重層的非決定

モーニング娘。
L. Althusser
No.3
2001/12/01-2001/12/14

★いよいよ年末

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機嫌がいいがゆえに荒れているかも

前に社会学会の項でくそめそにけなした報告のそのまたひどい方の報告者がその前の『現代思想』のブルデュー特集2001.2に書いていた。今ごろ気づく私も私である。そっちは、まあ初期ブルデューの研究に興味がある人からすればお勉強にはなりそうなものなので、別に文句はない(私は興味ないので面白くもないけど)。ただその号のほかの書き手を見て、あの部会の馴れ合いぶり、10年前の入門書レベルの議論を持ち上げあう、あの気味の悪さの正体が見えて、可笑しかった。あまり突っ込んで書くと差し障りありそうな気もするのでやめる。

(2001年12月14日)

怒り心頭

今日は決して悪い日ではなかった。

たしかに財布の中に唯一残っていた5千円札で、JRのプリペイドカードを2千円分買おうと思って券売機に入れたら、釣りのでない機械でキャンセルする間もなく強制的に5千円券を買わされ、たちまち無一文になってしまった、そんな日であった。JRには思う存分乗れてもバスには乗れず、帰り道に買い食いもできず、本屋でも立ち読みしかできない、そんな日であった。

それでも家に帰ってネットにつないでいろいろ見ていたら、私が結構ROMしているサイトにこのページへのリンクが張ってあるのを発見し、実はひそかにデザインとかパクってたのでやばいなあ、とか思いつつ、嬉しかったりして、そんな日であった。帰り道には色々、今日ここに書くネタも思いついていたりして、気分よく一日が終われそうな、そんな日であった。

一通の馬鹿メールがそんな一日を台無しにしてくれた。自分で最低限の義務も果たさず、自分の無能を人のせいにする輩。個別具体的にどこそこの説明がよく分からなかった、とかどこそこまで自分でいろいろ調べて考えてみたのだけど、どこそこから分からない、とか普通の人間が他人にものを尋ねる時ってそうするものじゃないのか?そういう最低限のルールも礼儀もわきまえない奴にまでモノを教えなきゃいけない場なのか、大学は?

例えばこんなメールだったら、良かった、ということだ。

今日の授業は難しくてついていけなかったです。。。今自分が何をやっているのか、途中で分からなくなってしまいました。来週の授業でもう一度復習に時間を取っていただけると助かるのですが。

そうすれば私もこんな返事を書くだろう。

ごめんなさい。特に最後ばたばたと説明してしまいましたね。他の人からもつらいよー、というメールいただいているので、次回もう一度やります。あと授業前にも私早い目に教室にいるので、個別的に質問してもらってもいいです。

その程度の気遣い、お互いにしたって罰あたらないんじゃないのか?いきなり授業を「無意味」呼ばわりされたら、普通教師は怒るだろう、と思わないのかね。あるいは確信犯か?なら結構だけど。

(2001年12月17日追記)

(2001年12月13日)

無駄な抵抗

メールでモーニング娘。ネタはちょっと分からん、といわれた。はたまた、今日読書会でモーニング娘。のはなしがちょっと出たが、モーニング娘。ってどんなん?って感じの人がいた。なんとなく、とりあえず有名なのだからそれなりに通じるだろうと思ってしまうが、もちろんそういうものではないのだ。

ふむ。少しアイドルネタで引っ張りすぎたかもしれない。同じ通じないのでも、たとえばクラシック音楽やらフランス映画やらその辺の話だったら、ついてこられないほうが悪い、と威張れるのだろうが、私は威張られる方だ。もちろんだからといって私が教養がないから、俗物だから、アイドルの話しかできないのだ、と思われるのも、正しいがそれだけに癪に障る気もする。一応このページの題名になっている元ネタを紹介して改めて正当化に努めることにしよう。

「重層的な非決定」とはどういうことを意味するのでしょう?平たくいえば「現在」の多層的に重なった文化と観念にたいして、どこかに重心を置くことを否定して、層ごとに同じ重量で、非決定的に対応するということです。私はしばしばそれを『資本論』と『窓際のトットちゃん』とをおなじ水準で、まったく同じ文体と言語で論ずべきだという云い方で述べてきました。

吉本隆明

ついでにジジェクによればベンヤミンも同じことを言っているらしいが、原典がわからないので、そのままジジェクの方を紹介しておく。

ベンヤミンは、生産的でしかも価値転倒的な理論的作業として、ある文化が生んだ最も高次元な精神的所産を、その同じ文化が生んだ平凡で散文的で通俗的な産物と一緒に読むことを推奨した。

S. Zizek, Looking Awry
んだそうな。

でもベンヤミン先生はやっぱり偉くて、「平凡で散文的で通俗的な」産物として引っ張ってくるのがカント大先生のテクストなんだそうな。結構面白いので、ついでということでこれも紹介しておく。

カントによる結婚の定義は道徳家たちを大いに憤慨させたが、その定義によると、結婚とは「性の異なる二人の成人がお互いの性器の使用に関して取り交わす契約」である。

確かに散文的であること、夥しい。カント大先生も結構面白い人なのだ。

閑話休題、ジジェクもベンヤミン先生に倣って「現代の大衆文化を具体例として取り上げながら、ジャック・ラカンの最も崇高な理論的モチーフを読んでみよう」というのだ。というわけで、吉本隆明、カント、ベンヤミン、ジジェク、これだけそろえれば、だれも私のこともただの俗物とは言うまい。


(2001年12月12日)

今は昔のアイドル話

おそらく通じるものがだれもいない話を前の話の延長で続ける。「モーたい」なる番組は、モーニング娘。がなんかいろいろなことをするというまとめにも何もなっていないが、本当にそうとしか言いようのない、毎週見ている人がいるとは思えないぐらいつまらない番組である。私も志村けんが登場する、というので、なんとなく見ていたのだ。そこで志村けんと、安倍なつみ、後藤真希との絡みを見ていて、件の「だいじょうぶだ」を思い出した。

