重層的非決定

モーニング娘。
L. Althusser
No.11
2002/07/01-2001/07/31

★残暑厳しき八月

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雑草に埋もれるままに

いったい何を考えているのか。後藤、保田、モーニング娘。卒業のことだ。「卒業」の方針というか、一貫性が分からない。そうやってメンバー入れ替えていくのなら、もういっそのこと娘。自体解散すればいい。しかしそれは所詮ヲタの言い分でしかなくて、多少落ち目になろうとも事務所はしばらくは娘。にしがみつくしかないのだろう。しかしまた後藤は娘。とともに心中させるわけには行かないということか。では、保田はなんだ?中澤よろしくリストラ脱退?娘。には高い固定給支払わなければならないけれど、卒業させれば歩合給ですむ。新人入れればまた安い給料ですむ。ワークシェアリング。なるほど、合理的かもしれない。

それならそれで、飯田と安倍の立場はなんだ?後からきた人間が、自分から辞めるのはともかく、先に卒業では筋がとおらない。

もっとも原理主義的立場から見れば、オリメンが残っている限り、娘。の「本質」は健在だ、とはいえる。そしてまた飯田でなく保田を、また安倍でなく後藤を「卒業」させることにした事務所の論理とはそういうものだろうと思う。それはそれで筋かもしれないとも、頭では思う。

オリメン5人で発足したモーニング娘。いろいろあって保田が入り、後藤が入る。またいろいろあって後藤が抜け、保田が抜ける。そうしてなお残りつづける娘。は視点を外に置けば、人が入ってそして抜けていくただの通り道でしかない。もちろん「モーニング娘。」とははじめからそのような通り道ないしは器でしかないというのは、ある意味当然のことだ。

三段論法だ。一つ一つは受け入れられる上記の二つの「筋」から導き出される結論は、しかし原理主義者には受け入れがたい結論を導き出す。そうなのだ。モーニング娘。の「本質」たる安倍・飯田は、つまりはただの通り道でしかない、ということなのだ。道は廃れても、そこをとおった人は生きつづける。人がとおらなくなれば、道は朽ち果てるのみ。私は黙って雑草を抜こう。

(2002年7月31日)

好きなもの、嫌いなもの

しばらくNetscapeの最新バージョンのPR1を使用している。んー、使い勝手はOperaのほうが上かな。軽いのもOpera。安定度についてはOperaはいまいち、Netscapeはさしあたりはとても安定している。ただしNetscapeはもう少し使い込んでみないとなんともいえない。まあ、せっかくNetscapeが復活してきたわけだし、ちょっと応援したい感じなのだが、でもそれならOperaだって応援したい感じだしなあ。

ちなみにこのサイトを訪れる人のブラウザ使用率ではNetscapeは4.x、6.xをあわせればOperaに完勝。4.xが意外に根強い。でもあれはCSSの対応がひどいので、このサイトを見るには適していない。6.xへの移行が進んでいないのは、やっぱり重くなったからだろうか。そうはいっても4.xだって別に軽くもなかった気がするのだが。できればそろそろ6.x(7.x)に移行して欲しいなあ。

とまあ、そんなこんなでいずれかを切るにも忍びなく、当面デスクトップではNetscape、ノートではOperaと打倒IEへ向けて清き一票(二票?)を投じることにする。いかに微力であっても、これは一つの闘争なのだ。

そんなにIEを毛嫌いする心性が理解できない?そうそう私の志向をプロフィール代わりに書いておこう。私の嫌いなもの。巨人、石原慎太郎、読売新聞、AVEX、Ineternet ExplorerとOutlook Express、OfficeXP。なんだかんだ嫌いじゃないもの。大鵬、村山富市、朝日新聞、ゼティマ、Netscape4.x、Office95。最近気になること。辻と安倍の急接近。心配していること。加護の不調。というわけで私はIEが嫌いなのだ。

(2002年7月29日)

小人

件の東サンのサイトがなにやら更新されているみたいですな。えー、もうこの件、自分から関わるのはよそうかなと思っていたのですが、うー、なんというか、言いようのない内容を書いてはりまして、「一理あり」というような立場を取った私の立場が。。。まあ、私の立場なんてどうでもいいですけど。まずはKAOLU 4 Seasonsさんには余計な口出しをしたことを深くお詫び申し上げます。

だれかの執拗な批判をしていれば、必ず実名や経歴がバレる。上に記したように、僕は確かにオタクではないかもしれない。雑誌を主な活動の舞台にしているし、日記サイトなんて読んでいないように見えるかもしれない。でもそれでも、やはりいろいろ聞こえてくる。ときにはクローズドなMLや掲示板の情報まで伝わってくる。現在ネットで活動しており、今後、何らかの意味で物書きになりたいひとたちは、そういうことを覚悟しておくべきだと思う。

まあ東さんがどういう主張を持とうと別にいいんですけど、上の主張は私が前にした主張とは関係ないので、念のため。私が言っているのは、もちろん「物を書くなら、物書きとしておのれの書いたものに責任と誇りをもて」というだけのことで、実名だとか経歴だとかがばれるかばれないかなんていう下世話な話はしていませんので。というか東というお人は自分が「執拗」に批判されれば、その批判した相手に実生活上で責任を取らせる(具体的には「干す」とか?)つもりがある、ということなんですかね。

(2002年7月28日)

穴があったら埋め立てたい

Netscape7.0 PR1を試用。前のバージョン(6.x)よりずいぶん良くなっている。タブブラウザ化していたのもよかったが、それ以上に「履歴」機能がNetscape Navigator4.xと同等のものになっていたのがよかった。6.xではこの機能が4.xよりも貧弱になっていて、それも移行することのネックになっていた。もう一つのネック、「重さ」だが、PentiumIII1GHzのCPUなら特に問題はない。最初からこのレベルのが出ていれば、あるいは私がOperaに逃げることはなかったかもしれない。

もっともOperaも結構不安定で、割と落ちるので、もしかしたらまたNetscapeに戻るかもしれない。と書いていて、Operaがどうとか、Netscapeがどうとかいっても所詮その間でユーザを取り合いしているだけであって、IEのシェアとはぜんぜん無関係なのだろうな、と思う。IEユーザの大半はいわば思考停止状態に陥っていて、「他」という選択肢がそもそも存在していないだろう。

Netscapeの試用とともに、自分のサイトを再びチェックしてみた。しばらくサボっている間にずいぶん雑になっていた。タグの打ち込みミスが目立つ。ざっと修正する。またタグとは別にHTML4.01 「Transitional」と書くべきところを「Transitonal」と書いている個所があった。これも打ち間違いだが、かなり恥ずかしい。「HTML4.01Transitonal」で検索かけるとこのサイトが早々にヒットする。どう考えても恥ずかしすぎる。

(2002年7月28日)

私信だかなんだか

遅れてきた青年さんより

吉本隆明の「重層的非決定」というのを聞いたときに(実は引用されているのを読んだだけだったのですが)、それはフロイトの(ごめんなさいアルチュセールはまだ二冊しか読んでないんです)「重層決定」と何が違うのかと思い、どうして「非」 なんて付けなくてはいけないんだと感じた

いや、それが正しいんだとおもいます。アルチュセールだってもちろん精神分析の概念を借用してこの概念を使っているわけですから。

ちょっとだけ吉本を弁護しておくと、吉本はいわゆる「軽薄な」雑誌に登場してファッションについて物した。それにたいして埴谷雄高が、お前の愛でているファッションは「朝鮮戦争とヴェトナム戦争の血の上に『火事場泥棒』のボロ儲けを重ねた」結果なのだ(だからそんなものにかかずらう奴は左翼じゃない)、と批判した。それに対する再反論が件の文章なのです。

