重層的非決定

モーニング娘。
L. Althusser
No.2
2001/8/21-2001/11/30

★師走に入る

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FUN見るつもりだったのに

権力はまさに個人の身体を通じて作動する。たとえばもうすぐ子どもが生まれるというありきたりの女性の身体を通じて、だ。


(2001年11月30日)

汝何をおそれるか

前に「金八先生」が「性」の問題から逃げていて(「性教育」の問題ではない)、駄目だ、と書いたが、その続き。小浜逸郎『症状としての学校言説』のなかに非常に鋭い論考がある。今更のようにも思われようが、ジジェクが流行っている「今」、改めて読み直すと以前にまして面白い。

もともと、スカート丈は地上何センチ、前髪が目にかかってはいけないなどという細目は、それ自体としては何の根拠も持っていない。

「校則が示すスカートの丈、髪の長さ、靴下のワンポイントなどの微細な項目に対する牽制の『衝動』は、すべて性的なものの表面化に対する『おそれ』を表現しているのだといってよい」

小浜がどの程度ラカンを意識してこうした文を書いたのかは定かではないが、題名といい(「症状」)「おそれ」という言葉遣いといい、性への着目といい、完全に「はまっている」。ちなみにこうした校則とラカンの「欲望のグラフ」の図式とが「はまる」ものであることを教えてくれたのは、一緒にジジェクを読んでいる読書会のメンバーの一人である。と、それはさておき。

多数の生徒と対峙する教師の持つ「おそれ」とは、直接的にはかつてなら校内暴力、今なら学級崩壊に代表される秩序の解体であり、それは職業人としての教師にとってはすぐれて現実的な「おそれ」に他ならない。そしてそのおそれゆえに教師は校則によって定められた秩序の中に生徒を囲い込もうとする。いったんたがが外れると、秩序はとめどなく解体されてしまうだろう。繰り返すが、こうしたおそれは被害妄想とか呼ぶべきものではなく、実際的な経験に根ざしたそれ自体としては十分な根拠を持つものである。事実問題として、多数の人間を一定時間、掌握しつづける、というのはある意味奇跡に近い話なのだ。ましてや相手は「こちら」の職業的な責務などとは無縁のガキなのである。

ところがそうした現実的なおそれと、現実の校則の細目との間には何のつながりもない。「なぜそんな校則があるの?」という問いに(生徒の側の理屈・都合はもちろん)教室運営をするという教師の側から見てさえ何の合理性も根拠も説明できないものがいくらでも存在している。「規則なんだから守りなさい」という多くの教師が繰り返すであろう「回答」が何の回答にもなっていないトートロジーであることに、当の教師自身も気づかないはずがない。にもかかわらずかれらはそうした回答を反復しつづける。

この両者の断絶の真空地帯に存在しているのが「性」へのおそれなのだ。そしてそれは生徒が「私」的存在として「性」を学校空間に持ち込むおそれであるように見える。生徒が性化することに対する警戒こそがトートロジカルな校則論議の<原因>なのだ、と。こうした<原因>としてのおそれは、小浜が同書で指摘しているがごとく、学校という空間が「公」と「私」が交錯する場である、ということに関連しているのは確かだ。教師は公的な学校秩序を守るべく、「性」をおそれるのだ。

より一般的にいって、「公」(パブリック)的存在は「性」から逃れたものとして意味付けられてきた、とは言えるだろう。しかしこれは「性」が公的空間から排除されてきた、と言っているわけではない。そうではなくて、「性」との関係の中に「公」的存在・振る舞いが定義づけられるということだ(cf. Sedgwick)。例えば企業人オヤジは仕事の相手が「性」的存在であることを嫌う(女性、ホモセクシュアル排除)。「こうして<私>は規律正しく仕事をしている」。そしてかかる性的な存在は「私」(プライベート)に割り振られなければならない。そうであればこそセクハラ行為は職業的な権力の乱用ではなく、私的な行為として彼らには映るのだ。「彼氏が触っても文句いわないくせに」。そのかぎりにおいて「<私>は規律を破ってはいない」。

教師は学校においては「公」的な存在でなければならない。これは外的な規律というのではなく、自らの存在の問題として、そうなのだ。もちろん「私」的には生徒を性の対象としてみる教師がいることは当然ありうべきことなのだが、「職業人」としてはかれらは「性的主体」から脱さなければならない。「そうでなければ<私>は「プロ」ではない」。一方で、生徒から性(エロス)の対象としてみられることは厭わない、あるいはうまく利用してもそれはかまわない。エロ教師であっては困るが、エロスの対象たるカリスマ教師であることはむしろ喜ばしいことなのだ。

つまり教師の持つ「性」へのおそれとは、生徒が性的な関心を持つことではなく、教師自らが性的な関心を持つとされることへのおそれなのである。だから教師の欲望の対象の位置にいる生徒は、その場からずらされるべく徹底的に非性的なみかけをしていなければならない。ここにこそとりわけスカートのすその長さに関する教師の「過剰」な取り組み、校則論議のトートロジーの根拠が存在しているのだ。

この点で私は小浜と結論をたがえる。小浜は生徒の性的主体化に対するおそれを第一義に考える。しかし生徒の性的主体化が反秩序的意味を持つという主張は、彼自身が論じている「部活封建主義」現象(エロス的な先輩後輩関係)と矛盾をきたしている。「性的主体」が秩序を混乱、解体に導く、というのはいささかナイーブな議論にすぎるというべきであろう(cf. Foucault)。

慌てて言い添えるが、教師はそうして自らの不埒な欲望を取り繕っているのだ、といっているのではない。そうではなくて、教師が性的な主体とされてしまう=「プロ」ではなくなってしまう、それがまさに教師にとって職業の場としての学校秩序の解体そのものなのである。このことは、教師と生徒の立場が最も効果的に逆転する場面の一つを思い起こせば納得できるだろう。それは教師−生徒の一対一の指導中に、生徒が突然「先生にセクハラされた」と叫ぶ場面である。


(2001年11月30日)

何に腹を立てているのでしょう?