安倍なつみが松本典子で、後藤真希が石野陽子なのだ。志村との絡み方がそうなのだ。とりあえず与えられた仕事は一生懸命まじめにこなす安倍、松本。時にやる気があるのか?というそぶりを見せる後藤、石野。しかし、安倍、松本は決してそこにはのめりこまない。あくまで仕事、義務であり、「己」はしっかり外部に保存している。それに対して、後藤、石野はその場に入り込んでいく。公私の別がそこにはなく、だからつまらないときは正しくつまらない顔をする。

「芸人」として後者をこそ愛するのは良く分かる気がする。その好みが見ていてあからさまで面白い。特に志村けんはそういう割り切りが一切できない人間に見える。だからといって「ケツを触る」ことでコミュニケーションを取る、というのはまったく別儀ではあるが。

ただ、それでも志村を「偉い」と思うのは、たとえばその番組中にきっちり安倍の頭を彼が「どつい」たことだ。私の知る限り、石橋もダウンタウンも安倍の頭は「どつい」てはいないと思う。そういうのを拒絶するような壁の高さを彼女がかもしているのだ。それでも志村は、仕事として、きっちり「どつい」てやり、安倍もきっちりそれに応えた。それが志村のプロとしての力量だ。そう、彼は「落ち目」の松本典子もそうして救ったのだ。


(2001年12月12日)

落ちも捻りも何もなく

くそ面白くもない話を書いておく。2回も破廉恥行為をしてつかまった田代まさしは無残というしかないが、しかし今更指摘するまでもなく、そもそもの問題は別にある。彼はかつて志村けんとコントをやっていて、志村の事を師匠と呼んでいた。その志村けんが、「モーたい」なる番組でセクハラを公然と肯定していた。別にこの番組において、ではなく、彼はいつもそうだ。彼のみならず、その世界ではそれが許されているのだ。田代のことは本質的にその延長上のことに過ぎない。マスコミは今は田代をたたくだろうが、志村の発言をなぜとがめないのか。


(補足)

私は志村けんを嫌いではない。彼の異性に対するナイーブさ、それはむしろ共感するものもあるぐらいだ。彼は自分の立場など、そのかぎりにおいて、省みる余裕すらないのだろうとも思う。

私は、かつて彼の番組「だいじょうぶだ〜」の視聴者だった。別に志村けんを見たかったわけでも、ましてや田代まさしを見たかったわけでもなく、ただ松本典子が好きだっただけだが、そのときも志村けんの異性への好み、扱いはあまりに無邪気にあからさまだった。後の本人たちがいずれも告白しているように、志村けんは同じ出演者の石野陽子を気に入っており、石野陽子もそれに応じていた。そして番組も次第にその二人の絡みがあからさまに前面に出るようになった。それは否定も肯定もできない(個人的には、コントとして、少し行き詰まっているように感じていた)。少なくとも松本典子は志村けんにはずっと感謝していたようだし、志村けんの方も彼女の「限界」を良くわきまえていたようだ(「あいつはけつをさわらせねーんだ」みたいな話はしていたように思う。そういう話をすること自体が、ということもいえるが、松本典子ファンとしてはなんとなく許してしまう)。ただ許せないのは、彼はそういう個人的な感情のやり取りを超えて、一般論としてセクハラを公然と肯定しつづけていることだ。それをしたとたん、彼の立場(お笑いの世界で多くのものを率いる立場)が公の場に出てきてしまい、彼の行為を真のセクハラにしてしまうのだ。


(2001年12月11日)

「予定説」

神の声

「労働は自由への道」であり、踊りは監獄への道であり、全ての道はローマに通じるのである。(イエーイ)


(2001年12月11日)

構築主義に関するテーゼ

1. 「社会問題の構築主義(厳格派のそれを含めて)」の主要な欠陥は、逸脱、社会問題がただクレイム申し立ての結果または定義の形式のもとでつかまれるだけで、<想像>的人間的活動、実践であるとは捉えられていないこと、<主体>的に捉えられていないことである。


(2001年12月11日)

Dance するのだ!

モーニング娘。の曲にそういうのがあるのだが、状況を少し変えてみるだけで結構恐い歌になる。

迷えるピエロどもよ、さあ踊れ!

ここに薔薇がある、さあ覗け!

構築主義にたたかれたラベリング論もあながち捨てたものではないのかもしれない。客観的な「逸脱」の基準などは確かに存在しないといってもいいかもしれないが、しかし「逸脱」者はそれを「逸脱<悪>」と知るがゆえにそれを行なうのである。その基準が客観的か否かなど、かれには何のかかわりもないことだ。重要なのは、かれは<悪>への跳躍を既に行なっており、その基準・規範をかれ自身が実践する、ということだ。そうして、果たしてかれは「逸脱」者になり、あるいは「逸脱」者として処分されるのだ。Congratulation!

それでもこの期に及んでなおこの歌は励ましつづけてくれる。定められた終着点にいたるまで。

まだ 長い長い人生を少し
駆け出したばかり(イエーイ)
AH 青春は 上り坂もあるさ

でも長い長い人生をきっと
自分色に染めて(イエーイ)
絶対にゴールするのだ・・・


(2001年12月11日)

Hic Rhodus, hic salta!

人間、いったん壊れだすととめどないものらしい。案外みな、ぎりぎりのところで踏みとどまっているものなのかもしれない。一線を超えると状況の方から誘いかけてくる。Hier tanze!


