う。そして「現実」への身体の誘い込みは拒絶するのだ。かれらは権力の猥雑さを妄想化する。後に残るのは「使い物にならない」身体のみである。

(2002年8月30日)

お願い

Googleで自分の本名で検索かけてもこのサイトがヒットしなくなった、と喜んでいたが、どうやらたまたまその時Googleの調子がおかしかったのか何なのか、ヒットしなかっただけで、しっかり復活していた。

アクセスログを見ていると、私の本名で検索してきた人で、私とは縁もゆかりもない場所からのアクセスがあったりする。そんなところに就職した人がいたっけ?というので心当たりのある方、メールか掲示板に書き込むかしてください。学生さんとか、一方的に私のことを知っていてもおかしくない人はいいけれど、直接の知り合いならちょっとは存在ほのめかしてくれたらいいのに、って私も知り合いのサイト、こっそりROMしてたりするので、文句言う筋合いはないけれど。

(2002年8月30日)

疎外

こういうのをある意味「疎外」というのかもしれない。毎日朝7時に起きて仕事に行き、帰るのは7時過ぎ。風呂に入ってテレビを見ながら晩御飯を食べ、気が付いたら11時。ネットも惰性で見たりはするが、特に惹かれることもない。となると自分のサイトの更新意欲も沸かない。何かを表現しようという意志がない。

ついでにモーニング娘。ともご無沙汰だ。惰性でビデオだけ撮ってみないから、たまりにたまる。今週のハロモニもMUSIXもうたばん(中澤出演)も取るだけとってみていない。

娘。系のサイトを見ていたら、娘。の所属事務所のZETIMAの社員募集の話が出ていて、待遇が悪すぎてはなしにならない、とか何とか書いてあった。「現実」問題としてそんな条件ではとても働く気にならない、と。わが身を振り返れば、それよりずっと労働条件が悪い。有給もなければ、もちろんボーナスもない。未来もない。私は「現実」の中に生きていたつもりだったのだが。

己の表現意欲だとかなんだとかを吸い取られるだけ吸い取られて、金も何も残らない。いっさいがっさいが私から疎遠な存在として私から離れていく。このサイトもいつまで続くやら。最後の砦かもしれない。サイト「ごとき」が最後の砦になる時点で何か間違っているのだが。

(2002年8月29日)

遠吠え

今が精神的に楽なのは確かで、「本業」中心のころは例え時間がいくらあろうとも、常に何かにおいたてられるような気がしていた。比較的長期にわたって、自分ひとりで漠然とした思いをそれなりのまとまったものにまとめていく作業というのは、やはりどうにも疲弊する。達成感とか、区切りとかがほとんどない世界。今はくだらない雑事を、一日ごとに一つずつこなしていく。毎日6時だか7時だかにささやかな達成感とやらを味わう。

論文もそういうふうに書ければよかったのかもしれん。学会に出れば、そうやってルーチン化された「業績」の山だしな。

(2002年8月26日)

従順なる精神

私は自分が信じていた以上にマルチタスク人間ではなかったらしい。「二束の草鞋」などと突っ張ってみても所詮私は日々の雑事に身をゆだねるだけの存在なのだ。

バイト先の他人の失敗のカバーに、金にもならなさそうなのに、忙殺される。そのせいで研究会にも出そびれた。恐ろしいのは、それを自分が嬉々として行っていることだ。私は「精神の自立性」すら失い、ひたすら従順な身体に精神をも従属させられるようになりつつある。嗚呼、ジャパニーズプロレタリアート。

(2002年8月25日)

わたしってオ・ト・ナ

初心者向けのHTML講習でHTML4.01 Strictは教えてはならん、と今だったら思うな。なんだかんだいって、「あ、ここの文字真中に持って来たいなあ」「この画像、この大きさで治まらないかな」。そういう要求が出てくること、わかっているのだから、そんなのをいちいちCSSで書け、なんて言えますか。はたまたブロックレベル要素の中にしか、普通の文字はかけません、なんて理解できるわけがない。だいたいそんなガチガチのページ、実際ほとんど存在すらしていない。人はそんなにいつも構造的にものを考えているわけでも、表現したいわけでもない。まずは書きたいように書き、いじりたいようにデザインをいじれば結構。IE、Netscape独自タグ大歓迎!!!