ネットは基本的に自己責任の世界である。自分が積極的にやったことに対する責任はもちろん、自分がやらなかったこと、おのれの不注意の責任も問われる。基本的には自動車を運転するのとかと同質だと思うべきだ。だから自分で何も考えず、何の責任も取らず、ただただ受身なだけの人間が使うべきツールではないのだ。「難しいことは良く分からない」のなら使ってはならない。

なにが腹が立つといって、自分で吸収しようともしないで、「難しいことは良く分からない」とおのれの無能に開き直る輩。無能な奴はネットなど使うな。それで終わりでいいのに、そんな奴にまで無理に使わせようとするから話がややこしくなる。敷居をむげに高くする必要はないが、なに別に特殊な能力を要求しているわけではない、単に自分の無能に甘えさえしなければいいだけのことだ。

一応フォローというか。上の「輩」は非常勤先の学生さんのことではありません、念の為。(11/29 追記)



(2001年11月27日)

たまには取り留めのない話でも

だれが見ているとも知れないこのページ。あまりに張り合いがないので、どこかに登録してみようかと思い立つ。テキスト・エッセイ系のリンク集をぱらぱらと見てみるが、さて、そういうところに登録するものだろうか。あまりに内容が偏りすぎているのだ。これ見よがしに専門用語が出てきてしまっているわけで、さすがにそれはまずいだろうと思う。やはり例えばモーニング娘。アルチュセール語れなければならない、と強く思う。このあたりの技がジジェクはさすがだ。

結局リンク依頼する当てもなく、読者対象をつかめないまま。それでもこのページを更新しだすようになって、ただ街を歩いているときでも、そのときに感じるさまざまな思いを文章で考えるようになった。かつてはずっとそうだった。取るにたらぬさまざまな感情を、いちいち頭の中で文章化していた。いつしかそうすることもなくなり、去来するさまざまな思いを対象化することもなく、垂れ流すようになっていた。

実際に文字にするとは限らない、ましてや誰かに見せるわけでもない、そうした文章化の作業は、もの書きの端くれとして重要なことだ。そのごく一部をここにUPしようと思うだけで、その作業にずいぶん弾みがつくようだ。ノートPCもまた持ち歩くようになった。


(2001年11月27日)

個別的な議論と具体的な議論

学会二日目。エスノメソドロジー関係2本と「記憶(歴史)」関係2本の部会に出る(あと一本あったが私の関心の対象外)。奇妙な取り合わせで話は全然かみ合わないのだが、私は幸い両者に感心がある。

エスノ。いずれもH.サックスの方法論の原点に戻ってエスノを考え直そうという趣旨。一方は理論的な整理に終始し、もう一方は事例(会話分析)を出す。前者は趣旨は分かる、が単に整理しかしていないので、しかもその整理に新味がないので、入門書レベル。学会報告でやられても困る。後者は、いわゆる会話分析。どこに「サックス」の方法論をことさらに強調する意味があったのか読みとれなかった。こちらは私の理解レベルの問題かもしれない。

サックスの方法論自体は、たとえば私の関心に引きつけて言えば秩序問題においてアルチュセールの構造的因果性にもつながるものを持っているし、それを「会話」でやろうというのは大変おもしろいと思っている。しかしサックス<以降>、サックスの持っていた可能性になにを付け加えていこうとしているのか、全然見えない。単にサックスの理論に当てはまる個別事例の数を増やしているだけに見える。もはや学派として確立したから、それでいいのかもしれない。それならどうぞご勝手に、というしかないが、サックスのためにそれを惜しむ。

記憶。一方は歴史構築主義的な隆盛に対して、「生きられた経験」を対置しようとする議論。構築主義から相対主義への流れが、歴史修正主義をも許す土壌になっていることを危惧し、再び「歴史」の根拠を見いだそうという試み。「生きられた経験」の物象化をいかに回避するかに理論の力点が置かれることになるだろう。そうした課題の方向性自体は共感できる。ただ未だ試論にとどまっていて、積極的なモデルが提示されているわけではなかった。今後に期待?

もう一方はアルヴァックスの「集合的記憶」論を手がかりに、上と同様に歴史相対主義を克服しようという試み。こちらは個人的記憶を複数の集合的記憶の相互作用の<徴候>であるとする。こうして個人の記憶から複数の(相対立する)集団的記憶を、さらにその相互関係とその可能性を見通す手がかりが与えられることになる。晦渋な概念を使わず、実に*具体的(個別的な事例を紹介しているという意味ではない)に*構造的因果性に相当する議論を展開している。相対主義に陥らず、さりとて(否定)神学にも陥らざる可能性を見せてくれる。

「記憶」概念についてエスノ系からなにやらけちが付いていたようだが、「記憶」概念が気に入らなければ当世風に「言説」と言い換えてもモデル自体は維持されるだろう。エスノもいい加減かかる一点豪華主義を脱して、「秩序」問題に真っ正面から取り組んでもらいたいものだ。


