重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

(たとえばモーニング娘。とアルチュセールを*同時に*語る、ということ)

日々思いついたいろいろな話を無責任に書きなぐるモノローグ

コピペポリシー

クリッピング代わりに。

会社のポリシーは会議室で決めてない、現場でコピペしてるんだ

いやはや、非常におもしろい。戯画的でありながら、さもありなんと思わせるものがある。

「制度化」の典型。「責任」は常に外部の「世間」「他社並み」にある。

さらに言えば「Webデザイナー」もまた主体ではないだろう。「Webデザイナー」はWebデザイナーできっとググって世間のサイトを見て、それを反復しているのだろう。

祝い

小泉内閣終了。

教育社会学会の感想については後日。

夏ドラマ見納め

今クールのドラマ視聴終了。

最後に見たのが「花嫁は厄年」。篠原涼子の無駄遣いみたいなドラマだった。出だしはそこそこだったのだが、最終回なんてなくてもよかったんじゃないか、というぐらいぐだぐだの結婚式話。

そういう見方をしていたらドラマなんてつまらないと思いつつ、何だ、結局「女」だから結婚に逃げたというお話じゃないか、と先々週あたりから腹が立ってきた。

それに引き替え「結婚できない男」、こちらは最後までよかった。夏川結衣最高、とかそういうことではなくて、コメディなのにとてもいじらしくてきれいな恋愛話。やっぱ、夏川結衣最高、とかそういうことではなくて。

週末の予定

明日、教育社会学会に出席。

今週は仕事漬け(3日連続お仕事)ぎりぎりまで悩んだけれど、一応顔出しすることにした。

本田由紀さんが司会を務める部会といじめに関する報告がある部会に出る予定。本当は二日間有るけれど、京都から大阪教育大に行くのは相当面倒なので、二日目は休む。

死が美化される社会

問題は「戦争」か「平和」か、ではない。戦争を絶対悪とし、平和を称揚する言説は、テロを絶対悪とし、平和を守るためにテロとの戦いを掲げるアメリカの態度を本質的に批判し得ない。

私は「英霊」を嗤うことをしないのと同じ意味において、ある極限の状況において、己の誇りを守らんがため、自爆テロを行う人々を嗤うことはできない。重要なのは「死」が美化され、そこにしか己の存在意義を見いだせなくなるような空間が現出するような社会・世界のあり方といかに対峙し、それとは違う社会を作り出せるのかを常に模索し続けることだ。

「死」に己の存在意義をかける人を嗤いはしない。否定もしない。しかしそのような人々を生み出した社会・世界のあり方を肯定することはできない。

今の日本のある種の風潮においては、今現状において「死」を美化せざるを得ない人々を生み出す世界のあり方には目をつむり、ただ己(名誉白人としての日本人?)の命は大切だと「テロとの戦い」に加わり、そして過去の日本における「死」の美化には浪漫主義的な憧憬を持つ、そのような観念的な死生観が跋扈しているように感じられてならない。

僕たちの戦争

この手のドラマって、何故主人公を最後に「かっこよく」死なそうとするのだろう。こうした「死の美化」を行っておいて「正義の戦争はありません」などと最後にメッセージを文字で書かれても、いかんともしがたい。

必死に見苦しく逃げ回る主人公を描いたってよいじゃないか。

まあ、家族・愛する人→国家という安直な接続を行った「零のかなたへ」と比べると、直接愛する人を守ろうとする主人公を描いたこの作品のほうが数段ましだけれど。

お知らせ

記事が消えていた。

「本田氏は『いじめ』られたのか」と「傷を負った人」の二つの記事である。なぜ消えていたのが不明、調査中。私が間違って消してしまったのか、基本的にはそうとしか考えられないのだが、何を間違って記事を消してしまうのか、わからない。記事ファイルが更新されていた時間、自分が何をしていたのかの記憶もない。今は出先で、十分な調査が出来ない。

とるものもとりあえずGoogleのキャッシュから記事を復元する。Googleありがとう。

とりあえずリンクも貼っていただいていた記事が消えてしまっていたので、そのお詫びと復旧のお知らせ。

みっともないのは−補足を兼ねて

二つ前のエントリで

両者の比較でいえば、多少に雑なところがあってもいえることをいわんとする本田氏に対して、よりアカデミズム的に厳密な手続きを重んじるのが稲葉氏の立場であろう。

と書いた。やや誤解を招きかねない表現だったので、その補足。

上の記述はあくまで立場としての志向性を述べただけであって、実際の両者の業績において稲葉氏の方がアカデミズム的により厳密だ、といっているわけではない。

たとえていえば、構築主義に対するエスノメソドロジーの「ゲリマンダリング」批判のようなもの、ってかえってわかりづらいか。その批判は*その*立場からすれば確かに当たっているのだが、批判された側からすれば「so what?」というしかない、という一方向性。それでも批判者はそこしかよりどころがないのだから、どうしても「片思い」になる。

本件はネットブログを通じたが故にややこしいことになったが、もともと「パラノイア」の多いアカデミズム、その中でも「理論家」ならば、あってしかるべきこと、と私には思われる。実際学会なんていつもあんな感じだった。みっともないのはその後、相手がブログを閉鎖してしまって、余波が予想外に大きかったことにおののいたのか、こそこそあちこちで「政治的」に動き回ったところだ。

