重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

(たとえばモーニング娘。とアルチュセールを*同時に*語る、ということ)

日々思いついたいろいろな話を無責任に書きなぐるモノローグ

「いじめ」は発見されにくいものなのだ

一般的に言って、「ものを言う人」は他人の責任を追及するのが好きなものだ。もちろん責任の所在を曖昧にするのはよろしくない。しかし「追求」するというのは、だんだんと焦点が絞られていくものだろうに、逆にだんだんと拡散してしまう「追求」というものがある。焦点も絞られないまま、とりあえず「責任はお前にもあるよな」と言われれば、「ない」とも言えず、取り方も分からないまま責任を負わされてしまう。それは構造的に魔女狩り=いじめでしかない。「お前には何かしら欠陥がある」、それを否定できるものなど誰もいない。

今語られている「いじめ」問題も同じ構造を呈している。「いじめ」を防止できなかった教師が悪い、それはそうだ。自分の担当する生徒がいじめを苦に自殺したとして、その責を感じない教師は、一般的に言って、いない。そして追求が続く。「なぜ対処できなかったのか」。(気づかなかった)。「なぜ気づかなかった」!

これもまた「いじめ」一般の問題として、「いじめ」は気づかれないものなのだ。逆に言えば、発見される「いじめ」は「いじめ」全体のごく表層的な一部にすぎない。それは単に「最近のいじめは陰湿化している」という現象的なものではない。もっと「いじめ」自体の持つ構造的な問題だ。

「いじめ」とは個別嫌がらせでもなければ、個別暴力事件でもない。それも含み込むかも知れないもっと別のものだ。結論を言ってしまえば、「いじめ」とは個別にやりとりされるメッセージ(直接的暴力もメッセージの一形態だ)総体から発せられるメタメッセージの伝達である。観察者は(教師も一般的に言ってまず持って観察者として立ち現れる)メッセージそれ自体は観察し得ても(もちろん「陰湿化している」という意味では、これすら困難なのだが)、メタメッセージを見ることは出来ない。被害者は日々直接感じさせられれているこのメタメッセージを、観察者はただ、わずかに観察できたメッセージの破片からその痕跡を読み取り、再構成しうるだけだ。

それは不可能なことではないかも知れない。しかし100%成功するはずのものであるなどと言えるようなものでもない。

明確に気づくべき「いじめ」を黙殺し、対処し得たいじめを放置した、というのはもとより批判されるべきである、しかし何を持って「気づくべき」であり、何を持って「対処し得た」と言えるのか、その条件についてはいまだ私たちはほとんど何も知らないのだ。

「いじめ」問題を語るときに

これは一般的に経験的に言えることとして、「自殺」というのは連鎖反応を引き起こすものだ。そうであればこそ、「自殺」について語ることにはことのほか慎重であらねばならない。「いじめ→悲劇→自殺」というストーリーは、既存の悲劇を語るだけでなく、今いじめに関わっている者に現実的効果をもたらす可能性を持った言説として確かに作用してしまうのだ。もちろん「いじめに関わっている者」には被害者のみならず、加害者も含まれる。

「自殺」の語りは確かにいじめの悲惨さを語るに有効ではある、それにより加害者を押しとどめる効果を持つかも知れない、しかし、一方で例えばネットでのバッシング相手に対して投げかけられる(ネット上でのバッシングはいじめの一変種である)「死ねばいいのに」といったことばを生み出しもする。「自殺」を持っていじめの深刻さを語る者はきっと善意から、その悲惨さを共有せんとしてそうするのだろう。しかし、その善意の言葉が横領されてしまう可能性を忘れるべきではない。

被害者にとって、己の悲劇を訴える*唯一絶対*の手段として、一方で加害者にとっていじめの最終目標として、「自殺」が設定されてしまう、この「いじめ」、「自殺」の言葉の結びつきは断じて断ち切らなければならない。

ターム:いじめ 言説 アーティキュレーション(接合・縫合)

「教育」問題ではない

最近、必修科目の履修漏れに関するニュースが喧しい。なにやら重大な問題であるかのごとく喧伝され、「責任者」の追求がなされ、それとは逆に政府与党は履修漏れの学生を「救済」するだとかなんだとか言い始めたりして、政治問題化すらしそうな勢いだ。

「たかが」学習指導要領違反なだけでしょ?学習指導要領の法的根拠だって議論の余地がある、ましてや学習指導要領自体の内容についてなんて議論百出だ。「教育」なるものの正統性に関わるかのごとく語られているが、学習指導要領なんて、言ってしまえば文部科学省が(それなりの法的根拠は踏まえているとは言え)勝手に決めたものであって、「教育」一般の正統性に関わると言うほどたいそうなものではない。せいぜい公立学校だったら、まあ学習指導要領は遵守しておかないと、そりゃ、「上」からいろいろ言われるだろうな、という程度のことだ。基本的に責任を負わされる校長は気の毒なことではあるが。

この問題を持って、そもそも学習指導要領とは何か、その内容の正当性はいかほどのものか、という議論に行かず、単に「規則を守らないのはけしからん」という程度の表層的な議論をしたところで(その議論自体は、それはそうだ、というしかないが)、「教育」を語ったことには一切ならない。

ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ

かつては「子ども」には己の存在を確認できるべき場所があった。学校である。学校は、幻想的なものであっても、確かにゲマインシャフト的構造を持った存在として、子どもの居場所を提供するべき場所とされていた。そうであればこそ、そこからの排除を子どもはおそれたのであったし、シカトという「いじめ」がきわめて有効に機能したものそうした幻想があればこそであった。そしてこうした「いじめ」は共同体の秩序を乱す異質なる者を標的としてなされ、正統化されていた。