(2001年11月25日)

「果たしてその通りであった」

およそ報告・論文というのは、以下の四つに分類できる。1. わかりやすく、内容に意外性があるもの。2.なにを言ってるのかよく分からないが、内容に意外性がありげなもの、3.わかりやすく、当たり前のことを言っているもの、4.なにが言いたいのかさっぱり分からないもの。そして私の好みはこの順番で並ぶ。人によっては2と3が入れ替わるかもしれない。

およそ学会報告において1.に行き当たることは、ほとんどない。2.4.はたまにはある。ほとんどが3.であり、要するに学会というのはそういう「当たり前」の言説の反復の場であり、その確認の場なのだ。

今回の社会学会。ブルデュー関係の部会に出る。「再生産」を<再読>するという報告。<再読>とは読み直しを含意するものだと思っていたが、そうではない使い方をする人がいることを知った。何事も勉強である。15年以上前の解説書と同じ読解を反復する。なるほど、それも<再読>のうちか。現実の不平等が隠蔽され、近代的な理念が正当化されることによって再生産が遂行されるのだそうだ。しかし今日、そうした事態が暴露されつつあり、変革の可能性を導く好機であるのだそうだ。そういう趣旨の卒論、世の中に満ちあふれていたこともきっとあっただろう。私も書いたけど。

ブルデューの国家論を検討する報告。ブルデューは画期的な議論を二つの方向で展開しているらしい。その一つは国家論であり、国家による暴力の独占に議論を集中させた「従来の」国家論を越えるものだという。そしてその際、さらに捨て去られるべき古い考え方の一つは、*すべての*疎外された行為と表象が「イデオロギー装置」によってもたらされるものであるという考え方なのだそうだ。そしてそれに、社会的諸範疇が、国家が人々の実践に押しつける制度的枠組みを通して、人々にハビトゥスとして身体化される、という議論を対置する。・・・「イデオロギー装置」の議論に比して、どこがどう新しくなってるのだろうか。「制度的枠組み」こそ「イデオロギー装置」そのものなのだが。「すべての」など最初から書かずもがなの言葉を外して、ちょっと複雑に言い直しただけにしか読めない。

そしてもう一つの画期的な議論とは、科学は既存の認識に対して、「認識論的切断」を行わなければならない、そのためには国家からの介入を常に警戒しなければならない、というものらしい。

この二つの論点、実はそのままアルチュセールの論点(「イデオロギー装置」・「科学とイデオロギーの峻別」)であり、しかもそれを著しく矮小化したものである。この点に関しては、ブルデューにも責任がある。ブルデュー自身がそういう書き方をしてしまっているからだ。ブルデューのこうした記述の中にははじめから「画期的」なものなどなにもない。だからブルデューを好意的に語るのなら、その「先」の記述を読まなければならないのだ。「先」があれば、だが。

これは好みの問題かもしれないが、両報告とも行為者の「認識」を支配の必要条件におく、「内面化」のロジックに緊縛されてしまっているのがいかがなものか、と思う。理論的にもいろいろ問題性は指摘できるだろうが、なによりかにより、世の中平等だ、とかいう幻想が世の中に行き渡っている(いた)か?そしてその「嘘」を社会学者(だけ)は知っている?その時点で「イデオロギー」にとらわれまくっているはずの「行為者」たちから「うそー」という声を浴びせかけられることだろう。ジジェクとはいわん。せめてマイヤーを読め。

この部会、まさに「3.」の反復の確認の場。「十年一日のごとく」とはこの部会のために用意された言葉である。

期待の?バトラー報告。「4.」であった。まさに「東大パワー炸裂」、とは一緒に聞いていた人の言。よってコメント不能。私の頭が悪いのかしらん。


(2001年11月24日)

「かくあれかし!」

今クールのドラマで教育モノが三本ある。「ガッコの先生」「さよなら小津先生」「金八先生」だ。二回生相手の教育社会学のゼミでは、なまじ面白いとも思っていない教育書なんか読むより、ドラマを見てレビューしろ、と唆しているのだが、なかなかやってくれない。教育モノドラマの社会学なんて結構いいテーマになるのに。堂本クンいい!、田村さんステキ!、武田鉄矢渋い?。どんな動機であれ、少しでも楽しんでみたものがあれば、その方が、好きでもない本を読んだ紹介よりいいに決まっているのだ。やはり報告は、報告者が楽しんでやらないと。

とそれはさておき、唯一見ていない「金八先生」のテーマが今日は同性愛だと知って、ちらちらと見ていた。「ちらちらと」というのは、このドラマ、基本的にくさくて正視に耐えないからだ。

おちは「そんなもんだろうな」という感じ。「愛にはいろいろな形がある」。ただ、これも当然といえば当然なのだが、そこから極力「性」を排除しようとしていたのが、さもありなん。妻がいた(死別)金八先生が「自分もすごくあこがれた男の先輩がいた」と「告白」。同性愛を「疑われた」(「本当はそうではないのだ」)女子生徒もそれと同質のものだ、とクラスのみんなも、そしておそらくかの女子生徒自身も納得させて終わる。「正常であれかし!」というわけだ。まあ、そういうドラマなのだ。