(2001年12月10日)

異端論争〜転向宣言

間違っていたのは私だった、わけでもないとは思うが、Netscape4.7のタグ解釈の方が特殊だったようだ。「本来」はいずれが正統だったかは問うても仕方がない。「正しさ」がはっきりしたのはNetscape6.0がIEと同じ解釈をするようになっていたからだ。ずっと4.7を使ってきて、そのようにページをデザインしてきたので、6.0以降の表示は好きになれなかった。その時点で、それがIEと同じである、ということに気がつかなかったのだ(IEのチェックがいかにおざなりであったか、という証明だ)。そしてOperaでも表示させてみて、いまや「正統」性がIE側(だと私が思っていた方)にあることがはっきりした。それを宣言したのはNetscape自身である。というので、本サイトもそちらに合わせることにした。ついでにCSSも用いることにした。これはOperaがalinkを解釈しないからである。

なんていってもべつにNetscape4でだって問題なく表示はできるのだし、たかがちょっとした見え方の違いだけなんだからどうでもいい話なのだけど。


(2001年12月10日)

疎外された一日

実は今採点の仕事を二つ抱えている。採点というのには変な時期なのだが、色々な都合でそうなっているのだ。さてテストの採点となると、自分が「される」側のときは、「する」側は気楽で、時に楽しいだろうな、などと思ったものだが、とんでもない。今になってみると、「される」側って気楽だよな、とさえ思う。特に憂鬱なのが、あまりうまくいかなかった授業のテストの採点。自分が伝えたかったことがまるで伝わらなかったという私への落第点をつけられるような気がするのだ。まさに「教育者自身が教育され」(Marx)、採点者自身が採点されるのである。

気乗りのしない仕事を抱えていると、余計なことをして現実逃避する、というのも良くある話だ。ご多分に漏れず私も暇つぶしとしか思えない作業をせっせとやっている。Operaが2バイトの空白を認識できないのなら、認識対象の方を変えるのみである。というわけで本サイトはOperaに正式?に対応した。どう対応したか知りたい方は(いるのか?)ソースを見てください。大したことはやってません。一斉置換でやっているのだが、他にも気になるタグの修正を行ったりしたので、結構時間を取ってしまった。


(2001年12月9日)

「ふゆのっ・おぺらっ・ぐらすで〜」

本サイトはIE6、Netscape Communicator4.7、Netscape6.2とLinuxのNC上で表示確認を行っている。IEとNCではとりわけテーブルタグの解釈が違っているようだ。一応私が使っているNCでデザインしているが、IEでもそれなりに意図どおりに表示されるようにしている(微妙に変なところがある)。ところがLinux上のNCは<Hn>タグの解釈がちょっと違っているみたいで、文字が大きくならない。タイトルに使っているので、そこが文字が小さい、というのはずいぶんバランスを欠く。フォントタグで文字の大きさを指定すべきなのだろうか。あるいはタイトルにはグラフィックを使うものかなあ、と思って、用意はしてあるのだが、画像を使わない、という方針を貫きたい気もする。これにはいまや積極的な理由はなくて、単にそういう制約をあえて課すのもいいかな、という程度の話だ。

さて、今第三のブラウザとしてOperaというのが出てきている。そうなればサイト開設者としては、チェックせねばなるまい、というので、ダウンロードする。言われているように、確かに軽い。それにMDIなので、あちこちのページを見ても、Windowがごちゃごちゃ開かず、タブ形式で管理できるのが良い。日本語版というのは特に今はないのだが、日本語表示もほぼ問題ない。「ほぼ」というのは、2バイトの空白は認識しないのがマイナス点で、段落のある文章は結構読みづらくなってしまうのだ。あと微妙なところでタグの解釈が違っているので、Indexのページはちょっと妙なことになる。一応許容範囲ではあるが、何か考えなければならないかも(考えました)。とりあえず、あまり気に入らなかったNetscape6よりはいい感じで、もう少し改良されれば寝返るかもしれない。

ところでこのOpera使い出してから、妙に頭の中を駆け巡る歌がある。時にあるのだ。別に好きでもない歌が、頭の中をめぐって思考の邪魔になることが。


(2001年12月9日)

社会「構築主義」と社会「批評」

少し前に書きかけた文章をこれを機会にUPしておく。


いわゆる構築主義は(「厳格派」は大分ニュアンスが変わるが)、世間で言われている常識=言説とは(空疎な)形式に過ぎないものである、と主張している。例えば性差、学歴等などは、実は内容がなく、空疎で恣意的なものなのだ、と。

マイヤーの正当化理論も基本的な枠組みは同じだと言ってよいだろう。ただもう一歩議論は進めていて、空疎な形式がなぜ、現実的社会関係において意味を持つのか、とまでは問う(そしてこの問は重要だ)。そしてその問に対して、マイヤーは形式の内容(神話としての「合理性」)で答える。そうして形式と実態の分離の根拠を説明しようとする。つまり形式と実態の分離は温存されたままで、人々の実態なき形式への信仰をシニカルに描くにとどまる。

ジジェクやバトラーといった社会批評はここでいわゆる構築主義(やマイヤー)と袂を分かつ。形式こそが重要なのだ。あるいは形式においてしか「現実」は存在しないのだ。だから実態(「王様は裸だ」)を暴くことには何の意味もない。「彼女を見ろ、なんと恥知らずな、服の下は全裸だ」。

人々は貨幣が紙切れであることを*知って*いる。たかが紙切れを人々があがめ、狂う様を笑うことに意味はない。そうではなくて、たかが紙切れが貨幣として現実の資本制社会を成り立たせ得ていること、その形式にこそ意味があるのだ。そしてその形式を作動させているロジックをたどり、その余剰、ずれ、「失敗」を紡ぎ出す中に、<社会(現実界Zizek、歴史Jameson)>を表出させよう、というのである。

逆に読めば、そうした「失敗」を取り繕うのが「サブテクスト」Jameson、「ハビトゥス」Bourdieuによる諸要素の「接合」Laclauである。形式とは、こうした諸要素の耐えざる書き直し作業の上に成り立っているものなのである。諸要素とはそうした書き換えの痕跡としてのみ、その姿をあらわす。こうした痕跡を言説の中からとりだし、その裂け目を解読していくことによって、「現実」を照射しようというのが社会「批評」だと言ってよいだろう。


(2001年12月8日)

「批評」とはなにか、を考えるためのテクスト色々

ついでに社会科学と文学批評との差異について論じた文章としてスピヴァックを引用しておこう。

歴史家は、サバルタンの呈示の場となってきた、反乱鎮圧もしくはジェンダー化のテクストに直面する。歴史家は、ジェンダー化されていようといなかろうと、サバルタンに新たな主体の位置を割り当てるために、テクストを解き明かす。