今からすれば、なんと馬鹿らしい、としか思われないとおもいます。しかし常に時代から10年以上遅れた妄想界を生きている私には、埴谷の言い分にある種の懐かしさ、あるいは己も陥りかねない危うさを覚えるし、それだけにまた吉本の反発にも、リアルなものとして共感してしまえるのです。

実際埴谷の言い分、その変形は今なお延々と反復されているように思えます。美少女アイドル文化は積年の女性蔑視の結果だ。地球環境の破壊、それはお前が今捨てた空き缶の結果だ、W杯韓国戦での誤審、それは韓国民の誤った民族性の結果だ。モーニング娘。の凋落は新垣加入の結果だ。こうした複雑な位相にあるものを直線的に結び付け、機械的な因果関係を設定する物言い、それは吉本の文章から20年近くたった今なお、依然として私たちが陥りかねない罠として存在しつづけているように思えるのです。

私信ついでに、KAOLU 4 Seasonsさん、えー叱責なんてしているつもりはないです。最初に書いたのは要するに東の言い分には一理あるが、それはまずお前に向けられるべきものじゃないか、といいたかっただけだったのです。2回目の貴サイトへの言及は、一応突っ込まれたのに対して、きちんと返答するのが礼儀と思った、ということで。でもまあ個人的な感想としては、東批判をする以上はいったん「仕切り直し」はいいんじゃないだろうか、とは思いました。

もう一つ返答するサイトがあるはずなのだが、そのサイトは自ら2chレベルだと公言しているようなので、発言した責任を負う気などさらさらなくて、そんなのにまともに返答しても、書いた文章消してトンズラする用意は万全みたいなので、リンクは貼らない。しかし逃げる用意は周到なくせに、自意識だけは過剰みたいでわざわざ「特定の誰かに言っているわけではありません」と書いてあるのに、自分のことだと思い込んでいるみたいだ。違うよ。まあ20分の一ぐらいは入っていた気はするが、東がらみで普段見ていなかったサイトを見たり、あるいは夏休みでガキどもがネットにしゃしゃり出てきたりするのを見てて思ったことを書いただけ。確かに文章読解力自体の問題もあるだろうが、自意識過剰も何とかしたほうがいい。

(2002年7月26日)

危険人物もといただのアホ

「重層的な非決定」とはどういうことを意味するのでしょう?平たくいえば「現在」の多層的に重なった文化と観念の様相に対して、どこかに重点をおくことを否定して、層ごとにおなじ重量で、非決定的に対応するということです。私はしばしばそれを『資本論』と『窓ぎわのトットちゃん』とをおなじ水準で、まったくおなじ文体と言語で論ずべきだという云い方で述べてきました。

吉本劉明「重層的な非決定へ」

吉本自身多分あまり科学論なんて意識していないと思います。ついでに私もあまり科学論は知りません。たぶん吉本が意識していたのはアルチュセールの「重層的決定」概念で、これがアルチュセールの意図とは別に「結局は経済・下部構造」というような広まり方をした。それに対する吉本の抵抗・警鐘としてこの概念があると理解しています。

破片はどれもこれも浅薄で取るにたりないものですし、核心というのもそれを寄せ集めたガラクタにしか視えないかもしれません。でもそれで「現在」が終わりだと思ったら間違うようにおもわれます。この浅薄でつまらない破片と、それを寄せ集めただけにみえる「現在」の核心に、何も意味があるものがないようにみえても、同時にこの無意味さの累層性の中に、究極のイメージが存在し、そこよりほかに、どんな究極を産出する場所も存在しないということです。

本当はこのあたりはアルチュセールの重層的決定と言っていることはそっくりだったりするのだが、当時の吉本からすれば「決定」という言葉遣いがスターリニズムの亡霊に見えたのかもしれない。

それはそれとして、オタク文化論などのサブカルチャー論は、己の属する文化がメジャーになったとき、内部分裂を起こす。一方では、「オレたちも社会に対する責任とやらを取ろう」とか言い出して、その下の世代を説教する動き。他方で、「主流に取り込まれたら、堕落だ」とか言って、どんどんと純化、先鋭化していく動き。宮台とか東が前者で、浅田が後者だろうか。浅田本人は否定するだろうが。そしてそんな争いを横目に、ただメジャーになった文化を消費する大多数のものたち。そしてこの多数派は両者から軽蔑されている。宮台からは教育の対象として、浅田からは*黙殺の対象*として。

私が中学生のころには既にアニメは十分にメジャーだった。高校になれば、ゲームも十二分に普及していた気がするが、被害妄想かもしれない。私はかれら(もちろん女の子も多数いた)の話題にはついていけなくて、ひたすら一人で天皇制打倒のプランを練っていた。そんな私は先鋭化していたのか、ただの時代遅れなのか?

(2002年7月25日)

ニッポンの未来は・・・

モーニング娘。の新曲、オリコンデイリーチャート三位らしい。一位は浜崎あゆみだという。浜崎あゆみ、前はどっちかというと好きなほうだったが、今はあまり。モーニング娘。が奴に負ける、というのがなんとも腹立たしい。

前に書いた速見のようなあほがしょうもない持ち上げ方をするのも大いなるマイナスで、何が自立だ、何が生き様だ、と毒づきたくもなる。歌詞が感動的?なんか聞いたことのある単語を適当にシャッフルしているだけじゃないか。自動浜崎風作詞プログラムなんて楽勝作れるんじゃないか?などなどはモーヲタの足掻きと読んでいただいて結構だ。

ただそれはそれとして、浜崎あゆみがどうというよりも、AVE糞には本当に我慢がならない。CCCDなんて糞盤出した時点で、論外なのだが、今度の島谷ひとみの新譜。失笑なんて物じゃない。なにが「亜麻色マキシ」だ。何がウクレレバージョンだ。そんなものを「新曲」として出すな。二匹目の土壌もここまであからさまにやられるといっそ気持ち良く、なんかなくて、ただただ腹立たしく、侮蔑に値する。

そもそも「シャンティ」に続く新曲は七月発売のNHKドラマの挿入歌のはずだった。ところがその前にたまたま「亜麻色」の一節を唄ったCMがヒットしたものだから、急遽それを新譜として出した。そこまではいい。しかしそれが望外のヒットとなるや、予定の新曲をカップリングにまわして、ウクレレバージョンだと。縮小再生産。前回ヒットのおこぼれあずかり。目先の小金にとらわれて、歌手島谷の新曲発表の機会を奪ったのだ。

もう一度いう。AVE糞め。いくらモーニング娘。の新曲が駄曲だろうが、AVE糞の浜崎に一位を取られるぐらいなら、この曲にとってもらいたかった。浜崎よりなっちのほうがかわいいし、浜崎より後藤のほうがかっこいい。浜崎より加護のほうがあざといし、浜崎より飯田のほうが宇宙との交信能力は高い。おまけに浜崎より辻のほうが太っている。何でそんなことがわからない輩がいるのだろう???