「小津先生」は、最初、教師の見る生徒の不気味さが良く描かれていたのだが、段々生徒が飼いならされていってしまって、いまいち。「本当は分かり合えるのだ」。

問題は分かり合えるとか合えないとか、そういう感情のぶつかりあいではなく、感情を機能させるシステムそのものが両者で違ってしまっていることだろうに。だから、子どもは本当に悪いわけではない、というのは当たり前だ。「本当」もなにもかれらは最初から正しいのだから。

「ガッコの先生」の子どもたちが教師に擦り寄って「やっている」さまが一番リアルだったりする。


(2001年11月22日)

「それはまさに私です」

トップページにメール送信フォームをつけている。3ヶ月に一回ぐらいはそれで感想を送ってくださる方がいる。ありがとうございます。

ここからメールを送るとJUSTNETのサーバーを使うので、完全匿名のメールを送ることもできる。だから気楽に感想を送っていただければありがたいのだが、受け取る方は、たまなだけに、結構一喜一憂したりする。先日、また久しぶりにメールが来た。HNは「HN」、本文は一言「つまんないよーだ」。ひどいよなあ。批判なら批判でもうちょっと書きようもあるだろうに。わざわざそんな投げやりなこと書かなくてもいいのになあ。なんか心がすさんでいるんじゃないのかなあ。そりゃ、マルクスのお勉強しようと期待してきたら裏切られるものなあ。だからといってあんまりだよなあ。と結構がっくりきていたのだが、ふと、メールの送信時間を見て気づいた。トップページの更新をした直後の送信なのだ。いくらなんでもタイミングが良すぎる。。。って、このメール送ったの、私じゃないのか?そうそう、メール送信フォームのテスト用にと自分で送信してみたのだった。すっかり忘れてた。ということは、私はテスト用にそんな投げやりな言葉を書いたのか。心がすさんでいたのは、私だった。


(2001年11月21日)

「汝はマルクス主義者である!」

このページのリンク元としてMSN Searchがあることを知った。「マルクス主義」で検索をかけるとかなり早い段階でこのページがヒットする。しかもおのおののページには独自の紹介文がかかれている。ふつうの検索サイトではページからの抜粋か、作成者自身の紹介文なのだが、ここはMSNの担当者が紹介文を書いているようだ。その紹介文。「骨太なマルクス主義信奉者の現代社会に対する見解とはいかに? 文献からの引用を交えた硬派な論文が読める」。ありがとうございます、なのだが、「骨太」な「信奉者」ねえ。タイトルに書いてあるのに、「似非」だって。って、タイトルもかってに「マルキストの館」になっているし。どっからそんなタイトルが出てきたのだ?

でもこの検索サイト、「マルクス主義」に関してはYahooよりずっと使える。MSNがネットスケープ排除なんてやらなかったら、もっと使っていたかもしれないのに。


(2001年11月21日)

語学力がない

"quotation"と"citation"の使い分けが分からない。表紙のページ、どっちにしたらいいのか。字面はquotationのほうがいい感じなのだが、enqueteがフランス語なもので、それにあわせればcitationを採った方がいい気もする。

なんていっても題名は完全に英語だし、ドイツ語も入っているし、もともとポリシーなんてないんだよね。本当は全部日本語でいいんだけど、日本語はなんとなく間延びした感じになりがちだとか、フォントが汚いことが多いだとか、その程度の理由で外国語を混ぜてみた、というだけのことなんだから。本当の本当は全部エスペラント語で書きたかった、のだが、エスペラント語を私がまったく知らないので夢のまた夢である。


(2001年11月20日)

天に唾する

デザインをパクるべく参考にするために、いろいろなサイトを見てまわって少し思ったこと。

私が普段見ているサイトは、だいたいデザインはそっけなく、基本的にベタのテキストをHTML化しただけ、というようなのが多かった。私は、商業サイトでもない限り、そういうものだと思って自分のサイトもそうしてきた。ところがあらためていろいろ回ってみると、ずいぶん凝った美しいページがある。個人サイトが非常に進化してきているのか、前はどうだったか記憶にないが、そういう印象をもった。ずいぶんそっけないサイトばっかり見てきたんだなあという不思議な感慨。浦島太郎にでもなった気分だ。

しかしそれはそれとして、では今まで私が見てきたたぐいの、そっけないサイトと、デザインに凝った美しいサイトと、どっちが面白いか、というのはまた別問題だ。とりわけPC系のサイトはそっけないものが多い。軽いブラウザーでも見られるように、とか余計なグラフィックは使わない、とかPC側の常識に従えばそうなる、ともいえるし、デザインより内容で勝負、という意気を感じるサイトも多い。対照的に批評系のサイトは妙に芸術的なものが多いように感じた。こういうサイトこそ文章で勝負しなければならないのではないのか?

でもねえ。デザインってやりだすとたのしいね。それに適当に書きなぐった駄文でもなんかひとかどのものに見えてくる気がしてくるし、困ったことだ。


(2001年11月18日)

このサイトの前史が終わる

サイト全体のデザインをいろいろいじっている。最初は部分的な修正にするつもりだったのだが、そうすると修正したページとしなかったページとでずいぶん落差を感じてしまう。作ったときには気に入っていたデザインとか工夫とかが、新しいデザインと矛盾するようになる。今やそうしたかつての工夫自体が桎梏となってしまう。