私ですか?ガチガチ大好きですよ。それでもこのサイトをHTML 4.01Strictにするのはまだちょっとめんどくさい。まして初めてHTMLを手書きする社会人相手には妥協をしようよ。デザイン懲りたい人に止めろ、なんていえんし。学生相手には遠慮なくやりますけどね、私だって。

(2002年8月22日)

反省猿

しばらくまた更新できていない。今週は幸せなことと嫌なことが綯交ぜだ。日曜日にかつての仲間と会ったのの延長で、引き続きひとと会って気分よくまた飲んだ。昔話はあまり好きではなくて、常に新しい話題が出てくるのが良い。私には常に現在と未来しかない。「将来」はなくとも未来はある。

職場(バイト先)の拗れは一向に解決されず。言ったほう(私)は気分よくぶちまけてすっきりしたのだが、言われたほうはやはりかなり傷ついたのかもしれない。と言っても、言っていることは正しいと思っているし、こっちはこっちでそれなりに積もり積もったものがあって言っているのだから、自分から折れる気はない。そういえば、本業のほうでも学会で手ひどく腐した相手がいまだに私のことを避けている感じだ。別に人格攻撃した気はないのだが、仕事上、あるいは学術的な問題点を指摘しただけのつもりだが、言われたほうはそれではすまないか。ちょっとものの言い方は考えるべきかと、ほんの少し、反省する。

(2002年8月21日)

お詫びとお知らせ

申し訳ありませんが、当サイトはNetscape4.xのサポートは打ち切りました。スタイルシートを使う設定ではトップページはまともに表示できません。これはブラウザ依存の特殊なタグを書いたわけではなくて、端的にNetscape4.xの問題です。Netscape4.xを切り捨てるのは断腸の思いはあるのですが、その後継たるべきNetscape7.0およびMozilla1.1が充分に実用になりうるということで、古くて不十分なバージョンはもういいだろう、ということです。IE独占は全く良しとはしませんが、といって不十分なバージョンがNetscapeの代表として使われるのもNetscapeのためにも良くない、と私は判断しました。

もちろんNetscape4.x(場合によっては3.x)のほうが軽いわけですし、環境によっては新バージョンも実用にならない、という状況もあろうかと思います。その場合でもOperaもクロスプラットフォームを実現していること、最悪の場合CSSをNetscape側で切れば、見てくれはどうあれ、当サイトを閲覧するに内容上の問題はないこと、などから、HTML4.01の理念に少しでも近づいたサイト作りを優先することにしました。

そうはいっても、従来のつくりで既存のブラウザで十分問題なかったのに、わざわざNetscape4.xを切り捨ててまで、優先すべき*何か*があったのか、というのはやはり微妙です。プラットフォームに依存しない、ということならば従来のつくりのほうが、実際問題として幅が広いからです。今回の作りのほうが良い、という実際的な状況というのは今現在はたぶん存在していません。それでもW3Cの理念として、テーブルではなくてCSSを使ってデザインを記述する、という方向性のほうに将来を感じますし、共感もします。悩みましたが、*将来*を信じてそうしました。大げさに言えば、*実利*を捨てて理念に投じたわけです。ちなみにスタイルシートを使わない設定にすれば、HTML4.01は下位互換性も充分に配慮していますので、問題なく見られます。だからHTML4.01がNetscape潰しだ、というのはあたりません。

ついでにNetscapeへのエールということでNetscape6.0以上のユーザは「スタイルの切り替え」が出来るはずです。黒地が嫌いな方は「白」に切り替えてみてください。こちらのスタイルは思いつき次第いろいろ変えてみるつもりです。

(2002年8月18日)

非国民養成ギプス

かつての仲間と久しぶりに呑む。帰ったらNHKで戦争物のドラマをやっていて、後半だけ見る。夜中にやらずともよさそうなキャスティング、出来。6日でも9日でも15日でも、ゴールデンタイムにでもやればいいのに。