(2002年7月24日)

屈託オタク

遅れてきた青年さんより

「ヘーゲルもアイドルもガンダムも同列に語っていい」ってことくらい、80年代のはじめに宣言されたはずじゃなかったのでしょうか。浅田彰や高橋源一郎を真に受けちゃいけなかったんですか。

浅田彰かあ。私がまず頭に浮かぶのは吉本隆明なんだけど。って突っ込みを入れたくなるのは年代の問題なのか、なんなのか。

ちなみにいまやアイドルやアニメのほうがはるかに主流文化であって、ヘーゲルだなんだといっている奴のほうが気持ち悪いオタク扱いされる気がします。というか、アニメオタクの肩身の狭さ(屈託?)、というのがピンとこない。むしろガンダムなんかの話についていけないほうが肩身が狭かった。

そういえばウチのサイトって女性の読者、いるのかね。

(2002年7月23日)

ものを言うなら、ちゃんとやれ、とか

ネットは、曲がりなりにもパブリックな場なのであって、「嫌なら見なければいい」性質のものではもちろんないし、己が公開したものに関して、いかなる言及をされても、それ自体は甘んじて受けなければならない。それが嫌ならアクセス制限をかければよいだけのことだ。公開するだけしておいて、リンク貼られては困るだとか、批判は受け付けないだとか、誰それは見るなだとか論外である。そのような輩にそもそも己の思想を外部に発信する資格など存在していない。欲を言えば、一度UPした文章は、校正を除き、過度の修正は慎むべきだし、またその文章を黙って消し去るべきでもない、と思う。が、修正は私もしょっちゅうやっているので偉そうなことはいえない。

また妙なエクスキューズをされても困る。中学生だから、高校生だから、などというのは言い訳にならない。そんなのは読み手の知ったことではない。公開した以上は、一人前の書き手として扱われる。ガキだからと甘えられるのは学校の中だけで、そうしていたかったら学校のLANだけで公開していてくれればいい。だいたい小学生も杓子もネットを使って情報発信、なんてそもそも無理なのだ。いまや親が無節操に使わせているから、出て行けとはいえないまでも、精々「加護ちゃんかわいい」ぐらいの毒にも薬にもならない程度のことを書くところまでにしてもらいたいものだ。

別に特定の誰かに言っているわけではありません。

(2002年7月23日)

連絡事項

ちょっとした好奇心からこのページにもアクセス解析つけてます。

(2002年7月21日)

Do it now!

つくづく自分のパラノイア振りには疲れる。今回の件、要は「あれ、東さん変なこと言ってるなあ」と思っただけで、その変さを自分なりに言語化しようとして多くの時間を費やす。そしていつのまにか「バトル」みたいなのに参加してしまっていたりする。「バトル」といっても事実上一方向なので、何だが。どうにも筋がとおらない、と思ってしまうと、口に出さずにはおられない性格なのだ。

一方でハロモニなんてしっかり録画してまで見ていたりする。あ〜なっち、相変わらず自己中なお姫様(天使ともいう)やってるよ。またアンチから叩かれるんだろうなあ。見ている分には笑えるけれど、ああいうの許せない人には許せないのだろうなあ。

などなどいろいろ忙しくしていて(?)、ぜんぜん仕事がはかどらないよ。参った、参った。

もちろんただの愚痴です。自分のサイトだから、愚痴も自由に書く。愚痴ぐらい他に直接言うあいていないのか、という自問も愚痴だな。

(2002年7月21日)

補足2点

どうも「うかつ」な記述を連発している気がする。「うかつ」といえども、公開した以上はもちろん責任は負うけれども。

東の件、私は単に東の批判のやり方が筋がとおっていない、と思っただけで、それ以上に思い入れはない。だから関係サイトは東のサイト以外はリンクしなかったし、ほとんど東のサイトに書かれていた記述に対してだけ、コメントした。私は形式論の次元で東の批判は「なっていない」と思ったのであり、その具体的な背景などというのは考慮する必要さえないと思った。まずはこのことに関してもう少し補足をしておく。

例えば東は問題のサイトの書き手を「Y氏」と書いている、実はその時点で全く「批判」ということを公正に行う資質のない人間だということを自ら証明している。いったい東はなにに対して、誰に対して、批判を行っているのか。東が腹を立てた文章が書かれているサイトの書き手は「転叫院」であって、敬称をつけ、あるいは匿名にするのは勝手だが、どう考えても「T」氏であって、「Y」氏にはならない。まさか東は二人の間で交わされたらしいメールのやり取りを批判して、あの文章を書いたのではあるまい。サイトの文章に対する批判であるならば、その文章の書き手はその筆名において同定されるべきであって、それで十分なのである。逆に保田だろうが、吉澤だろうが、矢口だろうが、そういった本名などいきなり出されたところで、読み手一般には何の価値もない。なのに東はおそらくメールのやり取りをした際に知った本名から「Y」氏なる批判対象を作り上げた。この時点で東の批判対象が混乱しているのだ。単に己の私憤をウェブ上に公開しただけだと解釈されても致し方ないのだ。そんな人物に「ひとのことを批判したいのなら、ちゃんとやれ」などと説教を垂れられても、屁を垂れるしかあるまい。

それはさておき、私がうかつだったのは東が批判したもう一方のサイトの文章についての私の記述である。「公」と「私」の区分で書いたのはまずかった。言いたかったのは、事実関係をめぐって争いが生じるような場面で、一方的な事実認定に基づいて論評を書くのはまずいだろう、ということです。「東さんが『セーラームーン』をチャイルドアニメに分類した」らしいという不確かな前提でなされた批判は、その場限りでは「このような勘違いや勇み足はよくあることだし、何よりもSFセミナーはそのような放言込みでの場なので、そのこと自体は気にしていない」というように寛容に受け止めてもらえることはありえても、それを文章として公開する、となれば「らしい」では到底済まされないし、それをめぐってなされた議論の評価ももっと慎重に扱うべきだった。そして肝心の事実関係において東の主張を承認するしかないのであれば、それ以降の議論はすべて無効です。

「大人の常識」と書いただけであって、「ライターとしての大人の常識」とは書いていません。

以降の文章にどれほどの意味があるのでしょうか。ありもしない(とさしあたりは認めるしかない)事実をたてにした「常識」がないという主張は、「ライターとしての」が付こうが付くまいが端的に無効であり、無条件撤回するしかないと思います。

もう少し一般論としての感想を言えば、スケジュール表にでも書けるようなたぐいの行動(どのような趣旨の集会に出席した)や実際に文章として書いたものと、とっさのやり取りを含む口頭での議論とは等価だとは私は思いません。細かな状況はわかりませんが、有名人としてその場に出て、何とかやり込めてやろうという出席者の数々の突っ込みに揚げ足を取られないように正確に対応する、仮にそのような資質を東が持っていなかったとしても、それは何ら彼の傷にはならない、と私には思えるのです。

(2002年7月21日)

年齢

今日は院生主体の飲み会(ホームパーティ?)に参加してきた。土産にウィスキーと、昆布の煮つけを持っていったが、全く受けなかった。ビール、ワインに揚げ物やらパスタが人気。いいかげん私も年なのだ。オチはない。

(2002年7月19日)

つらつら

いろいろネット上の文章を読んでいて、なんとなく思ったのが、私はどうにも「社会批評家」ではない、ということだ。「いずれが社会を正しく言い当てているか」というような価値観は私は希薄だ、と思った。私は、社会はいかにあるべきか、あるいはいかにありうるか、それを政治的に、かつロジカルに読み解きたい。

(2002年7月19日)

妄想の世界からこんにちは

ネット上で東浩紀周辺が騒がしい。ネット上でもろもろ批判されたのに対して反論。具体的には2点あるようなのだが、大筋は同じで、要は「事情通」ぶった書き手が(東自身が書いたものを真正面から批判するとかいうのではなしに)、「噂話」の次元であれこれ批判がましいことを言うのに、腹を立てているようだ。

それ自体の趣旨には共感できる。表に出た作品ではなく、一部のものにしか知り得ない、それゆえ事実関係をめぐって水掛け論にもなりかねない部分での批判は不毛である。そして事実関係でいいかげんな部分があるのを、一方的にある事実認定に基づいて断罪する。物書き失格呼ばわりされる。反論するのももっともだとは思う。

しかし、東は二つの事例を同時に批判しているが、この二つ、ぜんぜん状況が違うだろう、と思う。一方は確かに不確かな「噂」の次元で、一方的に東を貶めるような効果を持っていると読める。そしてその限りで東の怒りは正当だと思った。しかし東がもっぱら腹を立てているらしい事例のほうは、東の批判はてんで的外れなのだ。

先日、島根・玉泉温泉で開かれたSF大会に行った。その深夜企画で新海誠氏の「ほしのこえ」上映イベントがあり、司会役を急遽頼まれたので引き受けたところ、早くもネットに「東浩紀は最近新海誠にすり寄っている」的な書き込みが現れた。