しかし今、教育改革を進めるものたちは、学校の持つこうしたゲマインシャフト的構造を破壊しようとしている。バウチャー制度の導入画策に象徴的に見られるこうした動きは徹底して学校をゲゼルシャフト的な構造に作り替えようとするものだ。空白となった共同体の後を埋めるのは「国家」という究極の幻想共同体である。そしてこれまで「共同体」に疎外されてきた者たちがこうした動きを礼賛する。

「共同体」の秩序維持という正統性はもはや大きな意味を持たず、他者への攻撃が大手を振って言説として闊歩する。己の存在場所を失ったものは、他者を攻撃することによって己の存在を確認しようとするのだ。その醜さがあけすけに観察できるようになった今という時代をどう評価するべきか。

「いじめ」の醜さには違いはない。ただ悲しむべきは、かつての「いじめ」(を産出する)言説に抵抗する者たちが今の「いじめ」(を産出する)言説の担い手になっていることだ。

右翼ではなくファシズムだ

毎日新聞夕刊の文化欄に興味深い記事が二つ。

「この国はどこへ行こうとしているのか−すでにファシズムかも」。辺見庸へのインタビュー。

言葉のもだえ苦しみを、これほどちゃらけた調子で語る国って、他にないだろ

ファシズムは独裁者が生み出すものではない。ある日、ふと気づくかすかに変わっている空気。人々の仕草も行動も一見同じなのに、何かが変わり、もう後戻りできない

「右傾化する自分探し」。雨宮処凜さんという作家が「右翼」運動に関わる経緯についてのインタビュー記事。自分の存在不安を「国家」という物語にすがることで解消しようとする若者たち、そこに現在の「右傾化」の根を見る。

問題なのは「右傾化」ではない。この記事はそこに甘さを感じる。そうではなくて、他者への攻撃の中にしか己の存在を確認できなくなる今の社会のあり方こそが問題なのだ。

全国ニュース

なかなか仕事で一息つくことがない。仕事をしながらブログの更新などを定期的に出来る人というのはいつものことながら尊敬する。私は2日仕事をしたらまる1日の睡眠が必要で、現在週4日出勤プラス自宅作業を行っているので、要するに「起きて」過ごせる休日が全くない。健康で文化的な最低限度の生活を送るのはなかなか難しいものだ。

先日、自宅のある町で町長選、議会選ダブル選挙があった。そうなのだ、なのだ、私が住んでいるところは。

国会議員選挙などでは選挙カーが回ってくることもほとんどなく、結構静かなうちに選挙が終わってしまうものなのだが、町内の選挙となるとこれがうるさい。我が貴重かつ重要な睡眠時間にがんがん演説をなさる。朝の8時から演説をしなくてもいいだろうに、などと文句の一つも言いたくなるが、しかし選挙活動の制限を拡大するのは「与党」有利に働くわけで、民主主義の基本を守るためには選挙活動の制限を求めるたぐいの発言は慎まなければならぬ。それに普段は町会議員が何人いて、何をやっているのかさえろくに知りもしない非町民、こういう機会にでも町内政治にも少しは触れねばならない、と言い聞かせる。

我が町、それなりに共産党の強いところで、毎回町長選は現職と共産系新人の一騎打ち、議会選は共産系数人を含む現職がほぼ定員を分け合っていて、たまに「泡沫」候補がいると選挙がある、とそんな感じ。共産党は例によってがんばり、公明党・自民党も存在は確認でき、日本の政党って3つしかなかったっけ、と例年思う。かつて佐高信だったかが「社会党は存在しない」というようなエッセイを書いていて、永田町あたりにはそういう政党はあるようだが、地方選においてはほとんどその存在感を発揮しない、というような趣旨だったが、それを踏まえるなら「民主党は存在しない」のだ。府会議員選挙ぐらいになるとようやくしゃしゃり出ては来るようだが。自民党だってやる気のない名前連呼をしている選挙カーがぐるぐる回っているだけで、どこに改革を行う強いリーダーシップを発揮するニュー自民党などというのがあるのか、さっぱりわからない。民主と併せて既得権にすがる現職にべったりへばりついているだけではないか。永田町あたりで表面的に「改革」だのなんだのの仮面を被ってみたところで、本質的にそれを支えている地方の実態なんてそんなものじゃないのか。

それにしても我が町の選挙は上記のように決まったメンバーで行う無風の選挙だと思っていたら、なんと今年は波乱があった。町長選で現職が敗れて共産系の新人が当選。おかげさまで朝日新聞では地方欄だけじゃなく全国欄にも(少なくとも関西版では)結果が掲載された。2006年10月23日現在全国で8人目の共産系首長誕生だそうだ。

これではほとんど不正アクセスだ

よくはわからないのだがこのブログシステムにはどこかバグがあるようにも思える。

あるコメントが投稿されるとそれがトリガーとなってあるファイルの内容が消えてしまう、というような。今はちょっと暇がないから調べられない。とにかくスパム投稿がなされたのと同時に9月分の記事がすべて消えていた。普通に日本語の投稿ならそんなことは起こっていないと思うのだが、どこぞの国の何やらの文字の中にこのシステムにエラーを起こさせる何かがある、とかそんな感じ。単にSPAM投稿だけならまだ消せばよいだけなので我慢できるが、元の記事を消してしまうのはどうにも我慢ならない。トラックバック・コメントを全部できなくして、すべてRead Onlyにするしかないのか。

キャッシュやら何やらを使ってとりあえず修復。