ただこの手のドラマを見せる効果というのは、たぶん微妙で、「だから愛する人を、さらにはお国を守るんだ!」という心性につながらないとも限らない。心性レベルではあるいはそちらのほうになっているのかな、とさえ思う。「平和」などという耳障りのいい言葉はどうとでも転び得るのだ。そうではなくて、「戦争」的なるもの、そこに通じる心性をロジックの時点で拒絶すること。規律正しい行進が出来るようになる、その価値をロジックの次元で無化すること。「いまどきの若者」の*だらしなさ*を、個人的な苛立ちはどうあれ、究極的には価値化すること。戦争を「平和」との対比でなくて、そもそもやりたくても出来ない状況を生み出すこと、それを私は目指したいのだ。

NHKのドラマが終わってチャンネルを適当に回したら、明徳義塾とかいう学校の規律正しい生活ぶりが映し出されていた。

(2002年8月18日)

相対的に自律した場

ようやくこのサイト、私の本名で検索かけてもいきなりはヒットしなくなった。やれやれ、というところだ。古くからの知り合いはいいとしても、仕事上でちょっと知り合ったぐらいでも好奇心でGoogleする人もいないとも限らないし、そうなるとちょっと厄介な気がしないでもない。このサイトの読者に本名とか所属とかをことさらに隠す気はないけれど、逆、つまり実生活上の「善意」の知り合い、金稼ぎ関係の人たちにこのサイトを見られるのはなるべく避けたい。金稼ぐ場と闘争の場は切り分けようというぐらいの知恵は身につけたのだ。最近だけど。

ついでに言っておけば、看護学校は金稼ぎの場で、大学は闘争の場です。というわけで、非常勤先の大学の学生さん、ご愁傷様でございます。

(2002年8月17日)

嗚呼、夏休み

せっかくの夏休みなので、何かまとまったことをやろうと思っていた。しかしまだ去年までは「本を一冊読む」とかだったりしたのだが、ことしは「PHP(出版社にあらず、一応お約束)を勉強する」とかだったりする。あるいは本来だったら今ごろは学会報告の準備に終われていなければならないのだが、そうではなくてバイト先の会議の報告書作りだったりする。そしてそもそも夏休みなんて全然なくて、お盆休みで4連休だけだったりするのだから、本業の廃業の日も近いのかもしれない。

(2002年8月16日)

貝になる気はない

世間は夏休みのようで、どこのサイトもあまり更新していない。ついでに私もあまり更新していない。というか、サイトめぐりしかやることがないのか。

といっても一日中ごろごろしている、というわけではなくて、仕事(バイトだけど)はやってます。1日おきぐらいに行っている感じなので、逆に取り立ててまとまっては休まない。昼食堂に食べに行って閉まっていて、初めて「世間」を知る。

職場で従来の仕事のやり方を思いきり批判して、その仕事をぶん取る。「従来の仕事」をやっていた人を思い切りコケにした感じになった。笑顔で対応してくれたけれど、やはりちょっと引きつっていた。多分ちょっと傷つけたと思う。

アクセス解析を見ていると、PC雑誌などで言われているよりずっとOperaとNetscapeの訪問者が多い気がする。布教活動の成果かしらんなどとうぬぼれたことを考える。

そういえばもうすぐ誕生日だった。といってもその日は仕事が入っていた。というか、別にめでたくもない。祝ってくれる人もいない。

何もしていないくせに、たまに何かやろうとすると、人をコケにする。昔からそうで、そのたびに自己嫌悪に陥っていた。だから昔から思っていた。人間辞めたい。霞み食って生きる仙人になりたい。あるいはいっそ天使(なっち)になりたい、って全然オチていない。

(2002年8月14日)

オタク:革命的?カテゴリー

「オタク」一般は存在しない。存在しているのは個別「オタク」、アニメオタ、声優オタ、アイドルオタ、モーオタなどなどである。諸オタクは業界語を駆使し、その世界をまわしていく。諸オタクは、その共同体の内部から、その「オタク」性を参照し、諸「オタク」カテゴリーを構築していくのだ。「オタク」であるか否かを決定するのは、かれらの人間性などではない。かれらの使用する言語によってかれらの「オタク」性が決定されるのだ。