新海誠なる人(私は知らないんだけれど)と交流を持ったというのは、問題の書き込みをした人のサイトでもリンクが張られていたごとく、ネット上でも公表されている「事実」であって、もちろん東も否定していない。「事情通」も何も己の公的な活動ではないか。それについてコメントをすることのどこが「業界通」を演じていることになるのか。もちろん「擦り寄っている」という評価自体への反論はありだ。しかし評価されたこと自体は当たり前のこととして受け止めるのが当然ではないか。

東がこの一件に腹を立てているのは、この「書き込み」(掲示板ではなく自分のサイトに書いているのだからこの言葉遣いもへんだが)をした人がプロフィールに「東浩紀から原稿依頼を受けたが固辞した」と書いているところと連動しているようだ。これは事実関係からして「嘘」であり、この書き手はそうした「嘘」を書いてまで「業界通」「事情通」ぶって、その上で自分を中傷している。。。

それは違うでしょう。「原稿依頼」うんぬんの話は東の言い分だけを読んでも、解釈の相違ですむ話だ。ましてそのことを自身のプロフィールに「仰々しく」書くこと自体は何ら東に否定的な意味をもたらしてない。せいぜい東の「名」を利用して、己の箔付けをした、というぐらいの話だ。それがいけないことなのか?誰だって(もちろん東も含めて)少なからずそうやって来ているではないか。そしてそれとはまったく別のページで、先に書いたごとき皮肉を言うことのどこが「業界通」の「噂話」の類になるのか。

だいたい公表されていない(がゆえに事実関係は当事者以外には知りえない)私的なやり取りを暴露して、他人を貶めようとしているのは東のほうだ。

Y氏からは長いメールや評論が相次ぐようになり、文面を見るかぎり面倒なことになりそうな予感があった。

これでは「Y氏」はストーカーみたいじゃないか。誰もが確認可能な、己の公的な行動を皮肉っぽく評価されるのと、当事者しか知りえない個人的なやり取りを暴露して、その印象を勝手に語って相手を貶めるのと、どちらが「きちんとした批判」でないか、どちらが「噂話」のレベルの「内輪」の中傷かは明らかだ。

それにしても私は辺鄙なところにすんでおりますもので、東京のような中央なところにお住まいの方々は、「通」になるだけの事情とかがおありになって楽しそうだな。なんて書いているお前もずいぶんモーニング娘。の事情とか語っているではないか、どこにお住まいなのか、という突っ込みはもちろん、ありだ。そのときはにっこり笑ってこう答えよう。「はい、私は妄想界にすんでおります」。

(2002年7月18日)

症候の症候

ナチズムの吹き荒れた時代、真のナチズム信奉者などいなかった、とか。時代の、どこかしら荒んだ空気が、何かをきっかけに組織化されていく。そこに権力がうごめく。

別に狼少年になる気はないから、危機を煽る気はないけどね。単にそういう空気が嫌いなだけ。なんか世の中つまんねーから、ネットでお祭りでもするか。なんかろくな候補者いねーから、過激っぽい石原マンセーでもするか。なんかむかつくから新垣でも叩くか。そんなに己の「症候」見せ付けてくれるな。お前らは露出狂か。

(2002年7月17日)

マルクスだいすっき

テンションの高いときと低いときの差が激しい。躁鬱の徴候か?

ここのところアクセスが多いので、頑張って更新したい、という気はあるけれど、でもアクセスが増えているのって例によってYahooのマルクスからで、ここから来る人のほとんどが大学のおそらく経済学あたりのレポートねらいだったりするので、あまり「幸福な出会い」とはいえない。このサイトは現代社会理論におけるマルクスの可能性を提示しているつもりだが、その意味で十分マルクス主義サイトだと思っているが、資本論の要約を知りたい人の役には立たない。

それにしてもこうもいつもいつもレポート時期になるとアクセスが増えるというのは、日本の講壇マルクス主義の勢力いまだ衰えず、ということか。そんなにいるとは思えないのだけれど。ついでにその学生にとってはラディカルさの糞も感じられなくて、ただひたすらお勉強の対象というのも、マルクス先生のことを思うと涙が出る(嘘だけど)。

(2002年7月17日)

モームス妄想

頭が痛い。

この調子のまま8月半ばまでばたばたしつづけなければならないかと思うとかなりきつい。学生のころは今ごろはもう完全に休みモードだったからなあ。なんてこの年になって学生気分でいられるほうが間違っているというのは分かっているつもりだ。でも学生でなくても公教育関係者は学生時間のままだったりするしなあ。

こういうときにはどんどんモーニング娘。依存が強まる。妄想の世界に走るにはもってこいだ。もっとも妄想は妄想でも直接には性的な妄想ではない。個別のキャラに萌えるわけでもない。なにかしら「大きなストーリー」をでっち上げる。それが私の妄想だ。でもおそらくモーヲタはそういう妄想の仕方をする人が多いように思う。Yahooでも2chでもその手の妄想で満ち満ちている。

この2日は市井脱退・復帰について考えたりしていた。ふとしたことから、市井脱退周辺のあるエピソードを読んだのだ。それ自体はささいな、あるいはそれを報告するものの勘違いに過ぎないかもしれないエピソード。しかしそうしたつまらない事柄を少しずつつないでいくと、結構悲しいかもしれない状況が浮かび上がってくる。モーニング娘。の正史から糊塗された物語。その痕跡を残さんとする「少女」のささやかな、しかし凄まじい憎悪。

市井はコンサートツアーの途中で脱退を表明した。その表明をした日のコンサート、市井はあるユニットのダンス中、それを否定するメッセージを送りつづけていたという。両手をクロスさせて×印を、これ見よがしにファンに見せつける。一日三回の公演すべてで同じふるまいをしたというのだ。

ささやかなエピソード。しかも伝聞だ。事実かいなかなど分からない。しかしその周辺で起こった別のささやかな「事件」を積み上げていくと、一つのストーリーが浮かび上がってしまう。そのときのコンサートツアーから安倍なつみのソロ曲が突然曲目からはずされたという「事件」。安倍なつみ、そしてそのファンにとってあまりにも貴重なソロ曲だった。それが突然「封印」され、以後歌われることはない。

市井の脱退と安倍のソロ曲の封印。ばらばらの事象が、上のエピソードで悲しい形で結合される。もちろんゴシップネタに過ぎない話だ。しかしそのゴシップネタをそのときの市井がファンの前に痕跡として残そうとしたのなら、少しでもその声を聴きたいと思った。だからどうという話ではない。かりに何らかの事実性があったとしても市井があるいは憎悪を向けた相手をあしざまに思う話でもない。そしてそもそもおそらくは私の妄想だ。ただ妄想の世界の、あったかも知れぬもう一つの物語を、私は真実を含んだフィクションとして心に留め置く。

(2002年7月15日)

どくしょかんそうぶん

一応始末書も書いたところでおもむろに『動物化するポストモダン』の読後感をまとめておくことにしよう。一言で言うと東は宮台とともに経験主義的歴史主義とでも言うべき立場にいるように思う。時代区分論だ。

オタクのバリエーションを時代的な推移の中で語る。かつてのオタクはスノビズムであったが、今のオタクは動物化したのだ。こうした語りは一見、動態的なように見えて実は静態的な社会観である。時代区分論が軽視しているのは、時代はいつも常に移行期にある、ということだ。区分論は事後的な結果のみを語る。あたかも整然とした秩序がそこに既にあるかのごとく語る。

『遅れてきた青年』さんが展開している(微妙な言い回しだな、笑い)「厨房・ドキュソ」の対立は、まさに東・宮台の歴史が塗り隠した闘争を明るみに出すものである。「動物化」だとか「まったり生きる」だとかはその闘争の一側面だけを取り出してきて、それがあたかも安定したものであるかのごとく語っているにすぎない。そうしておいてオノレらだけはちゃっかりとその「上」で「大きな物語」なんかを得々と語っちゃうのだからいい気なものだ。