文学教師は、ジェンダー化されたサバルタンの呈示の場となってきた、気に入りのテクストに直面する。文学教師は、主体の位置の割り当てを目に見えるようにするために、テクストを解き明かす。

G. Spivak, In Other Worlds

さらに、ジジェクのベンヤミンについての言及の中に、「批評」に向かう方向性が読み取れる。その一部。

ベンヤミンにとって、革命は、連続的な歴史的進化の一部であるどころか、「静止」の瞬間である。そのとき連続は壊れ、それまでの歴史の組織構造、すなわち勝者による歴史記述は崩壊し、支配者側の<テクスト>の中では中身のない無意味な痕跡でしかなかった失敗した行為・しくじり・挫折した過去の全てが、革命の成功によって、遡及的に「救済」され、その意味を受け取る。

S. Zizek, The Sublime Object of Ideology

アメリカの文学・政治批評の親玉というべきフレドリック・ジェイムソン。

途切れることなくつづいている物語の様々な痕跡を追跡すること。この原基的歴史の、抑圧され埋葬された現実をテクストの表面に呼び戻してやること。これを行うときに、大いに役立つもの、そして無くてはならぬもの、それが政治的無意識の原理である。

F. Jameson, The Political Unconscious
(2001年12月8日)

徴候的読解としての批評

あるサイトのある文章を読んだのをきっかけに、「批評」Kritikについて考える。

私にとって「学」に対抗して「批評」をなした人物といえば何を置いてもマルクスであり、それだけに「批評」とは社会科学的なものだという感覚を持っている。しかし実際には「批評」的な社会学者というのはすぐ頭に浮かばない。そういえば私が最近面白いと思っている書き手、F. ジェイムソン、スピヴァック、バトラー、ことごとく文学畑の人だったか。ジジェクは分野が良く分からない人だけど。

それでもなお、社会科学の場にはとどまりたいと思う。「学」に対抗するのに、分野をずらす、というのは不十分だと思うからだ。どこまでも「学」のロジックに入り込んで、その内部からその空白点を見つけ出したい、と思う。批評というのはそういう作業なのだ。

少しずるしてアルチュセールを引用してごまかしておく。これ(マルクス、そしてアルチュセールのテクスト)こそが批評だ、という意味で。

古典派のテクストがいわないことをいうのはマルクスではないし、古典派の沈黙を開示する言説を外部から古典派のテクストに押し付けるために介入するのはマルクスではない。自分が沈黙していることをわれわれに言うのは、まさに古典派のテクスト自身である。古典派の沈黙は古典派自身の言葉である。

L. Althusser, Lire le Capital
(2001年12月8日)

一挙解決

懸案のFUNを見た。タンポポとプッチモニの新曲をまとめて聞くのは初めてだった。んー、タンポポにはちょっと酷だよなあ。もうちょっといい曲提供できなかったものだろうか。いや、音楽論とかそういう次元ではぜんぜん私、理解していないので、単に好みの問題と逃げるのだが、なんか退屈な曲なのだ。プッチモニのほうは、「L o v e lovely

保田」とかいうフレーズの部分が、踊りも含めて嫌いなのだが、さびの部分「ぴったりしたいクリスマス」は結構いい感じだと思う。好きでない部分も含めて、聞いててとりあえず飽きない。タンポポは好きも嫌いも、そもそもどこが聞き所か、よく分からなかった。誰か、音楽に詳しい方、こうやって聞け!というのがあればアドバイスください。

結局タンポポのクリスマスソングといえばいまだに「聖なる鐘」なんだなあ、と思う。それも悲しい話だ。


余談ながら皇太子の娘の名前「アイコ」になったそうだ(って私が書かずともみな知っているのだけれど)。あえてカタカナで書いたのはその筋の伝統に従ったのだが、でもこの名前、N年前の文学賞か何かを取った「アイコ16歳」を思い出させるな。16年後、だれかまた思い出す人はいるだろうか。どうでもいいけど。


(2001年12月7日)

「学者」ではなく大学教師の端くれとして

非常勤先のゼミで「大学教育の意義」みたいな話題になる。ゼミ開始当初は理想論に終始していた学生も最近はだんだん「実感」に即したことを言うようになってきた。大学なんてモラトリアム期間だ、大学卒業資格が欲しいのだ、大学教育自体の意義は良く分からない。そうなのだ。そういうものなのであり、それを教育社会学が「発見」したのだ。何で役に立たない(といわれている)のに大学は存続して、価値あるものとされているのだろう?そういう類の問題設定が、なにやらラディカルな響きを持った。

「おいおい」と突っ込みたくなるだろう。というか、私も学生にそういう感じの話をちょっとして、自分で自分に突っ込みを入れたくなった。おまえは教師なんだったら、そんなことを能天気に「発見」して喜んでいる暇があったら、そういう状況を少しでも打開すべきなんじゃないか。おまえは何のために雇われてそこにいるのだ?

そう、教育社会学者だって気づいているのだ。特に最近、学会でもいかに教育するか、ということが話題として取り上げられることが多くなった。では、旧来の大学における「知」に疑念を呈してきた教育社会学は、では何を教えればいいのか。

とりあえず3つに分けて整理できるだろう。旧来の「知」、中でも「教養」を復権させる道。社会的に求められている技術的知識を教える道。新たな価値の創造を目指す道。

なにやらこの三つが相互に対立しているかのごとき書きぶりだが、もちろん事実はそうではない。例えば最後の道を志向しようとしたその最初の段階で、前二つの矛盾に出会うことになるのだ。まずは学生の身になる話をしなければならず(それが大前提だ)、「技術」論から入るが、そこに終始していてはならじとすれば、議論の抽象度があがる。そのためには「教養」が必要となる。しかしそれでは学生が退屈するから、やはり身につけられる話をし・・・、の繰り返しなのだ。しかしその繰り返しの中にしか何も生まれないだろう、ということなのだ。

それでも、それがルーティン化しないように、おのれの理念をどこかに賭けていたい、とは思っている。たとえワープロ教室にとどまる授業であっても、テキストによる情報の共有の価値は何らかの形で伝えたいと思う(具体的にはワープロソフトの限界とHTMLの意義、とか)。それをしなければ町のパソコン教室と変わらないのだ。ゼミは絶対に形式的なディベートの練習には終わらせない。そうでなければ、弁論部と同じになってしまう(弁論部なるものに対する嫌悪感を読み取るのは自由である)。


(2001年12月6日)

「不敬」な方々

ニュースステーションで、天皇や皇太子の名前を知っているか、街の人々に聞いていた。みな天皇をなにやら敬っているらしいのだが、なのに名前を答えられない人が続出する。「不敬」な人たちである。私はすらすら出るんだがなあ。今の天皇は「アキヒト」、前の天皇は「ヒロヒト」、今の皇太子は「ナルヒト」、簡単じゃん。え、何でカタカナなんだって?さあ?