後藤真希を「ゴマキ」と称するものはモーオタにあらず。「モーニング娘。」には「。」がつかなければならぬ。「阿部なつみ・飯田香織」など論外。「ゴキメン」の名前などすらすら言えて当たり前。などなどかれらを結び付けているのはかれら自身の用いる言語においてであり、それしかない。その限りでかれらは共通の運命共同体に属してはいないし、それゆえ共同体へと差し向けられる規範に統制されることもない。

しかし「オタク」一般をかたろうとするとき、すなわち諸「オタク」を一つのカテゴリーの元にくくろうとするとき、オタクたちはそのカテゴリーの紡ぎだす社会統制のシステムの中に組み込まれてしまうのだ。

一人の人の運命というのは(そのカテゴリーのメンバーである)他の人々の運命に結び付けられており、その結果、内部でもメンバーによって執行されている当のカテゴリーを中心とした社会統制のシステムが規則的に作り出されていくのである。もしある一人のメンバーが白人女性を強姦したり詐欺をしたり・・・などなどのことをしたなら、そうした出来事はこれこれの名前の人がしたのではなく、ある(その人に対して)適用可能なカテゴリーのメンバーがしたのだと見られるからである。そして、当の個人以外のカテゴリーのメンバーもおなじ償いをしなければならなくなる。こうしたさまざまなカテゴリーは、概してこの問題を引き受けており、どういうわけかメンバーはかれらを拘束している文化がもたらすイメージをそのまま行動に移そうとするのである

H. Sacks, "Hotrodder: A Revolutionary Category"

諸オタク内部での「業界語」運用はこうした社会統制システムとは離れた場所にあった。そしてオタク研究とはオタクの言語戦略にのみ焦点を当てるべきなのだ。サックスならそれを「安定した文化的カテゴリーへの挑戦」と呼ぶであろう。そしてラクラウならそれを「諸集団における等価性の連鎖の創出」と呼ぶであろう。サックスのそれは7,80年代的な文化状況を反映しているし、ラクラウのそれは選れて現在的ではある。それはともかくここで重要なのは、オタクを外部から貼り付けられる一つのカテゴリーにくくり、(逸脱者、あるいは「動物」という)教育の対象として位置付けようとする動きとはきっぱり袂を分かたねばならないということだ。

(2002年8月12日)

個別的な普遍性

東(や宮台)はオタク(やブルセラ少女)を支持するスタンスを標榜して、その実かれらを貶め、「分を知れ」と煽る。「大きな物語」はなくなった。だから君たちは動物的に(まったりと)データベースの構築に励んでいなさい。「世界を我が手に」?そんな大それたことを考えるのは辞めなさい。

「大きな物語」はなくなった。本当だろうか?そうだとして、いったいどの次元で?あるいはなくなる前にあった「大きな物語」はいったいどのようなものとして「あった」のか?

「大きな物語」なんてものはそもそも客観的あるいは普遍的なものとしては存在していなかった、というべきではないのか。ただ個別共同体内部での「物語」が存在し、それを押し立てて共同体間でのヘゲモニー争いが行われていたに過ぎない。そしてその共同体が細分化し、共同体内部の争いが主観的にさえ小さく見えているのが「今」なのではないか。

そうであるならば、「大きな物語」解体による主体の変容という問題系は全くその姿を変える。「大きな物語」が消滅したという「結果」は、物語の大きさを推し量る立場から見えているに過ぎない。一方で「物語」と主体の関係自体は、共同体内部では、何ら変更を蒙っていないかもしれないのだ。われわれは依然として「物語」の呼びかけに応えようとし、「物語」に囚われ、「物語」を語っていく。

「オタク」論が難しいのは、「オタク」という概念自体が、外部から共同体を名指すカテゴリー(レッテル)であると同時に、共同体内部でその成員自らが「自己執行」しているカテゴリーでもあるからだ。外部から見ればその共同体およびその「物語」はあまりに小さい。そのような小さな世界にのめりこむ様は「自分たち」とは異質な存在であると見える。他方内部ではそれは自律した小宇宙を形成する。「物語」に接続するべく、物語用の業界語を駆使し、「社会化」される。