そうなればもういきおい行き着くところまでやらないと収まらない。形ばかりあった英語versionのページを完全に削除。もう完全に日本語専用。本当は前に外国の方から問い合わせがあったこともあったので残しておくべきかと思ったのだが、一度だけだし。それより、トップ(http://www009.upp.so-net.ne.jp/althusser/index.html)だけみて帰る人が多いようだったのが気になっていて、トップページにも多少は情報を書きたかった、というのもある。英語では書けることも限られている(情けない)。UP済みのコンテンツも論文・報告を除いて全面的にデザインのやり直し。カラフルだった色使いは一切止めてモノトーンに徹する。

そんなこんなで一応出来上がったが、画像を使わず、また高機能なHTMLエディタも使っていない(NetscapeのおまけのComposerを少し使っただけ、ほとんどはテキストエディタ使用)わりにはいい感じではないだろうか、と自己満足。いかがでしょうか、と問えばどなたか感想いただけますかね。


(2001年11月18日)

同時に語る、ということ

もう暇に任せて(というほど暇でもないのだが)、今度はジジェクとモーニング娘。で検索をかけた。その結果。アルチュセールのときよりも多い。まあ「流行」だしね。しかしアルチュセールのときもそうだったが、そのほとんどがジジェク(やアルチュセール)の本と、モーニング娘。が併置されている。ただ併置するっていうのも少し芸がないような気がする。私はといえば、モーニング娘。をアルチュセールやジジェクで語ろうとしているのだが、それも凡庸だ。モーニング娘。でアルチュセールやジジェクを語る、というのが一番ラディカルかもしれない。


(2001年11月18日)

安倍なつみの不可能性

勢いでどんどん書く。ようやく?モーニング娘。についてだ。

モーニング娘。でだれがいいか、という問いに答えるとき、世間的に「安全」なのは後藤真希ということになっているようだ。多数派に身を寄せれば余計な突込みをうけない、という意味で。またそれとは別に中澤や市井、加護、飯田も、それはそれで結構安全な気がする。「なぜ?」と聞かれたとき、ちょっと捻った理由を言いやすいからだ。

ところで「世間」では後藤真希か安倍なつみか、という問いが立てられている。そこで、はて?となるわけだ。後藤真希といえば確かに加入時より鮮烈な印象を残したし、ソロ活動もしている。ところが安倍なつみは何もしていない。飯田のようにリーダーでもない。ただヒラの古参というだけの存在だ。目立った活動もしていなければ、目立った特長、ウリもない。きらめきもなければ、捻りもない。そもそもなぜこの両人が並べられるのか?それさえ根拠がわからない。そうした中で「なっちがいい」と答えるのは難しい。「なんで?」という問いに対して無難な回答ができないのだ。

などと書いている私は隠れ「なっち」派だったりするのだが、「なんで?」が恐くて、隠れている。と、別冊宝島「音楽誌が書かないJポップ批評12」のなかに面白い記述を発見した。「どうにもこうにも”不安”だけがなっちの存在を保証」。書き手の真意はさておき(書き手は安倍本人が不安感を常に抱いているところに魅力を感じる、という趣旨のようだが、私からすれば安倍の存在自体が不安そのものなのだ)、いい「なっち」評だ。明確な存在理由など、もはや「なっち」にはない。むしろ桎梏となっている、と言われても仕方がない。ファンの間ではソロ待望論があるというが、もちろんそんなことをすれば無残であろう。彼女自身は「何もない」のだから。

にもかかわらず不在の核として、そこにいる。つんくが安倍を「マザーシップ」と評したというが、見事に空疎な役割分担であり、かつ正鵠を射ている。「モーニング娘。」という存在が常に回帰する不在の核が「なっち」なのだ。


(2001年11月17日)

桜っ子クラブさくら組

中谷美紀ファンに引きずられて、ネットでいろいろ検索したことがある。そして中谷が桜っ子クラブさくら組なるアイドルグループ出身であること、そのグループには菅野美穂もいたことを知り、かの人に報告した(向こうは既知だった)。中谷と菅野がいたグループってちょっとすごかったかもしれない。残念ながらリアルタイムでは知らないのだが(なぜだろう?)。モーニング娘。はこれだけの人材を輩出できるだろうか(修辞疑問)。

両者ともちょっと天然ボケっぽい感じがいいよね、と盛り上がる。その「ぼけ」のあり方について私の言い分。

「菅野の方が言説的(自然的)、中谷の方が攪乱的、というかんじかな。中谷のぼけは微妙な不協和音を発する、というか」

その人からは賛意をもらったが、いかがでしょう。

蛇足ながら、桜っ子クラブ、アルチュセールでは一件もヒットしない。予想通りだ。


補足:桜っ子クラブの件、まったく知らなかった、というわけではない。そういえばそうだったか、と思い出した、というところだ。

ついでにモーニング娘。では加護のあざとさがちょっといいのだが、もう一押しが欲しい。


(2001年11月17日)

「話をできる人が誰もいない」

直接話をできる相手がいないとこのページが進む。

何か語りたいのに、それを語れる相手がいない。この言い方は実感に則しているが、たぶん正確ではない。要するに話したい相手が、あらかじめ、いるのだが、その人に相手になってもらえない、というだけのことである。

ただそれは一時的なことであり、絶対的な孤独ではなかった。

そうしてネットにのめりこんでいて、思いがけないページに行き当たる。そして知らなくてもいいことを知ってしまった、かもしれない。ああ、そういう優先順位なのね、という感じ(謎)。孤独感がいや増すばかり。時々自分で自分の首をしめるような、こうした悪循環に陥ってしまうようだ。自分で自分を追い込んでいるようだ。そういうやらずもがなの確認作業の反復に書き立てる力は何か、と問いを立てると一転精神分析っぽくなるかな。