傷を負った人

前回のエントリで少しふれた本田由紀氏のブログ閉鎖があちこちに飛び火しているようだ。その「当事者」の一人が突然「切れた」。

本田先生を陵辱する奴ら

なんだか執拗に本田さんのブログで難癖つけていた癖に、そのことを批判されるや、一転我こそが本田さんの理解者であるかのごとき振る舞いをする、なるほど「政治」だ。

ただこのエントリはひどい。全く批判相手の文章を読めていない。こんな読解力でブログで文章をさらしてよいのか?と驚くぐらいだ。高校生でもこんな文章は恥ずかしくてさらさない。

前のエントリで書いたように、かれらの振る舞いはすでにあまりにも浅ましく、「終わっている」ように思う。本件で言説レベルで本田さんが「傷つけられた」ようには私には思えない。単に興味のない難癖につきあうのがいやになって止めただけ、というのがブログ閉鎖で私が読み取ったメッセージである。あとは己の振る舞いの「政治」性を否応なしにさらされて「傷ついた」人たちが傷の修復に大わらわ、ということなのだろう。

本田氏は「いじめ」られたのか

教育社会学者本田由紀氏のブログが炎上し、事実上の閉鎖、との話題。

それに対する本田氏支持のエントリ。「本田由紀氏のブログ閉鎖と稲葉振一郎氏の政治(後半にレトリック分析」。筆者は「いじめ」研究者内藤朝雄氏。

この件で内藤氏が主に批判する稲葉振一郎氏も社会学者。というわけで私にとっては結構内輪なお話。本田氏と稲葉氏は知り合いの知り合いぐらい、内藤氏からはかつてメールをいただいたことがある。学会でお見かけしたこともある。知り合いとはいえないが。

内藤氏の論は氏の専門らしく、稲葉氏の発話行為に言説的ないじめ行為との類似性を見る。ブログの炎上と「いじめ」との類似性は明白だ。その意味では説得力はある。ただそもそも本田氏のブログは一般的な意味において「炎上」したのだろうか、本田氏はこうした「現象」に「負けて」ブログを閉鎖したのだろうか、少し違ったようにも見えるのだ。

私がざっと見た限りの状況を整理しよう。本田氏は自身のブログで*専門家*としてはやや軽率なことを書いた。そこを*専門家*からつっこまれ、そのやりとりを見ていた稲葉氏が改めて本田氏のブログ上で本田氏を批判した。稲葉氏登場前後からその欄には本田氏の記述を批判する者のほか、おもしろ半分に騒ぎ立てたいだけの匿名の書き込みが挟み込まれるなど、「炎上」の前兆はあった。ただ私が見たほかの「炎上」と比較して、匿名書き込みが大量に書き込まれたとの印象は私は持たなかった。むしろ匿名ではない者の批判の執拗さが気になるところではあった。

内藤氏が上のエントリで述べているように批判者稲葉氏の本田氏批判は「継続」的なものである。たまたま記事を見かけて本田氏を批判したのではなくて、それ以前から稲葉氏は本田氏への批判を行っていた。ただしそれは論争と呼べるものではなくて、いわば稲葉氏の一方的な「片思い」である。この継続的な一方向性が「いじめ加害者」との類似性を示す。

問題は何故一方向的なものとなったのかである。そしてそれは端的に言えば本田氏がほとんど相手にしなかったから、である。本ブログの閉鎖も、私は直接本田氏を存じ上げないので本田氏の真意は知りようもないが、本田氏にとって「敗北」よりも、「相手にしたくない」という意味を読み取ることもできるように思う。もっといえば相手にする必要を本田氏は感じていない、ということだ。

どういうことか。それはアカデミズム上の両者の姿勢の違いにある。本田氏は一貫して「実践」志向である。具体的な状況を動かすことに専門家としての己の意義を見いだす立場である。一方稲葉氏はそれとくらべればよりアカデミズム志向が強いように思う。両者の比較でいえば、多少に雑なところがあってもいえることをいわんとする本田氏に対して、よりアカデミズム的に厳密な手続きを重んじるのが稲葉氏の立場であろう。

稲葉氏は本田氏の「うかつさ」が、研究者としての重大な欠陥であると感じ、それを批判する。一方本田氏からすれば、そのような議論は重箱の隅にしかならず、丁寧に相手する価値を感じない。構造的に両者のやりとりは一方的なものになる。

「いじめ」とは「いじめ」られた側が「敗者」であるとの雰囲気が醸し出される(そしてそれが「いじめ」る側のねらいである)ものであるのだが、そしてその構造は「炎上」も踏襲するのだが、本件はブログを閉鎖した本田氏が「敗者」であるという空気は醸成されているのであろうか。むしろ稲葉氏の言い訳じみた弁解が「敗者」感を漂わさせてさえいないか。

こうした意味で私は本件を本田氏への「いじめ」という語りには全面的には同意できないのだ。稲葉氏は本田氏を「攻撃」しようとして、本田氏がそれを相手にすることを避けた、基本はそれでしかない。

なお稲葉氏は自身のブログで「これはまったく勝ち負けの問題じゃありません」と述べている。それは全くその通りではあるのだが、しかし当該エントリこそもっとも「勝ち負け」の拘泥しているように読める。だいたい「勝ち負け」がどうでもよいのなら、相手のブログのコメント欄でレフェリー気取りの書き込みなどしないものだ。私の印象からすれば、勝ち負けなどにこだわらず実利(益のない相手とは議論をしない)を取ったのが本田氏であり、勝ち負けに拘泥し続けているのが稲葉氏である。