というか、この質問「サヨク」に聞いたら正解率、めちゃめちゃ高い事は確実だったりする。

と書いたら、この番組続きがあって、人を名前で呼ぶというのはその相手を見下している意味を持っていたのだ、と解説がつく。なるほど、やっぱり「不敬」なのは「サヨク」だった。そりゃそうだ。それでいいのだ。

一応補足しておくと、「見下している意味」を持ったというのは伝統社会内の話で、「サヨク」の側には本質的にそういう意図はない。広末涼子を「ヒロスエ」と呼ぶのと同じのりで「ヒロヒト」と呼んでいただけである(ちょっと嘘)。


(2001年12月6日)

機、熟さず

今日でジジェク「イデオロギーの崇高な対象」読書会が終わった。初めてジジェクを本屋で見つけたのはいつだったか、その時はマルクス、ラカンなどの名を出したジャックに引っかかって買っては見たが、なんとなく散漫な印象で読めなかった。その時すでにブームの真っ只中だったようで、どんどん新しい本が出版され、釣られてさらに買ったが、まだ読まなかった。その後ラカンの話を聞き(読んだのではない)、バトラーを読み、ようやくジジェクが私の理解の範囲内に入ってきたようだ。不思議なもので、初めてのとき、関心があったにもかかわらずまったく読めなかったのが、多少の迂回を経た今大変興味深く読める。ある本を読むには、その人なりの手順を追わないとまったく読めないものなのだ。

私はブルデューに出会うのが早すぎたのかもしれない。ブルデューは私の中で一方的に終わってしまった。「ハビトゥス」概念のナイーブさに苛立ち、あれやこれやと私なりに「脱構築」しようと頑張っていた。今でも社会学会でなされていたようなナイーブな解釈に出会うと私の作業はあながち無駄だったとは思わない。私は「ハビトゥス」を、身体の中に構造化された原因、すなわち「・・・→結果→原因→結果」の連鎖の一端ではなく、社会という「結果」の「不在の原因」と読み替えようとしていた。しかし方向が逆だったのだ、と今は思う。私の読み替えは、アルチュセールですでに終わっている。ブルデューがそれに付け加えたのは、その「不在の原因」の物質性・身体性であったはずだ。だからあえてハビトゥスの「実体性」について語らなければならなかったはずなのだ。


(2001年12月5日)

もてる/もてない

最近、他所の日記系のページをあちこち見ている。日本で個人サイトが数多く出てき始めた当初はそういう日記系というのは本当に個人的な生活をだらだらつづったものが多く、辟易したものだったが、最近は読んでいて面白いものが多い。それに一口に日記系といってもいろいろジャンルが分かれていて、それがきちんと確立しているらしい、ということも知った。内容によるジャンルはもちろん、書き方にもいろいろジャンルがあることを知った。

例えば「ネタ」系。自分の感情なり思想なりをまっとうに表現するのではなく、どこかに捻りなりおちなりを意識して書く場合にそうくくられるようだ。「批評」系。何らかの理論を駆使して一応マジメに、そしてかっこよげにかかれるサイト。「応援」系。自分の好きな「アーティスト」(アイドルを含む)と自分とのかかわりを思い入れたっぷりに書くサイト。などなど。

あるいは「もてる」系と「もてない」系という分け方があることを知った。そういうくくりがきちんと制度的にあるなんて想像もしていなかった。そのくくりでこのサイトを分類すると、言わずもがな、なのだろうか。。。しかしいろいろ見てまわったが、「もてる」系の日記サイトなんて見たことがない。というか、「もてる」系のサイトってそもそもどういう内容なのか、想像もつかない。だいたいネットに日記なんか公開している時点で「引きこもり」寸前であるわけで、大勢は決するのが当然だろう、と思うのだが、私が見てまわる基点になっているのが「ジジェク(アルチュセール)、モーニング娘。」で検索されたサイトなので、「モーニング娘。」が入っているという時点で、ずいぶん偏りがある、というべきなのかもしれない。といっても、では「もてる」系にはどんなキーワードを打てば行き着けるのかはこれまた想像もつかない。

「もてない」系の、私が発見した限りの最高峰は「テレクラ」の記録をつづったサイトである。宮台真司なんて足元にも及ばない(ご当人は宮台のファンらしいが)。「想い」が違いすぎるのである。非常に面白くつい引き込まれてしまうのだが、あまりに居たたまれなくなって、最後まで読みとおせなかった。


(2001年12月5日)

首が回らない

今日は朝、寝違えて、一日中首が回らなかった。体の一箇所が痛いだけで、思考力、集中力というのは落ちるものだ。というのが言い訳で、下の記事「存在論的、散種的」はずいぶん読み難い文章になってしまっていた。というので一度UPした文章ながら若干修正を加えています。文意自体は変わっていません。


(2001年12月4日)

「存在論的、散種的」(あるいは「性家族」)

引き続き、新宮ちゃん(まだ名はない、ようだ)がらみの話を続ける。たかが「ああ、見てみようか」と思っていた加護出演のFUNをつぶされたぐらいで、ここまで書く粘着質さというのに何かしら精神分析的な関心を持つ方はどうぞご存分に。分析結果、良ければメールで送ってください。面白ければここで披露させていただきます。