だれにも分からない愚痴をこんなところに書いてどうするのだ?何かおちをつけなければならないのだが思いつかない。まあ、「他人の不幸は蜜の味」ってことで、適当に笑って読み流してください。


(2001年11月17日)

坊主にくけりゃ

先日、アルチュセールと「モーニング娘」(検索サイトによっては「。」の有無でヒット数が変わる)で検索をかけた、と書いたが、その続き。件数が知れているので(今日は7件になってた)、全部を一通りざっと見てみたが、その中で気になったことを一つ。

リンクフリーかどうか知らないので(リンクフリーでないページを作る人の気が知れないのだが、ネットというものに関して根本的な考え方の隔たりを感じるが、まあそんなことをいっても仕方がない)、リンクはしないが、アルチュセールの「構造的因果性」概念を引いて、「宮崎哲弥が、自分の生い立ちを話して、「もし家庭に問題があることが原因なら、自分だって殺人を犯していることになる、でもやってない、だから行為主体に責任がある」というのももっとも」なる主張を飾り立てている。あまりに情けないので勝手に「さらし」の刑に処す。

ついでにこのページ、「モーニング娘。」にも言及しているのだが、「。」がない。そっちはどうでもいい話だが、まあ中途半端な奴はなにをやっても中途半端ということで。

(2001年11月16日)

警句

このページが正式にリンクされているのはYAHOOだけである。一応リンクフリーなので他もあるといえばあるが、事実上、ない。あとはgoogleとかgooなんかから引っかかってくるぐらいだろうか。ところが肝心の?Yahooの登録先がなんと「社会科学」ではなくて、「人文と芸術」カテゴリーに入れられてしまっている。申請したときはもちろん「社会科学」で申請したのだが、「マルクス」というだけで「人文と芸術」の「哲学者」の項目に入れられてしまったのだ。で、そこから来た人からすれば、このページは期待はずれ、ということになるだろう。マルクスの人となりとか、思想の概略とか、そういう思想史めいたことは一切書いていないからだ。そうではなくて、私がマルクス主義から学んだ方法論で社会現象を見ていこう、という趣旨なのだから、「社会科学」以外のなにものでもないはずなのだ。なんていっても、Yahooの担当者がそこまで見る目はないだろうが、それならそれで申請どおりにカテゴライズしてもらいたいものだ。

ときどき質問をくれる人がいたりする。だいたいは大学かなんかのレポート作成の参考にしようという不純な?動機のようだが、とにかくお客さまなので、自分なりに丁寧に返事をする。そういうのももちろん歓迎なのだが、できれば掲示板で質問してくれればいいのに、と思う。私の、結構頑張った回答を読むのが質問者一人、というのがちょっともったいない。参考になったのかどうかもたいていは良く分からない。掲示板だったら、一応、他の人も見て参考になるかも知れず、ネットの精神にもかなっている気がする。

直接の知り合いで、見て、感想を言ってくれる人もいる。そうしたことはたいがい想定外だったりするのだが、それだけにうれしい。ただし書く内容が微妙に変わる契機にはなっているかもしれない。あまり暴言とかは吐けない、という意味で。もっとも本名も出身大学も全部サイト内に書いてしまっているので、そもそもそれなりに制約はあるのだが。ちなみに想定「内」の知り合いはぜんぜん見てくれてなかったりする。それはちょっと悲しい。

などふとこのサイトの「読者」像をしりたくなったりして、「アクセスログ」を取ることにしてみた。我ながら悪趣味。リモートホスト(とリンク元)が分かってしまうので、都合が悪い人(そんな人いるのか?)は注意してください(笑)。プロクシでも刺しておけばいいでしょう。

(2001年11月16日)

モーニング娘。とアルチュセール

日本広しと言えど、アルチュセールとモーニング娘。の名を同じページに載せているサイトは他にはあるまいと自負していたが、googleで検索かけてみると8件もヒットした。ヒェー、というところだ。なら世界では、と気になってもくるがモーニング娘。の韓国語表記や中国語表記をしらないので(中国語は早起少女隊だっけ?)調べようがない。

で、そうしたページをざっと見てみたが、大体趣旨はこのページと似た感じだ。雑多な感想を連ねたページ。ただその雑多さがこのページよりおおかた上で少しうらやましい。というか、このページが少し硬すぎるのかもしれない。

もっと雑多なページにしたい。でも残念ながら私はサブカルチャー的なものへの造詣がなさすぎるんだな。テレビドラマでも、アイドル歌謡でも、どんどんネタにしていかなければならない。ただ併置するだけならさほど難しくもないのだが、*同時*に語るのはかなり難しい。つくづく己の力不足を感じる。

(2001年11月14日)

ゼミを担当して考える

二回生の学生のゼミを担当していて、学生の報告の後、当然何らかのアドバイスをしなければならないのだが、それが予想を越えて困難を感じる。

学生は自分で読めない字をレジュメに書く。それで読み方をこちらに聞いてくる。自分で少しは調べろよ、と思うが、それはまあ良い。驚くのは私が場所がわからなくて、学生に聞き返した時、かれらは黙って不満そうにしていることだ。せっかく報告してやってるのに、聞いていないなんてけしからん教師だと思っているようだ。