少し角度を変えて言おう。東は主体化を意識的な「決断」の次元で語る。そしてその主体化への呼びかけをする「大きな物語」も*既にある*可視的な存在であることを前提にする。ここで見落とされているのは、東自身の語りも含んだあらゆる語りが全体として「大きな物語」を形成しているという可能性、己の語りこそが「大きな物語」の*結果*あるいはその具体的装置であるという可能性である。「大きな物語」とは所詮そうした個別具体的な(そういいたければデータベース的な)語りの中にしか存在していないのである。

そして宮台も東も現に呼びかけつづけているではないか。「ブルセラ少女よ、オタクたちよ」。ブルセラ少女や動物化したオタクたちはまさにそうした「あなた」の欲望の相関物ではないか。ここにはまさに「他者の欲望を欲望する」というあの構造が反復されているではないか。

(2002年7月13日)

スノビズムとは

モニモニ、フラフラ〜

というので今話題の?きりりモニフラ味飲みました。ネットとかで聞く評判は最悪なのだけれど、うむ、なかなかおいしいではないか。ほんのりココナッツの香りがするあたり、よろしい。本当はリアル読書会の手土産に買っていったものだけど、延期になったので一人で飲む。残念。

(2002年7月13日)

始末書

なぜ「性器的な欲求」をオタクに、「主体的なセクシュアリティ」を実際的な性志向に割り振る議論ならば、理解可能なのか。この主張でも今なお「欲求」と「セクシュアリティ」の二元論に頼っているではないか、という突っ込みは当然ありうる。そしてまた、最終的には私はその突込みを東にはすべきであると思う。ただ私が最初に読んだ読み、オタクのアニメなどを通しての(例えば幼児性愛的な)性的関心はセクシュアリティの問題であり、現実の(性器的な)性衝動(そしてそのありうべき帰結としての性犯罪)とは無関係である、という主張とは全く質が異なるものなのである。

東の二元論はあくまでメタファーの次元においてのみ成立している。例えば同性愛が「性器的な欲求」を含んでいないはずがないし、逆にオタクがアニメなどを通して持つ性衝動が虚構的な次元を含んでいないはずがない。というよりも素朴な(そして私が最初にやってしまったごときアホな)理解からすればそのほうが自然である。それを承知で東はその関係を転倒して見せたのだ。つまり人間の抱く性的な関心がたぶんに虚構的・妄想的であるのを前提の上で、オタクの性衝動があたかも「動物」的であるというべき様式を備えている、それが東の主張だ。なんてえらそうなことを書いているが、こんなこといまさらここで解説して見せずとも普通にこの本読めば理解できることなので、いやはや手抜きここにきわまれり、ということだ。ちょっと(かなり)反省しています、です。

まあ、あまりこの本買って読みたくはなかったんですけどね。*みんな*読んでいるから。そんなもの読んだことがない、というほうがスノッブかなと思ったので。だったら余計な口出しするな、ということですね。

(2002年7月13日)

おのれは臣下か

Inter Communicationという雑誌の宮台真司のエッセイを立ち読みする。内容はどうということのない、多分妥当な記述。一点、おやと思ったのが地の文で宮台が「天皇陛下」と書いていた個所。ほお、こういう語のセンスをお持ちなんですねえ。いやらしい書き方だが、そういう書き方しかしようがない。

(2002年7月12日)

やっちゃった

9日の日記で東浩紀の『動物化するポストモダン』をねたにしたために、そうなれば読まねばなるまいと買ってくる。順番が逆だろう、という天の声が聞こえてくるが、無視する。

いろいろ細かいところで揚げ足を取りたくなる個所がある。ネットあたりの記述は、聞いてはいたが、かなり怪しい。しかしそれはそれとして、9日の日記で孫引きした個所、「やっちゃった(はあと)」。なんだ、意味が違うじゃん。180度意味を取り違えてたよ。私は言い訳の多い人間なので、いろいろ言いたいのだが、早い話、やっぱ孫引きは言語道断だということで。反省します。

私は件の個所

性器的な欲求と主体的なセクシュアリティは異なる

をオタクの持つセクシュアリティと具体的・現実的な性器的欲求とは違う、という文脈で読み、なにを馬鹿なことを、と思ったのだが、全く違っていた。東はオタクは性器的で、現実の小児性愛や同性愛、フェティシズムがセクシュアリティだと言っていたのね。それなら趣旨はわかる。なんだ、というか、そりゃまあさすがに東はそこまで無用心なことは言わないわな。

それはそれで突っ込みたいところも出てこないではないが、少なくともばっさり切り捨てるようなたぐいの話では全くない。そのあたりの話はまたいずれということで。いや、参りました。

(2002年7月12日)

人生とは

非常勤の一つの前期分が今日で終わる。先週やった小テスト(実質前期試験)の点数を学生に知らせ、不合格者に小レポートの課題と期日を知らせる。学生のできないのは教師の責任だから、こっちも汗をかくのだが、それでも最初から追加レポートねらいを公言する学生が多くて辟易する。試験勉強をせずにレポートをやるほうが楽だと思っているのだからがっくり来る。よほどめんどくさいレポートを出してやろうかとも思ったが、こっちも余計めんどくさくなるだけなので止める。

授業に全く出てこずに、試験だけ受けてほとんど白紙の答案を出した学生に、後期は来るに及ばず、と告げる。それを聞いていたほかの学生が小さな声で「厳し」とつぶやくのが聞こえる。何を言うか。こっちは親切心で言っているのだ。後期まで引っ張って単位取れなければそのほうがよほど可哀想じゃないか。

昼はロッテリアで海老バーガーなるものを食べる。おいしくない。別の仕事に顔出そうかとも思ったけれど、疲れていたのでそのまま帰宅。だらだらしていたら夕食の時間。何も作る意欲が湧かないので、インスタントの韓国冷麺を買う。素冷麺ではあまりなので一緒に鶏肉とチンゲンサイも買う。鶏肉とチンゲンサイは冷蔵庫にあったあまりものの焼肉タレと辛味を適当にぶち込んで炒める。冷麺の具にするつもりだったが、冷たいものの中に熱いものをぶち込むとぬるくなってかなり気持ち悪いことを思い出し、別のさらに盛る。結局冷麺は素冷麺のままだ。腹は膨れたがなんとなくひもじい気がする。

缶酎杯を2本あけてうとうとしながら中谷美紀の出ているドラマを見る。あんな糞男に振られたぐらいで中谷美紀が落ち込むかい!とドラマ相手に腹を立てる。

人生ってすばらしい
ほら 誰かと出会ったり恋をしてみたり
Ah すばらしい Ah 夢中で 笑ったり泣いたり出来る
(2002年7月11日)

働けども働けども、、、

明日終われば前期の成績も定まり、ちょっと一息がつける。もう息が絶え絶えなのだ。一息といっても7月後半からは別のお仕事が始まるので、そんなにはつけないが、一息は一息だ。バーチャル読書会のレスもしなければならない。一番ややこしいバトラーのヘーゲル理解に関する部分なので、ちょっと気合が入る。というか、この部分、まともに読める人がいなくてリアル読書会でも放置した部分なので、ここがチャンスと力が入る。

とにかく明日だ。明日だ。採点終わるぞ!と思って採点し続けると、「不合格」が多すぎるじゃん。このまま成績出せへんやん。追加レポートださなあかんやん。しかもクラスの半数やん。レポートの採点、まだまだせなあかんやん。なんか自分で自分の首をしめている気がしてきた。

(2002年7月10日)

音楽の聴き方III

ここのところモーニング娘。づいている。古い曲なんかを聞きなおしたりして、新曲と比較してみたりとか。かつての曲でどの曲が好きだったのか、どの曲があまり好きではなかったか、それと比べて新曲はどうか、など。あるいはネット上での評価をいろいろ読んでみたりする。