もちろんお互い些細なことなんだが、そんな些細なことで、テレビ番組占拠し、新聞の一面にのさばるのだから、こっちだっておおげさに騒ぎ立てたって罰はあたらないだろう。


夫婦の*間に*子どもが生まれる。それはその夫婦の子どもだ。そうして日本は世界に冠たる世襲王朝を保ってきたのだ。ああ偉大なり、大日本帝国。「本当か?」というのがジジェクの要約するデリダの問いだ。その血の一貫性の保証など、いったいどうして得られるというのだ。万世一系どこの馬の骨、というわけだ。

この子は本当は別の誰かの子どもではないのか?妻は別の男と寝たかもしれない。あるいは病院で取り違えをされたかもしれない。私の「血」は正しくこの子に受け継がれたのであろうか?こうした疑いを問いただせば、それは決して終わることはないだろう。ただしその問いは「正しい血の引継ぎ」という観念を前提としている問いである。ジジェクはこうした問いを強迫的不安だと指摘する。そしてデリダの問いはこうした「私」の不安を裏側から反復するものであり、それはデリダの意図とは逆に正しい「血」を実体化してしまっていることになるのではないだろうか、と問うのである。「正しい血筋」の物語にデリダはナイーブに反応しすぎたのだと言ってもよいかもしれない。

「私の血筋を引き継ぐのは私の子どもである」。これがアルチュセールの言う「誤認」→主体化のメカニズムである。そしてこの次元ではラカンと結論を同じくしているはずだ。「届いた先がその手紙のあて先だ」。ここでは「血」が受け継がれているとか、いやそうとは限らないとか、そういう問い自体が無効化されてしまっているのだ。実は臣下との不倫の子が天皇を継いだことがある、という事例を発掘したところで天皇制は揺らぎもしないだろう。天皇制の<秘密>は血の中にはなく、ただ儀礼・制度の中に存在しているのだ。「祈れ、さすれば汝は神を信じよう」。天皇に即位するものは天皇家の血筋を引き継いでいるのである。象徴的な形式の中にこそ秘密の全てはある

「しかし」、さらにアルチュセールは問う。「単に無駄になってしまう物質某があるではないか」。生まれてきた子どもは、起源(本当の種)はどうあれ、希少なものなのであって、その背後には他のさまざまな物質某が抑圧されているではないか。ただ物質某は、めでたく生まれし子どもを徴候として、その存在の痕跡を残すのみである。そうした「単に無駄になってしまう物質」をどう捉えたらよいのか。それこそがアルチュセールを悩ませつづけた問いであった。

ちなみに「物質某」はあとのデリダのように「精子」とおいてしまってもかまわないのだが、もう少し幅を持たせたほうがよいように思う。「痕跡を残すような身振りの物質性」をも含めるべきだろう。もちろんもはやここには天皇制の秘密は存在していない。ただその秘密を社会として実在させるメカニズムがここにある、かも知れない。少なくともそうしたメカニズムを視野に入れること、それがアルチュセールにとっての「唯物論」であったろう。

もう一度デリダに戻ろう。デリダとてやはり「物質」の問題を語っているはずだ。デリダ自身を知らないのでさらにずるして今度は東浩紀によれば、デリダは「種=精子(semen)を散蒔き、真理と家族とがよりかかる伝達経路の純粋性を撹乱すること」を狙っているのだという。なるほど、アルチュセールとデリダ、目の付け所は似ているのだ。ただ語りの方向が違っているんだな。デリダの発想はいわば「百人切り」。それに対してアルチュセールは「オナニスト」。ついでにラカンは「品行方正な」亭主。なんかはまりすぎてて嫌だなあ。私としてはオナニストの攪乱の可能性にかけたい、ってこれも結構嫌な展開だな。上野千鶴子は応援してくれるだろうか。


なんだ、わざわざ皇室を引き合いに出す話でもないじゃないか?いえ、かれらは日本で唯一公式に「世襲」という血と性に基づく地位を引き継がされた存在なのですから、しかもそれを踏まえて日本人民の象徴とされている(ちょっと嘘)のですから、日本でこの手の話をするときに第一に引き合いに出されるのは、憲法に規定された天皇制の精神にかなっているのです。


(2001年12月4日)

いいこといっぱい

どうでもいい話なのだが、目に入ってしまったので、一応。出産特番、視聴率低迷。通常番組のテレ東がトップだそうです。いい気味だろうって?いえいえ、別にそんな気はございません。ただテレ東さん、おめでとうございます、とだけ。ついでにこちらもご出産だそうで。心からお喜び申し上げます。


(2001年12月4日)

拝啓、総理府殿

このページ、前にも書いた通り「こっそり」アクセス統計を取っているのだが、前に総理府さまからのアクセスがあった。日本でいまだに革命運動やっている奴がいるかどうか、確認でもしている、とか考えるのは邪推か。もちろんそういう目的でこのサイトを見ていただいたって、それだけの覇気も能力もない安全牌であるということになるであろう。それでもここ数日の書き込みを見ずに去られたのはなんとなく残念。ただの現代思想オタクと思われるのも正解なだけにちょっと残念。って、いくらなんでも自意識過剰だな。だれもそんなところまでは見ていない、だろう。

後、統計には出ないが(トップページしか統計とってないので)、このページの読者も数名いらっしゃるような気がする。ありがとうございます。励みになります。


(2001年12月4日)

心からお喜び申し上げます。

というわけでまさに権力は具体的な身体を通して作動するのである。「天皇」が病気にでもなれば、その快癒を願わないのは、人(一般)の不幸をうれしがる奴となり、子どもの誕生を祝わない奴は人(一般)の幸福を喜ばない奴になる。「人民の代表」ならぬ「国民の象徴」が「国民」の代表として人一般の地位を占める。

「他人のガキの動静など知ったことか」という現実の人間を覆っているはずの行動規範(そうではない行動規範を持っている人はサンタクロースぐらいのものだろう)は、しかし表立っては口に出してはならない。たとえば年賀状に印刷されてきたガキの顔を見て、「かわいらしいお子さんですね」ぐらいのことを言わざるをえない。もちろんいわれたほうもそれが世辞であることを知っている。では「かわいらしい」はだれに向かっていっているのか。具体的なガキの親たる相手ではなく、「世間」と呼び習わされている大文字の<他者>である。それこそ「世間」並に生きる<われわれ>を産出する権力作用にほかならない。