オタクを取り巻く状況になにやら従来と違う特殊なものがあるとすれば、それは共同体内部の「物語」と主体のあり方の変化ではなくて、共同体間の「物語」と「物語」の関係の中にあるのではないか。オタクたちは自らの物語を押し立ててヘゲモニー闘争に参入することを放棄する。そのような闘争の空しさにかれらは気付いてしまっているのだ。かれらは自分の擁する物語が唯一絶対のものではないことを知っている。しかし繰り返すが、このことは「物語」と主体とのあり方の変容を含みこむ必要はないのだ。かれらは「私の物語」を、他者との競合を留保したまま、押し出すことができる。そしてこうした戦略の中に、ラディカルな普遍性獲得の可能性を見ることもまた充分に可能なのだ。

(2002年8月11日)

またブラウザを変更

バイト先のPCのブラウザがMozillaになっていたので、家のPCもMozillaを使ってみることにする。Netscape7.0と大して違いはない。メニューは英語だけれど、実用上は問題なし。わざわざ切り替える価値もなさそうだけれど、入れたものは使おうというわけで、こっちをメインのブラウザにすることに決定。特に新鮮味はない。

ついでにLinux環境にもMozillaを導入。Linux環境ではOperaよりもいろいろと楽。OperaはGnomeとKDEを切り替えるたびにフォントの設定がおかしくなってしまっていた。Mozillaはその点はごく常識的に動いてくれる。安定性も問題なし。総じてOperaよりも使い勝手は落ちるが、安定はしていると思う。特にいじるところもなく、拍子抜け。

何か刺激が欲しいが、何もない。

(2002年8月11日)

「誰」かへの近況報告

暑さやらなにやらで気力体力の限界。今日も味噌汁をひっくり返して服がワカメでどろどろになった。それでも何食わぬ顔で講習(バイト)を続けなければならない。

まあ、夏休みに入るとうちのサイトは訪問者がガクッと減るし、更新意欲も減退中。明日は久々にリアル読書会だから、多少「本業」(ただの趣味)モードに戻れるかもしれない。

(2002年8月8日)

二者択一の隠蔽

週刊現代の後追いみたいになるが、朝日各誌の田中康夫に対する論調はおかしい。「知性派?」朝日が田中万歳にはならないのはいいとしても、議会に不信任案可決に疑義を呈しておきながら、選挙となるや有力対立候補と目される長谷川敬子をヨイショする記事を各誌に載せる。凄腕の市民・女性派弁護士。そうなのだ。議会派ではなくて市民派なのだ。今度の選挙は市民派同士の対決なのだ。餓鬼っぽい、強引な手法の目立つ田中と、大人の、より洗練された手法を持つ長谷川。朝日を読む限り争点はすっかり入れ替わっている。もう議会か市民かなどという対立は止揚されていて、新たな争点が生まれたのだ。そういう気分にさえさせられる。

これは全くナンセンスな話だ。今度の選挙は、議会に不信任案可決に端を発した選挙である以上、まずもってその是非が問われる。これは候補者や関係者の主観のレベルでそうだ、というのではない。いかなる思惑で選挙を戦おうと、この「物語」にとらわれてしまう、ということなのだ。田中も議会も双方を批判する候補者が当選するとする。一見田中対議会という(不毛な)対立を止揚したかのようだ。しかしその結果は単に、不信任案を可決した議会の言い分が通った、という意味を持つに過ぎない。

それではおかしいではないか。第三の道が存在しない、などと何故言えるのか。その問に対しては「では第三の道とやらが成立する条件を考えよ」と切り返さなければならない。そのためには「第三の道」が対峙する立場が存在していなければならない。ところが田中側はいいとして、その対立軸、議会側が明確な候補者を立てていない以上、「第三の道」が対峙する相手が欠けてしまう。そうなれば必然「反田中」という立場だけが実体として残ることになる。