そうだ!We're ALIVEから遡った3曲。これらの曲への評価が意外に高いことを知った。他人の評価なんてどうでも良いといえばいいのだが、それでも自分が何故好きではなかったのか、はなんとなく振り返ってみたくはなった。

私は音楽ファンではないので、楽曲自体の評価とか好みとかはさしてない。歌詞だとかあるいは衣装、踊りなどを見て好みかそうでないかが決まる。

ザ☆ピース。この曲は最初は駄目だった。セーラー服で掛け声とともに行進してきて、「ピース、ピース」なんて虫唾が走る。でもPVで安倍なつみがやたらかわいかった。また石川のセリフの後、後藤と安倍がにゅーと前から出てくる様もすばらしく良かった。「なちごま最強!」。それで完全に改心。ザ☆ピース最高!軟弱なものだ。

Mr.Moonlight〜愛のビッグバンド。宝塚とかの歌劇の世界があまりなじめないので、この曲もいまいちだった。それでもこの曲は吉澤ひとみがすばらしかった。この曲は吉澤ひとみのためだけの曲であり、それで十分だと思った。だから曲がなじめなかろうが、安倍がおぼっちゃま君にしか見えなかろうが、そんなものは超越してこの曲には価値があった、と思っている。

そうだ!We're ALIVEはどうにも歌詞が悪かった。いきなり「努力!未来!A BEAUTIFUL STAR」と勇ましく拳突き上げて畳み込まれても逃げ出したくなる。その時点で駄目だった。

では娘。の曲で歌詞が好きだったのはなんだろう、と思うとほとんど思いつかない。そうか、私はつんくの作詞は駄目だったのだ、といまさらに気づく。歌詞など意識しなくてすめばそれで良いのだが、そうだ!はあまりに曲と歌詞がマッチしていて、それが私にはうざったく感じられたのだ。

そう思ってあらためて新曲の歌詞を読む。「Do it! Now あなたが持ってる未来行きの切符 夢は叶うよ 絶対叶うから」。なるほど駄目だ。というかこんな歌詞を何であのマイナー調の曲にあわせなければならないの?と思ったりもするが、要するにそれが良かったのだ。たとえばシャッフルユニットの「幸せですか」は同じマイナー調の曲で、なまじそれにあった歌詞であったが故に歌詞を聴いてしまい、萎えた。ところが今回の曲はいちいち歌詞の内容を理解しようとは思わない。それが救いなのだ。

(2002年7月10日)

オレは何様だ

こういう書き出し方をすると己の年を誇示しているようだが、「最近の学生」さんの間では東浩紀というのは相当に読まれているようだ。相当といっても、まあごく一部なんだけれど、ネットでかなりスノッブな学生さんがやっているサイトではしばしば見かける。それはいいんだけれど、さるサイトで(ここは言葉を濁そう)、うっかりだかなんだか授業のレポートが丸々UPされているのを読んだ。普通にUPされている文章なら引用して、どうこうもいえるがレポートはそういう類の文章ではないので、直接の言及はしない。ただ、へぇ、と思ったことがあるので、書き留めておく。東浩紀が引用・言及されていたことについてだ。

私が学部生のころは、浅田彰だった。少しもう「古い」ぐらいになっていたが(私はそれぐらいの世代です)、それでもスノッブな学生は大概は読んでいた。しかしレポートに引用したりはあまりしなかったんじゃないかな。すくなくともスノッブな学生はそれはしないのが「かっこよさ」だったはずだ。浅田彰は、こっそりと、読むものであって、あまり声を大きくはしないたぐいのものだった。だからレポートでも、『構造と力』を参考にしてもそれはひた隠しにして、そこで言及されている書き手を(翻訳で)読んで、引用してごまかしていたりしたものだ。

「権威主義」。そうなのだ。権威主義なのだ。しかし浅田彰やら東浩紀を引っ張ってくる時点で既に権威主義なのだから、それならそれを徹底したほうが、という感覚だった。

まあ、そういうのは感性の問題だから、どっちがどうということはないのだけれど、でもちょっと安直な使い方が目に付くことがあるのが気になる。ある概念をめぐって東浩紀なんか結構ジャーナリズム受けするために適当な説明していたりするわけで、それをそのまま信用してしまう、というのはとても恥ずかしいことのように、私には思えるのだ。たとえば、直接読んだわけではないが(『動物化するうんぬん』とかいう本は私は読んでいない)、東のセクシュアリティ概念の説明はかなり粗雑な(あるいは誤解を招きかねない)印象をもった。

性器的な欲求と主体的なセクシュアリティは異なる(孫引きです。ごめんなさい。「読まれ方」の問題だからまあ良いだろう)

こういう二分法こそ、セクシュアリティ概念が破棄しようとしてきたものだ。ラカンでもフーコーでもバトラーでも良いから直接読んだほうが絶対に良い。東の本は、どう好意的に見ても参考書であって、カンニングには良いが、直接言及するにはどうにも危うい気がしてならない。権威主義といわれようが、あまりわかりやすいものだけが受ける風潮に棹差すのがオタク・スノビズムであるとするなら、あえて権威主義にとどまるのも一興かと。

そういえば小沢健二(漢字あってる?)が『構造と力』を読んでいるとか公言してて失笑を買ったりしてた。

(2002年7月9日)

Doing アイドル!

下の文は「誤読」されるだろうな、と気づいた。まあ、誤読されてもいいんだけれど。浜崎あゆみが「作り物」であるというのは、たとえば宇多田ヒカルがそうである程度にそうだ、と言っているのであって、それ以外の意味はない。ロジックの次元である。さらに補足しておくと浜崎あゆみを「自立系」と引き合いに出したのは速見である。

ついでに私が松浦亜弥は浜崎あゆみ以上に自立しているというのもロジカルな次元においてである。松浦は自己言及の構造をもっている。「私はアイドルとして媚びます」というコメント(メタメッセージ)を常に己の行為に付し続けるのだ。この無限の自己言及のなかにロリコンも自立系も浸る「幻」の境界が浮かび上がるのだ。もちろんその「幻」の中に30(40?)女だって浸っているのだよ。思いっきり蛇足だけど。

(2002年7月8日)

楽な議論だけに縋る文壇無能度

速見由紀子という宮台と近しいフリーライターがAERAでモーヲタ論を書いていて、それがネット上でモーヲタの非難にさらされている。

暴走!悲しきロリコン族
心地よい嘘だけに縋るアイドルオタク度
「なっち」に「あやや」。アイドル美少女が増えつづける。「あたし、なんにもできなくって」という幼さの幻。「自立系は疲れる」という30代男たちが浸る不幸

という表題+ジャックでは憤激するものが出るのもやむをえないか。ただ趣旨自体はそれほど間違っているとも思わないのだ。作り物を作り物と知り、ハマる。カワイソウニ。この記事でかかれていることは単にそれだけのことだ。カワイソウかどうかは主観の問題だから、放置すれば、一応今のありきたりなオタク論の議論は踏まえているわけで、そう珍奇な物言いとも思わない。

もちろんいろいろケチを付け出せば止まらない。オタク系アイドルが幻なら「自立系」だって幻だろう。松浦亜弥が作り物である程度には浜崎あゆみも作り物だ。そして浜崎が「自立」している以上に松浦は自立し、堂々たる媚アイドルをこなしているというべきだ。またアイドル嗜好を「現実の恋愛」とやらと対比させているあたりも陳腐極まりない。最後のオチ「所詮消耗品としてしかロリコン系アイドルを愛せないところに、彼らの深い絶望があるのかも」には失笑。せめて「深い絶望」は「永遠の希望」と書き換えるべきだ。

とここまで書いて、なんだ、オレが憤激しているじゃないか、と気づく。まあ、べつに哀れに思われてもどうでもいいけど、これぐらいの浅い観察と分析程度がAREAクラスでは受けるんだろうな、というのも別にわかっていることでどうでもいいけど、この程度のが「社会科学」の冠をつけて流通したりするのは勘弁願いたい、とだけ思ったりする。ん?これって権威主義ですか?