そしてそうした大文字の<他者>への応答の集積こそがまさに「国民統合の象徴」としての「天皇制」なのである。

しかし改めて繰り返すが、「他人のガキなどどうなろうと知ったことではない」のである。それは価値選択の問題ではなく、事実の問題である。世辞はどこまで行っても世辞なのであって、そんなものに誠実さや利害や、さらにはおのれの実存などを賭けるというのは欺瞞である。「ガキ誕生」のニュースで見たい番組がつぶれれば不平不満をもらせばいい。もちろんガキかその親のファンなら仕方ない、歓喜の涙を流すのもよろしかろう。

題名は皮肉でもなんでもない。規範の反復の中に私だって生きている、というだけのことだ。「しゃしゃり出てくる」文化人どもと同程度の誠実さで、私はこの言葉を言っているのだ。


(2001年12月3日)

昔「非国民」、今「他人の不幸を願う奴」

意外なことに女だった。生まれるのは果たして男だった、となるだろうという説もあったのだが、まあ邪推だったな。

こうなれば女性天皇を認めるかどうか、と話はおそらく移っていかざるをえないのだろうが、そしてまた認めることになるだろう。私の意見は、というと、かつては反対だった。男女平等というけど、そんなのはよき平等じゃない、よき平等とは男も天皇につけないようにすることだ、ってずいぶん尖ってたものだ。

今は、それはそれで面白いかな、と思う。天皇主義者は、おそらく確率的に有意に性差別主義者であって、民族差別主義者であって、ついでに巨人ファンで・・・(最後は余分だが、でも多分これも有意だろう)。証拠は?そんな統計は見たことがないが、見なくても、こういうときになるとテレビにしゃしゃり出てくる「文化人」どものうそ臭い顔を見てれば、あるいは何かあれば「皇居」にかけつけ、日の丸を振っているオッサン、オバサンのなーんもものを考えてなさそうな顔を見てれば、そう確信できるだろう、という程度のものだ。要は自ら好んで思考停止状態に入る人間というのは、「世間の常識」の悪しき部分まで丸呑みにしたがる、ということだ。

だからそういう連中からすれば、女性天皇というだけでも、人によっては多少感情を揺るがされる人もいるはずで、まあ、その程度でもいいか、という話だ。ただどうせだったら、その子どもの名前、たとえば「心美」とか頭の悪そうな名前にして、より連中のショックの度合いを高めてくれれば、というのは期待するだけ無駄だな。一応言い添えておくと、別に頭の悪そうな名前を付けられたからといってその子が不幸になるということは一切ないはずだから、私に対して「新たな生命の将来の幸を願わない卑劣な奴」なんて言わないでね。


(2001年12月2日)

Logの整理

なんだかやたら書くことがあふれて、それはいいことなのかどうなのか良く分からない。鬱憤がたまっているという説もないでもない。

それとは別にこのページもずいぶん重くなってきた気がする。ダイアルアップで見に来てくださっている方がいれば、あるいはそれなりに不便を感じさせているかもしれない。画像を使っていない、といっても回線状況では表示に時間がかかるかもしれない。というわけで、ログを整理することにした。大分前に書いたものは別ページに分けた。それでもまだ重いかもしれない。近々さらに分けるかもしれない。


(2001年12月1日)

いわゆる一つの教育論

小浜の論考を読んだのをきっかけに、少し現在の学校を巡る状況を自分なりにつらつら考える。現在の教育の混乱の元凶として「戦後民主主義教育」の問題がある、という議論がある。有名どころでは「プロ教師の会」の議論である。そうした議論に少し納得できないものを感じる。戦後民主主義華やかなりしころ、それを何年代と捉えるか、の問題でもあるのだろうが、例えばその帰結として「全共闘」を考える、というのなら分かる。しかし「今」問題にされているたぐいのことは、例えば「1980年代はうまく行っていたのに、」というスパンの性質のものであり、その責を果たして「戦後民主主義」が負わねばならないのだろうか、というのが素朴な疑問なのである。生徒のエゴが肥大化している、確かに実際に生徒と対峙してみればそのように言うしかない状況で満ち満ちているであろう、というのは十分理解・共感可能である。しかし「生徒のエゴ」なるものを、現にかれらがそのように振舞う学校空間を離れて実在すると仮定するのがいま少し乱暴な気がしてならない。

小浜やそして「プロ教師の会」の認識の前提として、学校が「公」と「私」の錯綜する空間である、というのがある。その点に関しては私もまったく同意する。そしておおむね教師が「公」を担い、生徒の「私」性と対峙していくことになるということになるだろう。しかしその帰結として、学校空間が秩序付けられるためには、「生徒」が「公」的な意識を身に付けなければならないか、というとそこには飛躍があるように思うのだ。それは理念以前に、そもそもそんな「公」的な意識を見につけた生徒などが、戦後民主主義<以前>だったら存在しえたのだろうか、という疑問である。それは生徒などもともと未熟なガキだからだ、というだけのはなしではない。そもそも原理的な次元で、生徒は学校秩序を担う責務を持った存在などではありえず、単にその場の通過者として存在しているに過ぎないからだ。これは近代公教育という制度的枠組みからしてそうなのだ。それは「左」的に生徒は教育というサービスを享受する「お客」であるといってもかまわないし、「右」的に学校は有用な大人になるための通過点である、といっても同じことである。

例えば学校の秩序が解体して、大変な混乱状況に陥ったとして、生徒は自分たちが困る、とは捉ええても、その状況に対して他の誰かに対する責を問われることはないのである。教師はそうではない。学校秩序を運営していく責を、生徒に対して、親に対して、地域社会に対して、そして社会全体に対して、直接負っているのだ。この立場の違いは、いわばサービス提供者と受給者の立場の違いであって、「左」が言うような平等さなど原理的に存在しえないし、さりとて「右」が言うような徒弟的な心性を呼び込む必要すらない必然的なものである。