たしかに田中対反田中という二者択一は強制された選択というべきだが、その責を負うべきはもちろん不信任案提出の時点で対立候補を用意していなかった議会のほうだ。いうなれば議会は自派の公認候補を立てないことによって、田中以外のいかなる候補が当選しようとも己の側に引き込む戦略を、意図的にせよ、そうでないにせよ、とったのだ。

もちろんこうした「二者択一」は破棄・止揚されねばならない。ただし朝日や長谷川陣営のやり方は、破棄・止揚とは全く関係がないばかりか、明確に一方に荷担しているにすぎない。もちろんそれ自体はかまわない。読売新聞は一貫して田中に批判的であったし、議会のやり方にも疑念を呈しつつ、反田中の旗印を押し出す。これは非常に筋が通っている。そしてもし朝日が、脱ダムなんてくだらない理想主義だし、公共事業も必要に応じて積極的に行うべきだ、という主張を展開し、田中を批判し、議会をおおむね支持するというのであれば、その主張も傾聴するに値する。しかし朝日のやり口は、喧嘩に荷担などしていない顔をして、あるいは時に反議会的な物言いを振りまきながら、裏でこっそり田中を殴ろうという狡猾極まりないものなのだ。

もし朝日が本気でこの二者択一を止揚しようとするのであれば、市民派であれ誰であれ一人の候補者の肩を持つべきではなかった。二者択一の止揚は、それを行わんとするものの主観的な宣言によってなしうるものではなくて、その二者択一を構成する地平全体を作り変えることによってしかなしえない。それはたぶんに朝日ごときジャーナリスティックな言説の手に余るものだ。そしてこうした論評のやり方は、ジャーナリスティックなレベルでは、全く部外者的な、無責任な論評という印象をもたれるであろう。それはそれで止むを得ないのだ。少なくとも喧嘩している中にずかずか土足で入り込んで、できもしない「止揚」をする振りをするよりよほどましだ。もちろん論評者も当事者の一人となって公然と喧嘩に参加するのも、それはそれで充分誠実な態度だ。最悪なのは喧嘩の是非をしたり顔で説くような顔をして、当事者の一方をこっそり蹴りつけることだ。そして朝日は最悪なのだ。

(2002年8月5日)

決定論

唐突ですが、なんだかんだいって下部構造ですよ。

WindowsXPをThinkpad X20に入れたら、Windows2000と比べてなんだかんだ不安定になっていて、全くこれだからMicro$oftは、と愚痴っていたのだが、悪いのはMicro$oftというわけでもなかった。IBMのサイトから最新のBIOSもろもろを入れたら、見違えるほど安定した。Windowsの安定度を何とかしようと苦心してたけれど、問題はそこにはなかった。まあバージョンあげるごとにいちいちBIOSレベルで対応させないと安定しないOSというのも何ではあるけれど、OS自体の不安定さというのとは大分意味が違って、いったんきちんと対応させれば、今後はそれなりに信頼してもよさそうだ。これでようやくまたストレス無しにThinkPadを使えるようになった。というか、WindowsXPを入れて以来5ヶ月、私は何をやっていたのだろう。

(2002年8月4日)

「卒業〜TOP OF THE WORLD」

モーニング娘。の新曲、Do It Now!。前に歌詞をくさしたが、今にして思えばなかなかの歌詞だったかもしれない。幸せな将来を見越した恋の歌、と思っていたし、そう読めるのだけれど、実際は別の道を歩む同士への励ましと惜別の歌だったんだな。微妙な後悔と不安を言葉の上で無理やり断ち切ろうというような歌詞。ただそれならこの曲は市井ラストとして出てきて欲しかった。後藤はハロプロには残るんだし、すでにソロをやっているわけだし、それほど不安というものに切実さがない。

後から聞くと結構良い曲というのはあるもので、例えば2chでひそかに盛り上がっているのが1999年の初夏に出した「真夏の光線」。実にきらきらと、しかしはかなげに、美しい曲。夏のあっけない盛り上がり。歌詞も曲調も徹底して明るいだけに、その弱々しさが不思議な印象を残す。安倍メインの曲だが、他メンのコーラスが美しい。加護や石川がいては歌えない曲だが、その前に今の安倍では雰囲気が合わない。あくまで1999年の娘。の曲だ。