(2002年7月8日)

音楽の聴き方II

採点、後半分ぐらい残っている。ふぅ。

HO〜ほら行こうぜ!そうだ!前進!

なるほど、モーニング娘。というのはそういうノリで聴く曲なのか。あまり励まされたくないタイプなので、ここ最近の娘。の曲はあまりピンとは来ていなかったのだが、お仕事をまじめにしている人にはそれなりにはまるかな、とか思ったり。

などということを考え出したのは、モーニング娘。の新曲を巡っていろいろ音楽評を読むと、これまでの曲に対して非常に積極的に評価している人が多いことにあらためて気づいたのだ。

モーニング娘。の曲は良かった。然るに今度の曲は駄曲だ。

なにがそれほど違うのか?これまでの曲、たとえばザ☆ピースでもMr.Moonlight〜愛のビッグバンドにしても、他に唄えるグループなり歌手なり、いないだろ?というのだ。確かにそういえばそうだ。ユニットとか後藤真希ソロとかの曲なら、誰が歌ってもいいような曲はあった。しかし娘。本体は案外そうだったかもしれない。もちろん人数の問題だ、という突っ込みもあるだろうが、それも含めて、好き嫌いはともかく娘。にしかない世界を作っていた、といわれればなんとなく納得してしまったのだ。そしてそれこそがいまの「J-Pop」にうんざりしている人たちにとってよりどころであった、と。確かにアレンジがなんだとか小難しいことを言われても良くわからないが、「娘。にしかない世界」と言われると、なるほどねえ、と思わされてしまった。そして今度の新曲は、確かにたとえばかつてのSpeedやあるいはまた島谷ひとみが歌っても十分歌える。あるいはそっちのほうがよいかもしれない。そんなのは娘。が歌うべき曲ではない。フム。

(2002年7月8日)

音楽の聴き方

七夕か。だからどうということもないが。

モーニング娘。の新曲を聴く。ついでにネットでいろいろ評を読む。概して悪い。なんだかアレンジとかいうものが平凡で駄目なのだそうだ。ふむ、なるほど。

といっても、ぜんぜんわからない。音楽的素養、全く持っていないし。まあ、あれだな、衣装を含めて、糞ダサさがモーニング娘。らしくて、わるくないんじゃない、という感じかな。「幸せですか?」をくさした手前、違いを言うなら、安倍がうたっているってことかな。それじゃあ、話にならないな。

(2002年7月7日)

蒸し暑い夏の納豆ひつまぶし

  1. アツアツのご飯にうなぎの蒲焼を細長く切ったものを混ぜ込みます。
  2. 山椒の実を振りかけます。
  3. このまま食べても結構ですが、これを冷蔵庫に入れずに一晩置きます。
  4. 翌日、好みの薬味を振りかけて食べると、ご飯が糸を引いて、独特の粘りが出て、味わい深いです。

最後まで食べたけれど、腹は下していない。

というか、どうでもいいけど、暑くていらいらする。何かスカッとすることないかねえ。

(2002年7月6日)

私はイデオロギー的だ

私はサヨクとしてここにいます

自分の行動規範はどこに根ざしているのか、ということをふと考える。たとえばここの日記。いろいろ書き散らしているようでいて、究極的に私が志向している方向性というものは存在しているのか、そしてそれはいかなるものなのか。モーニング娘。だなんだと書きながら、しかし昨日のようなことを書くと、私は自身の感性が、多くのほかのネット上の文章に比して、そうとうに「古い」のではないか、と思えてくる。そしてそのことを私は何ら否定的に考えていない。

こうした際の私の価値基準はなんだろう、と考えたのだ。私が一般的な価値として提示したいというのとはまた別の、私自身の規範である。他者に向けてではなく、自分にある問が向けられたとき、もっとも響くのはいかなる問なのか。「お前は真になになにであるのか」。お前はえらそうなことをいっているが、お前はそれに見合った存在なのか。

たとえば「お前は日本人ではない」と言われれば、「なぜか国籍はもっているが、あまりそうありたい、とは思っていない」と答えて、それでお終いである。また「お前は男らしくない」といわれれば、「そりゃ、ずっと女に生まれてきたかったと思ってたりするからなあ」と言うだけの話だ。「お前は社会学的ではない」と言われると多少むっときて「ではお前の思う社会学とはなんだ」と切り替えしたくなるが、それだけである。「お前の主張は左翼のそれではない」。どこがだ?あれこれ自省するよりない。一番堪えるような気がする。

私は左翼です。旧態依然とした左翼としてここにいます。

(2002年7月6日)

言語を超えた闘争

人間の剥き出しの悪意というものを見せ付けられるととても居たたまれない気がする。それが自分に向けられたものでなくても、だ。

W杯をきっかけにしてだろうか、ネットの掲示板たとえばYahoo!掲示板なんかを見ていると、その悪意の塊に出会って、薄ら寒くなる。なるほど、石原慎太郎が当選したりなんかするわけだ。

どういったらいいのか。大手マスコミの「偽善」的な主張に対するフラストレーションがたまっている、というのか。個々人が個々の状況に腹を立てたり、悪意を持ったりしているというのではなくて、たまりにたまっていたものが一気に噴出すような勢いを感じるのだ。

ああ、日本は貧しいんだ、と思う。別に「心が貧しい」というのではなくて、もっと物質的に貧しいのだ、という気がする。だからそれに対して「正しい知識」だとか「論理的なものの考え方」だとかを示しても、あるいは「隣人を大切に」のごとき倫理を振りかざしても、それが届くことはないだろう。この手の悪意はどこかしら言語を越えているのだ。差別問題教育やら大手マスコミの「正しい」報道が全く無力なのはそういうことだ。しかしこうした悪意にたいしては言語によって対抗せざるを得ないのもまた確かなのだ。戦場はどこか?悪意の吹き溜まる「物質」界か、それともその悪意が吹き出てきて組織される象徴的世界なのか。ジジェクとバトラーの対立はここにあるだろうし、また私たちがかれらを今読む意義もここに対する悩みを共感すればこそだと思う。

(2002年7月5日)

軟弱ヒッキーの生活

娘。ネタが続いているのは要するに忙しいからです。夏で暑くて、体力消耗しまくりなのに、忙しい。これが8月中旬まで続くのか、と思うとがっくりくる。なのに財布の中身がさして潤いそうもないのはもう一つがっくりくる。なんだかすごく率の悪い仕事をしている気がする、と書いて、今週は週休4日だ、と思い直して、悔い改める。

もちろん出かけたのが3日だというだけで、おうちでお仕事をしている、ということになっているので、主観的には本当に忙しいのです。そう、試験の採点もそうそうにやらねばならない。いろいろ義理を欠いている気がするけれど、そんな状況なのです。

(2002年7月4日)

うたばん

シャッフルユニットがうたばんに登場する。

やっぱりなっちは神だ、って見てない人には何のことだか分かりませんね。

曲自体は2回目で、少しなじんでくると、3曲の中で曲自体は一番ましなのはおとる11の「恐竜おんど」かな、とおもえてくる。一番駄作は問題なくセクシー8の「しあわせですか?」だろう。ただ、繰り返すが、おどる11がくそユニットなのはそんな楽曲の問題とは無関係である。もちろんメンバーが駄目だというのでも一切ない。単に多人数ユニットには「市井」の名がスティグマとして刻まれている、ということだ。

(2002年7月4日)

