重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

(たとえばモーニング娘。とアルチュセールを*同時に*語る、ということ)

日々思いついたいろいろな話を無責任に書きなぐるモノローグ

言説の内と外

仕事が大量にたまっているのに一向にはかどらない。ライブドア事件が面白すぎて、というわけでもなく、単に鬱状態が直らないだけだ。

まとまったことを書くだけの精神的時間的余裕はない。備忘録代わりにネットウヨの話をざっくり書く。

ネットウヨが敵対しているものは端的に言って「言説的構築物」である。理念・理想そういうものに込められた価値をかれらはうさんくさいものとして否定する。人権・平等、それらは偽善的なものとしてみられる。こうした言説的構築物こそがタブーを作り出す抑圧的なものだと捉えられているのだ。リアルな真実はこの言説的構築物の外部にある。そしてかれらがリアルだと感じるものはかれらのナイーブな感性なのである。

偽善的な言説的構築物の代表的なものが戦後民主主義であり、朝日新聞的言説なのだ。「人は平等です」、「差別はいけません」、そうした言説への拭いがたい不信感と恨みともいうべきものがここで表現されているのだ。恨まれているのは「説教がましい」「教育的な」言説なのだ。それは確かに抑圧されたという経験をかれらの心に刻印したのだろう。

一方、今、中国や韓国が目の敵にされていること自体は取り立てて珍しいものではない。隣国をライバル視すること自体はありふれたことであって、ましてや今中国、韓国とも「アジア一」の「経済大国」を自認する日本の前に強烈に立ちはだかっている。そうした対抗心が、ある閉塞感を持った社会においては、競争相手への否定的感情を呼び覚ますことは当然あり得べきことだろう。

だから「勝ち組」であった堀江氏がアジア関係において「良識」的であったというのも当然のことだ。ライバルの存在を事業のチャンスと捉えられるだけの余裕があるから「勝ち組」なのだ。中国や韓国の存在に脅威を感じ、また恨みを抱くというのはそれだけ今の社会に閉塞感を感じているということの証である。

今の反中・嫌韓感情とはこのような迫り来る、そして場合によっては「私」(の国)を追い落とす可能性を持っている(と妄想する-そしてその妄想自体は何ら「今」という時代に特有のものではない)隣国に対するある種平凡な反応なのである。その感情が言葉として垂れ流され、さらに感情が増幅されるという事態こそが問題なのであって、それはそうした感情の垂れ流し、増幅に釘を刺すべき理念的言説がその価値を失っていることによって歯止めがきかなくなってきているということを示しているのだ。逆に理念的言説の存在は、その言説への反感から、自らの実感により近い中国や韓国への否定的感情を語ることの方がタブーを打破する、革新的な行為だと捉えさせ、一層の「本音」言説を垂れ流させるという効果をもたらすことになる。言説的構築物への否定が、素朴ナショナリズムという感情を言説に編成するのだ。

こうした言説状況への対抗策はいろいろ考えられるだろう。かれらの感情そのものの持つ抽象性に目を向け、さらに具体的な感情を提供すること。理念的言説そのものを再建すること。そして今の感情から言説への単純な編成を混乱させること。

しかしそうした対抗策を講じる前に社会科学関係者として反省すべきことがある。それは言説的構築物の持つ価値それ自体を否定する議論をあまりに社会科学が無定見に重ねたことである。価値相対主義や脱構築といったそれ自体は実質的な価値を持った概念を、日本の社会科学はあまりに安直に消費してしまった。90年代後半の社会学系の学会報告などどこぞの具体的観察対象から「言説的構築物」を見つけてきて、それを指摘して悦に入る、というもので満ちあふれたものだ。

私たちの闘争の場はどこまで行っても言説内部でなければならなかった。言説の価値を言説の外部から攻撃するとき、シニシズムへの扉が開かれる。

堀江氏への好悪

日曜日のサンデープロジェクトとかいう番組で田原総一郎とかいう斑ボケ老人がライブドア問題を扱っているときに、司会のうじきつよしにむかって「君はホリエモンが好きか嫌いか」とかいう訳の分からない質問をしつこく繰り返し、解答を強要しているのを見た。うじきもさすがに困って、「好きか嫌いかといわれても・・・」と口を濁し(まともな知性のある人間なら当然の反応だ)、それが一層田原のいらだちを駆り立てたようで、なにやら一人で興奮していた。

とそんなことはどうでも良くて、私は堀江氏(あ、今は容疑者なのか)を好きか嫌いか、といわれれば、まあ好きということは別にない、しかし嫌いかといわれても腹の底から別に嫌いではない、とそんな感じ。「腹の底から」と書いたのは、「好き嫌いの問題ではない」という「正しい」ことはさておき、本音の好き嫌いを聞かれてもそうとしかいいようがない、ということだ。さらに付け足せば、別に好悪の感情を持つ対象ではない、というほど突き放してみているわけでもない。そうではなくて、好きではない部分も確かにあって、でも嫌いになれない部分もあって、差し引き0だ、というぐらいの感じだ。有り体に好き嫌いで言えば楽天の三木谷氏のほうが私はよほど好きではない。

別にそんな私個人の好悪など書く必要はないのだが、やや扇情的な言説があふれ出しかねない今の状況、一応堀江氏について物した者として感情レベルのスタンスは表明しておこうと、何となく思った。

孤立を気取って孤立をおそれる

前に書いたときにすでに前兆は現れていたようにも思うが、ネットウヨの総本山ともいうべき2chの言説が変わってきている。変わるといっても今までと別の方向に流れているということではなくて、今まであった大きな流れが混線し、流れが見えづらくなっているということだ。