報告中、こちらはコメントを考えなければならないのだ。学生の報告がレジュメを読み上げているだけだったら、効率よく先読みして、引っかかったところでいろいろ考えたりする。だから学生が今どこを読んでいるか、聞き落とすことだってある。いちいちそんなことですねられても困るのだ。大体報告するときはその報告に関しては全責任を報告者が背負うものだ、と私は思ってきたが、それだけの自覚も誇りもないようだ。なんて書くとありきたりの当世学生論になってしまうのだが。みっともない愚痴である。直接いちいちうるさいことを言うのも嫌なので、このページを読む学生がいることを願いつつ。

それはさておき、教育の「社会学」というのは難しい学問だとつくづく思う。歴史学とか何とかと違い、学生に知識を教えれば済むものではないからだ。知識はかれらはそれなりに受け入れる。しかし「社会学」で教えなければならないのは、プラス考え方であり、考える姿勢である。

学生は、常識に照らして、「正しい価値」に則って間違いを正そうとする。それは語の正確な意味で「イデオロギー」だ。それに対して「社会学」は価値の相対性を教えるのだといわれる。確かに価値には対立が含まれていること、それは可視的な、通俗的な意味での「イデオロギー」的な議論の対立である場合もあれば、もっと潜在的な、社会学用語で「逆機能」とも言いうるような対立である場合もある。とりあえずそうした対立を踏まえてくれ、というのは必要だ。だから一刀両断には事態は解決などできないのだ、と。

しかしそこにとどまりたくはない。その中で、もう一度自分の位置を探してもらいたいのだ。自分がある立場を取る、あるいは取らざるをえない、そのことの意味を突き詰めて考えてもらいたいのだ。

そうしたことを考えていて、「価値相対主義」より「弁証法」をもっと考えなければならない、と思うようになった。ただしまだ学生に伝えられる余裕は、もちろん、ない。

(2001年11月13日)

「ぼくはそのはないけどね」

最近ジジェクが面白い。今読書会で読んでいるのが『イデオロギーの崇高な対象』。近いうちに読書ノートでもまとめてUPしようか、とも思っている(予定は未定)。まあ、まとまったものをと思うとなかなか時間もかかるし、気も重くなるので、さしあたり断片的なメモだけ。

学会報告の延長でずっと考えつづけているのが差別論。学会報告では、かなり形式的というか、既存の言説の組み合わせ(接合)からいかなる事態が立ち上がるか、みたいな話だったが、これはほんとうに表面的な議論にとどまる。もっと<先>に進んで、ある言説に人が否応なく取り込まれてしまうさまを描き出したい。アルチュセールの呼びかけの形式を論じたのが前者だとすれば、その呼びかけに応答する様態が後者。

こうした、呼びかけに否応なく振り向く主体に関して、ジジェク(ラカン)で有効な概念が「トラウマ」。ジジェクはユダヤ問題で論じるが、ここでは同性愛嫌悪で考えてみよう。

中央大学の教授である社会学者矢島正見は『女性同性愛者のライフヒストリー』の冒頭で宣言する。「私は同性愛者ではない。それどころか、バリバリの異性愛者である」。

上野千鶴子「私は自分が、『強制的異性愛』のワナに絡め取られた女であることを自覚している」(『発情装置』)。

「私は同性愛ではない」。日常的に(テレビなどを含む)、多くの場合ごく軽いノリで、語られる語りが意図を超えて反復される。「同性愛」を、おそらく真摯に、論じようとする文脈のなかで、「同性愛」対「異性愛」の対立が見事に*執拗に*反復されている。これこそ「症候」であり、「トラウマ」の痕跡なのだ。

こうしたトラウマの構造の詳細については稿を改めるとして、同じ構造はいじめにもそのまま応用可能だろう。いじめの現場はなかなか見られないが、ネットである個人(時にアイドル・タレント)が誹謗中傷され、袋叩きにあっているさまは、バーチャルないじめさながらの様相を呈している。もちろん見ていていたたまれず、痛々しいのは中傷をしつづけているほうである(特定の人間が書きつづけているかどうかはここでは一切問題ではない)。

実際のいじめなどの現場では、被害者のつらさが先に見えるために、加害者の痛々しさ(悲惨さ)はなかなか見えてこない。それがバーチャルな場ではあからさまに見えてしまうのだ。だからといって「加害者も一種の被害者なんだ」といったきいたことを言うつもりは毛頭ない。そうではなくて、かれらは腹立たしいまでにただただ悲惨なのだ。

(2001年11月8日)

学会報告

教育社会学会に参加してきた。といっても一日目だけで、日帰りで帰ってきてしまったんだけど。

私の報告内容についてはレジュメを見てください。「差別問題教育のパラドクス」という題名。理論部会でやる内容か、という説もありそうだが、結構理論的な内容も盛り込んだつもり。でも報告では実践的な関心を強調しすぎたきらいがあったかも。理論的な含意をどの程度汲み取ってもらえたか、疑問。

ただ今年の理論部会は特に「実践」への関心を持った報告が多かった。他部会では逆に理論の紹介を適当なテーマに引っ掛けてやってみた、という報告があったのとはある意味対照的で面白かった。そういう流れでは結構時流に乗ってたんだけどなあ。

さて、私の報告だが、ありがたいことに積極的に質問してくれた人がいた。なんでも私の報告の題名に惹かれて学会にもきたのだと言う。現役の先生で社会人院生の方だったと思う。部会終了後もいろいろ意見を言ってくださった。