ハッピー7が二位は以外だ

「モーニング娘。ラカン」で検索をかけていたら、こんな文章に出会った。

「芸能人をそのような視点で見て」レポートを書きなさい、と課題を出す。するとレポートには「モーニング娘。(女性アイドルグループの名前)は絶対に男の視点を意識している」「宇多田ヒカルや浜崎あゆみ(どちらも女性アイドルの名前)は意識してないからかっこいいと思う」という意見が書かれ、本当に理解した学生は誰かがわかる。私としては浜崎あゆみは同世代の男女の視線を意識しており「かっこいい」だけで両者を同一視するのは誤りと思うが、「合っている・間違っている」という基準ではなく、授業で説明した「文化の捉え方・考え方」を理解して、うまく応用できているかどうかで採点することにしている。

えーと、この「意見」を書いた学生は「本当に理解した」方なのでしょうか。一瞬読みとれなかったがどうもそのように読める。2000年3月に書かれた文章ということを差し引いてもセンスが無いなあ、と思わざるを得ない。英文学の方の人らしいので仕方ないのかな。これって差別的な物言いですか。でもこのあたりは社会学系の人とセンスの差はあからさまに出てしまう気がする。もちろん英文学そのものは全然否定しないけれども、フェミニズムとか言い出すと概してダメだな。

もちろんモーニング娘。についてあれこれご託も並べたくなる。宇多田ヒカルも同じだ。要するにここの例でこの両者をおのおの男女の「視点」で割り振った時点で「センスがない」と言いたくなるが、それはこらえよう。問題はそれ以前にある。「なにがしは男の視点で描かれている」などという三〇年前のフェミニズム理論を大学で教えるのがちゃんちゃらおかしいのだ。もちろん学生のレベルというものがあるから、単純化して物事は教えねばならない、という事情は重々承知しているつもりだ。だからといって三〇年前の理論を教えていい理由にはならない。「そのような(かっこつき「フェミニズム」的)視点」で物事を見よ、などという指示を学生に出すのが決定的に愚劣なのだ。学生の脳味噌を三〇年分退行させてどうする。

およそ*対象*の側(アイドル、作品など)に受動的な視点(「男の視点を意識している」)を固定させてしまっては駄目なのだ。「モーニング娘。は男の視点を意識している」「松浦亜弥は男に媚びている」「夏目漱石の作品はブルジョワ的視点に貫かれている」「小林多喜二はアカだ」。その発想はあまりにも検閲的だ。あるいはそこまで言わずとも、そうした説明は学生の嗜好(宇多田ヒカルはかっこよくてモーニング娘。はださい)を後付的に正当化するための道具にしかならないのだ。

話は全く逆なのであって、もし「モーニング娘。は男社会に媚びている」と感じたのであれば、そのような視点を持つに至った己と対象との関係をこそ再考せねばならないのだ。誤解無きように言い添えるが、これは「自分のものの見方を変えよ」という類の指示とは何の関係もない。そうではなくて、*対象*と己(主体)との視線のやりとり、想像的関係の中にこそ、フェミニズムでも何でも「社会理論」が見るべき<対象>が存在しているということなのだ。

正直言うとあのような脳天気さで授業が出来たら楽だと思うし、その意味でははっきりやっかんでいるのだ、私は。差別問題教えるのも楽勝だし。「これこれって男の論理に貫かれているよね」「ほんとだあ、男女差別って世の中にあるんだね」(そりゃそうだ)。「これこれこんなひどい状況があるんですねえ」。「ほんとだあ、やっぱり差別って良くないよね」(そりゃそうだ)。

一つ「ヒント」を書いておくと、「意識していないからかっこいい」というのは端的に「嘘」なのだ。もちろん逆であって、学生の中では「かっこいい」という価値判断が先行しているはずなのだ。そうでなければ、その学生はあまりにも洗脳されやすすぎる。そんな後付的な理論を学んだだけで価値判断が変わるというのは。そしてそうである限り、その「かっこいい」という判断を締めの場所に置かせるのではなく、そこから出発するようにしなければならないのだ。

(2002年7月4日)

おどる11は最下位らしい

ふと思ったんだけれど、このサイト、モーニング娘。をダシに「現代思想」を語っているのか、「現代思想」をダシにモーニング娘。を語っているのか、どちらなのだろう。それが自分でも分からなくなってきた。前者だとして、モーニング娘。好きな「マジョリティ」の方々にオタッキーな「現代思想」を分かりやすく伝え得ているサイトなのだろうか。それにしては不親切にすぎるかも知れない。また、後者だ、というほどにはモーニング娘。を語れていない気がする。このサイトを読んで*新たに*モーニング娘。に関心を持つ人が出てくるなんて思えないし、というか、べつに関心を持つ人を増やしたいなんて全然思っていないし。

(2002年7月3日)

セクシー8が一位らしい

このサイトもたまに、ぼちぼちとモ娘。関係でくる方が出てきた。たぶんRead Me経由だと思うけれど。これを待っていたんだよ!後藤真希でモーニング娘。のファンになった方々のためにモーニング娘。の原基的歴史の、抑圧され埋葬された現実をテクストの表面に呼び戻してやること。これがこのサイトの使命なんだYO!嘘だけど。でも半分本当だけど。

それにしても、ここで書き続けているように、モーニング娘。ってのはエディプス<神話>の鮮やかな反復だと思うんだけど、ほかに同じようなことを言っている人っているのかしらん。えーと、いちいちチェックするの、めんどくさいので誰か結果教えてください。

(2002年7月3日)

なっち、微妙だよ〜

ネタを取り措いたりせずに書いたことはその日中にUPする、などとわざわざ書いたりしていたが、考えてみたら当たり前だったな。一応「日記」なのだから。あくまで、その日何を考え、なにを思いついたかを書き留めておくコーナーなのだった、ここは。

というわけで?MUSIXをみる。今年のシャッフルユニット、初めてまともにみる。去年同様多人数ユニットはくそだな。飯田もなっちも二年連続そのくそユニットに押し込められている。去年も石橋に「なっち、これやりたかったの〜」と突っ込まれても、ニコニコ「がんばりますよ〜」みたいなことをいってたりしたが、頑張るも何も<既に>結果は出てしまっている。このグループはいつもそうで、なにやら「頑張る」ことに意味があるかの装いを取るが、結果は常に<既に>決まっているのだ。飯田が涙した「モーニングコーヒー」のメインだって最初から安倍のものだったことだって誰だって<知っている>ことだ。

それでも最後に「今年のシャッフルユニット、どうですか?」と聞かれて、「なっち、微妙だよ〜」と現実界への通路をこじ開けてくれることをひそかに期待したりするのだ。

(2002年7月2日)

「きーめたっ!」

「決断」という概念が近年の社会状況、政治状況を語る上で、ときどき語られているようだ。「ようだ」とはまたずいぶん頼りない言い方だが、「偶発性・ヘゲモニー・普遍性」を読むまで私はあまり意識してこなかったのだ。また正直言って私はデリダ自身がどういう文脈でその概念を提示したのかも実はよく知らない。最初は違和感があったぐらいだ。デリダと「決断」。なんかそぐわない気がしたなあ。

で、その概念に対してバトラーは懐疑的、ラクラウとジジェクは重視しているようなのだが、問題はジジェクだ。ラクラウの「決断」概念の使い方は多分デリダのそれに近いように思える。ところがジジェクは全く意味を転倒させているように思える。決断を象徴的な行為の次元ではなくて、無意識的な、象徴界を支える、存在論に関わる、概念として提示しているように読める。決断とはある状況に対して行うものではなくて、ある状況を成立せしめる前提として<既に>存在しているものとして。これはもちろんデリダには全くそぐわない、明らかにラカン派らしい使い方だろう。

私が現実の快楽を断念したのではない。私という存在が現実の快楽を断念したものとしてそこにおかれているのである。そして私はつねに、既に決断したかのように扱われる。この<最初の無時間的選択>、それを「現実界」と呼ぶ。

(2002年7月2日)

★紫陽花匂う六月

(-2002/06/30)



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