こうした立場の違いがある以上、教師と生徒がおのおの持つ意識にも不可避的に違いが生じてしまうのである。そしてそれはその一方を「公」、他方を「私」と名づけても大過ないようなそういう断絶である。

そうならば、いまことさらに問題になっている事態、「学級崩壊」に象徴される学校秩序そのものが成り立たなくなってきているのではないか、という教師のおそれはどのように解釈しうるだろうか。それは「立場の違い」というものがとりわけ生徒の側から認識されにくくなったということに由来するのではないか。先回の文脈で言えば、教師が生徒からエロスの対象として見られるのみならず、教師は自分たち生徒をエロスの対象としてみるであろう、とみなされてしまう、ということである。そうした変化は、戦後民主主義などというすでに古ぼけた「主体」的理念の責に帰す類のものだろうか。

生徒からすればもともと、多くの場合、教師とはうざったいものである。例えば授業からして、教師は元来人を面白がらせるプロではない以上、テレビでタレントの芸を見ているほうがよほど面白いのは当然である。そうした「私」的な価値判断で教師を見ていけば、生徒にとって教師などまったく取るにたらぬ存在でありながら、いっぱしに偉そうな命令を自らにしてくる存在なのである。それはまったく耐えがたいことだ。しかし、それでも学校が一定の秩序を持って存在してきたのは、教師の話がたとえつまらなく、その指示に従うのが噴飯モノに思えることがあるにしても、それでもなお、教師は教師なりの立場でそうせざるをえないこと、そうした立場をかれらなりに必死で遂行していることを、生徒(そしてその背後の親)が承認し、一定の共感と敬意を与えてきたからではなかったか。そうであればこそ、どんな駄目教師の授業でも、生徒間では散々悪口を言ったり、授業中内職したり、おしゃべりしたりして無視していてもなお、「教師が授業を行う」という最低限のみかけだけは保持させてやってはいなかったか。校内暴力で教師と対決するときでさえ、なお、「先公はしかじかの仕打ちをした」と告発する形で、生徒の側が期待する教師の「公」的行動を示していたのである。それは関係が破綻しているかに見えるそうした状況下でもなお、生徒−教師の関係を保持しようという歩み寄りの態度に相違ない。

今は、そうした集団的な校内暴力華やかなりしころとは違って、こうした教師の持つ立場性というものが生徒の側によって顧慮されることが非常に少なくなっている、といえるだろう。「いい先生」とは面白い先生であったり、成績が甘い先生であったり、話が合う先生であったりであって、自分たちの私的価値に教師が従うことを期待する。そうして教師までもが「私」化されてしまえば、集団教育は不可能になる。「学校」から「公」が無化されてしまえば、教師と生徒の「出会い」は街中での中年と若者の出会いに過ぎなくなる。それは大概の場合、まともな関係を築くことさえ難しい関係となるだろう。だからといって教師が生徒の「私」に介入しようとすれば、無限の「管理教育」に行き着くよりなくなるだろう。そしてそれは逆にますます教師の「公」性が生徒から見えなくなってしまうことにもなるだろう。校則をめぐる教師−生徒のやり取りが馴れ合い的ないたちごっこの様相を呈することがあるが、その時点ですでに教師の「権威」は無化されてしまっているのだ。

繰り返すが問題は生徒の内的な意識のあり方(エゴの肥大)などではなく、あるいは教師が個人として持つ能力の有無でもなく、高々(というべきだろう)生徒から見える教師なる存在の立場性の問題なのである。

さしあたり「有効」な対応として現にありうべきものをあげておこう。生徒の「私」に合わせつつ、微妙にそこからずれた形で生徒を掌握するというもの。先回の文脈で言い換えれば、生徒の持つエロスを自身に向けさせ、統御する、ということである。一般的に、今の「人気教師」とはそういうテクニックを用いているのではないかと思われる。ただしこれはかなり難しいテクニックであることも事実だ。一つ間違えれば、ただ生徒に媚を売るだけの存在になってしまうか、最悪セクハラと受け取られかねない危険性すらあるのだ。難しいのは、一見同じ土俵に立つようでいて、決して対称な関係になってはならない(エロスの対象ではあっても主体になってはいけない)という点である。

もう一つは非対称性を最初から前面に押し出すというやり方。生徒となれなれしい口は決して聞かないが、不思議に生徒から嫌われていない教師、というのが私のころはいて、そういうのを想定して書いているのだが、そして今でもそれなりの有効性を持っているように思えるのだが、どうだろう。

もちろんいずれも、教師自身の自己呈示の方法に「解決」の方途を求めている、という意味で、対処療法的なものにすぎず、まったく不十分なものにとどまらざるをえないのは確かである。本質的には教師−生徒の関係、さらには学校の存在様式そのものをより洗練された形で作り直さざるをえない、ということになるだろうと思う。それが教師と生徒の間に新たな境界線を引くような試みであるべきなのか、それともそうした明確な境界なしに、管理を可能にするようなシステムを構想するのか、その方途はいまだ見えない。

いずれにせよ問題は、敗戦後、旧来の教師−生徒関係のシステムが「戦後民主主義」に取って代わり、相当までうまくいっていたが、それもいよいよ古ぼけてきて、うまく機能しなくなった、というだけのはなしなのではないだろうか。

(2001年12月1日)

「つがい幻想」というのだそうだ

「何年恋を休んでいますか」というドラマを見ている。黒木瞳や飯島直子が結構良くて、小泉今日子がだいぶふけてて、山口祐一郎が飄々としていて、中村トオルが結構情けないドラマなのだが、そしてそれなりに面白いのだが、根本的なところで「不倫」をテーマにしているというのが今更感がある。それこそ、恋は恋、家族は家族、で何があかんのん?、と聞きたくなるのだ。なんて書くと何か私がすごい遊び人みたいだな。もちろんそうではなくて、単に将来的な家族のあり方のモデルの話をしているのだ。

(2001年12月1日)

★サイトの再建から社会学会参加ほか

(-2001/11/30)



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