主な突っ込みは私が「模範回答」だとしたAの回答をもっと突っ込んで分析すべきじゃないのか、この回答にはさまざまに「問題」があるのじゃないか、という趣旨。

最初「問題」を私がベタに受けとって、「そりゃ、突っ込めばいくらでも問題は出てくるけど、それでは際限がなくなってしまって、まずい、という趣旨なんだから」としばらく遣り合ってたんだけど、その人は私の報告の趣旨を踏まえた上で、その先を言ってる事がわかった。要は、あの報告ではまだ差別言説の構造まではいっていないのではないか、というのが指摘された点だったと思う。

それは、まったくその通りで、「今後ということで」で終わったけど、「逃げ」と思われただろうか。もちろん私としては「今後」はあるつもりなのだが。レジュメにメールアドレスなり、URLなりを書いておけばよかった、とかなり後悔。来年また聞きにきてくださるだろうか。

その人はどうやらエスノやってるようで、着眼点が結構面白くて、Aの質問の「人から『それは差別表現だ』と指摘され」に対する回答がその「人」を初めから被差別者と決めてかかっている、それが非常に面白い、と。ここは回答者によって解釈が分かれたところではあったが、この回答に関しては、私も「あれ?」とは思った。そこを突き詰めていかなければならないのではないか、と。まったくその通りで、差別問題において「被差別者」の語りがある意味特権化され、ある意味見世物化される「クローゼットの構造」が産出されている、と見るべきであろう。まさに今後の課題。


「ジェンダー」部会。出ずに単に要旨だけを読んだが、どういったらいいのか。あいも変わらず、教師の無自覚さが隠れたカリキュラムとなって性差を生産しつづけてる、なんて議論が続けられている。何十年間同じことを言ってたら気が済むのか。今英語圏でもどんどん新しい議論が展開されている。気さえあればいくらでも勉強できるのに。停滞した「場」はそのレベルのもので群れるから一切の進歩を止めて平然としていられるのか。

(2001年10月8日)

重要なのは差異ではない

この「平和」な日本で、たかが部外者として、かのビルから絶望的に飛び降りて脱出を試みた人の、ハイジャックされた飛行機において、死を覚悟してなお、最後の抵抗を試みた乗客の心情に思いをはせよう。

そしてそれと*同時に*、その報を聞いて、自らの「同胞」の命も失われてなお、大はしゃぎするパレスチナの人々の心情に思いをはせよう。


そしてそれらと、

イスラエルの攻撃にさらされ、絶望と怒りの中で西欧社会への憎しみを募らしつづけたであろうパレスチナの人々と、

そのことをニュースの片隅ぐらいで知り、それとは無関係に日々の生活を送るアメリカの人々(そして日本にいる我々)とを これまた同時に見つめよう。

耐え難いのは差異ではない

Slavoj Zizek The Metastases of Enjoyment

(2001年9月13日)

「死者」と向き合う

小泉の「死んだら皆仏様」発言など、「死者」にどう向き合うか、みたいなのが、今年の夏、いろいろ議論されているようだ。それに対して私のとる態度は、一方で熱い割に、本質的に冷淡すぎるだろうか、と思う部分もある。靖国にまつられているらしい人々の遺族の言になどもちろん最初から共感する余地を持たない。それは政治以前に、「皆仏様」なるナイーブさの対極にある「死んだら皆ゴミ」というような感性に犯されているのでどうしようもない。

だから、<被害者>やその遺族に対する共感もその意味では持ち合わせてはいない、というべきであろう。逃げでも何でもなく、私は<被害者>の身にはなれないし、またなるべきでもない。<被害者>と靖国にまつられた「神」と、私には感性レベルでは等価にあり、改めて政治的に(私にとって理性的に)判断して、前者の言を私は尊重する、というたぐいのものだ。

私が、靖国を認めないのは、それが<被害者>への冒涜を意味するからではなく、靖国の紡ぎ出す日本国家のイデオロギー(物語)の表象を*私が*自身の住まう社会の理念とされることを拒否するからに他ならない。それが私の考え得る最大限の「戦後責任」である、と思う。


「死刑」制度も私が反対なのは、死刑囚の命の重みなどではなく、単に国家が正当に人の生死を握る、というほどの権力を持つことを理念的に拒否すればこそであり、かかる理念は、「被害者の無念さ」などという個別的な心情より上位にあると信ずればこそである。「被害者の無念さ」なるものは、交通事故死であろうとあるいは不治の病による死であろうと、それらは本質的に等価であり、どう考えても<国家権力の限界>に関する理念を上回る価値を持つとは思わない。

(2001/08/21)

差別問題を論じるとき

「正しい」言説のあの反復は、ものを考えたくない、何も責任をとりたくないものたちの究極の逃げ場をなす。


1 上の戦略がもっともクリティカルになるのは、差別論の場面である。

1.1そうした戦略は具体的には「敬遠」という態度をとる。

1.2そうした戦略はクローゼットの構造そのものをなす。


2 「正しい」言説の穴を付いたところで、奴らはそれを直ちに取り入れ、「より正しい」言説を生産することが出来る。

2.1奴らはジャングルの中のゲリラのごとく、無限の逃げ場を持っている。

2.2追えば追うほど奴らは奥地に逃げ込むことになる。

2.3こうした鬼ごっこから奴らが「学習」するのは、「差別論はめんどくさい」ということである。


3 奴らを「差別者」と位置づけ、追いつめる奴はただの馬鹿である。


番外 「奴ら」と向き合うのは闘争だが、馬鹿を相手にするのは徒労である。


(2001/04/29記述, 08/21Up)

★永い眠りの中

Zzzz

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