この曲が先週のハロモニ。で、メンバーがワンフレーズずつを歌うゲームに登場し、小川、飯田、中澤、石川、矢口、加護と歌っていったが、まともに歌えたのが、飯田だけだった。小川が全く歌えないのを見たときには、「新メンバーなさけねえ」と思ったが、中澤、矢口が歌えないのでは仕方がない。その点飯田はやはりさすがで、当時自分が歌うことのなかったメインパートをきちんとこなしていた。ちなみに順番待ちをしていたほかのメンバーもこの曲は自信がないようで、完全に逃げ腰だった。その中で気持ちよさげに口ずさんでいたのが安倍なのは当然として、辻も安倍にきっちり合わせていたのは意外。辻の株が大いに上がる。

ところで今回のハロプロの再編。一番ショッキングだったのは平家の「卒業」。「卒業」って後藤の娘。からの卒業と違って、ハロプロから卒業したって行くとこ、ないんですけど。というか、ずいぶん口当たりのいいリストラ文句があったものだ。これからどんどん一般企業でも使えばいい。某部長は部長職を卒業します。某係長はわが社を卒業します。いい感じ。

(2002年8月4日)

普遍の欠片

スープの味を知るのに、そのスープをすべて飲み干す必要はない。そうでなければ料理人は客に料理を出す前にその味を知ることができなくなってしまう。あるいは客に料理を出す前に料理人の腹が破裂するか。

分類がすでになされた諸研究を要約するだけにとどまるならば、それはほとんど研究に便宜を与えることができない。・・・適切に導かれた一経験がしばしば一つの法則を樹立するのに充分であるように、多くの場合、ただ一つの観察でさえ、ただしくなされていれば、右の目的にはかなうのである。

デュルケーム 社会学的方法の基準

実在的で具体的なもの、現実的前提をなすものから始めること、したがって、たとえば経済学では、社会的生産行為全体の基礎であり主体である人口からはじめることが、正しいことのように思われる。しかし、もっと詳しく考察すれば、これはまちがいだということがわかる。・・・具体的なものは、それが現実の出発点であり、したがってまた直感や表象の出発点であるにもかかわらず、思考では総括の過程として、結果として現れ、出発点としては現れないのである。・・・抽象的な諸規定が、思考の道を通って、具体的なものの再生産になってゆく。

マルクス 経済学批判序説

マルクスが「理想的平均」を研究すると言うとき、この理想性は現実的でないものや理想的規範の含みではなく、現実的なものの概念の含みであり、この「平均」は経験主義的平均でなく、したがって特異でないものの含みではなくて、反対に特定の生産様式の種差の概念の含みである、と理解しなければならない。

アルチュセール「理想的平均」と移行の諸形態について

この症例を、他の代表的な症例と比較して、問題の概念の普遍性を検証すべきではないのか。これらに対して弁証法は、こうした慎重で経験主義的な一般化によっては決して真の普遍性にはたどりつかないと反論する・・・いずれもが、各々の形でこの普遍性と闘い、ずらしており、したがって弁証法的分析の奥義は、普遍性「それ自体」の公式をそこから作れるような例外的な単一の事例を選び取ることにある。

ジジェク 以下繰り返し

デュルケームはやはり少し軟弱で、手続きの正しさの次元で問題を解決しようとする。これは実証主義であり、統計とおなじレベルだ。統計もいかに少しの汁でスープの味を知りうるかを競う手法である。マルクスおよびそれを引き継いだ二人の議論は、全体・普遍と部分・具体の関係自体を完全に転倒させる。具体から特殊性を蒸発させたものが普遍性になるのではなくて、普遍性の限界の徴候として具体性が現れるのである。

(2002年8月3日)

悪いのは奴だ

つんくさん悪くありません。

by 矢口 ANN

なんと徴候的な物言いであることよ。

(2002年8月3日)

★モームスに始まりモームスに終わる

(-2002/07/31)



戻る