小泉首相や安倍晋三氏への評価も割れ始めている。女系天皇の問題、社会保険庁の問題、そして耐震偽装工作問題から、今のライブドア問題、これまでのように「右向け、右」とは行きにくいことがいろいろ起きている、ということなのだろう。

かれらをこれまで突き動かしてきたかのように見える反中嫌韓論についても読売新聞の渡辺恒雄氏が小泉首相の靖国参拝を批判したところから、あるいは少し変わるかも知れない、とさえ思う。ネットウヨたちの渡辺氏への評価は実はよく知らない。ただどう考えても「左翼」ではない人間たちが靖国参拝に疑念を呈している、というだけで変わりうるのだ。

私は以上の文を、期待を込めて書いているのではない。単にネットウヨと呼ばれる言説のある種の脆弱さを指摘しているだけだ。もともとこの言説には守るべき理念など最初からない。だからちょっと風向きが変われば簡単に説を曲げられる。勝ち馬にのる、根本にはそれがある。

しかしまたその脆弱さは言説の危険性を排除しない。それをいうならファシズムだって脆弱だったのだ。敗戦後のイタリアファシスト政権の解体ぶりを見よ。守るべきものなど何もないから、レジスタンスなんて運動も機能しない。

ネットウヨ言説は、私はずっと「右翼」とは書かないようにしているがごとく、右翼思想とは全く関係がない。かれらを突き動かしているものは保守思想でもなければ、右翼思想でもない。アジア蔑視でもない。もっとずっと「物質」的なものだ。かれらを取り巻く状況がデュルケームのいう「アノミー」状況に陥っていて、その中で「生」を求めてあがきながら言説を垂れ流しているのだ。それはまさにかつての左翼の標語「連帯を求めて孤立をおそれず」の背後にある心的状況、「孤立を気取って孤立をおそれる」と重なるものでもある。

もちろん、だからといって、「ネットウヨ」言説の内容が全く恣意的、偶発的なものだ、といいたいわけではない。反中・嫌韓が「選ばれた」のにももちろん「物質」的な理由は確かにあるだろう。そしてそれ自体はとてもありふれたものだ。ただそのありふれた物質性(いってしまえば経済的利害関係)とネットウヨ言説生産者たちの「私」、「生」の実感とが見事に結合したところにこの言説の本質がある。それについては後日考えたい。

シニシズムの申し子たち

ライブドアの堀江氏はある意味、シニシズムが支配する時代状況に非常に即したものである、と言えるだろう。すでにさんざん言われていることであるが、戦後すぐに起こった光クラブ事件を彷彿させるものがある、というのは、その背後にある時代状況も含めての話である。半世紀以上経った月日を超えて、既存の価値の解体とそれに伴うシニシズムの醸成という流れには明らかに類似性を感じさせられる。

シニシズムは既存の価値への疑いをその心性の根本に置く。しかしそれは新たな価値を直ちに志向するものではない。そうではなくて、価値そのものから超越した存在であることを志向するものなのだ。

そして今の日本のネット言説を覆っているのはこのシニシズムである。それは2chにおいて議論が白熱すると必ず提示される「必死だな」という言葉の中にも端的に表れている。何か、誰かのために語ってはならない。それは感性的には「ダサい」ことであり、理論的には既得権保持だとか、偽善だとかレッテルを貼られる。「弱者の立場」が今や社会的公正ではなく、逆に偽善と既得権保持の代名詞となっているのだ。

そして今の日本のシニシズムにおいて疑われているのは、おおざっぱに言えば「戦後民主主義」とそれを担った「進歩的知識人」的言説である。今シニシズムに浮かれるものたちがもっとも忌み嫌っているのが朝日新聞である、というのはそれを端的に示している。

かような朝日新聞的なるものが体現しているものは何か。それはある意味一貫した何ものかではあろうが、しかし個別事象を並べてみれば、とても幅の広いものでもある。

戦争責任問題から日本のナショナリズムへの否定、排外主義的な心性の否定へと流れるアジア協調主義、家父長制的体制の否定から男女同権を掲げるリベラルフェミニズム、一切の暴力を否定し、理性・知性による統治を是とする主知主義、そして貧富の差を生まぬ平等を志向する反経済中心主義。

これらの「朝日新聞」的なるものは確かに何かしら一貫したものをもっているが、しかし個別問題においてはその賛否は問題ごとに分かれるのもまた当然である。そして朝日新聞的なるもの一切を否定しようというものもまた何を否定するかへの優先順位付けは当然違ってくる。

否定は肯定の裏返しである。シニシストは既存の価値を超越してみせるが、その背後にある価値への執着を持つ。それはかれらが疑って見せた言説的な価値よりも強固なもの、「実体」感のあるもの、恣意性を排除しうるとかれらが妄想できるものである。

その拠点となるのは「私」である。「弱者」といった「他者」が否定されたあとにはそれが残る。ただその「私」の何を実体とするか、が分かれるのみである。

「私」の頭。「私」の考えたこと。個人が知恵を絞って把握できるレベルの合理主義信奉。

「私」の感性。素朴ナショナリズムへの回帰。

「私」の経済的利害。「勝ち組」などという(もともとの言葉とは無関係に今や)下品きわまりない言葉が満ちあふれるのを支える心性。

他にもあるだろう。そしてそうした「私」の様々な「実体性」は矛盾対立をはらみながら、各々の中で一つの思想を形成する。

反中嫌韓に明け暮れる「ネットウヨ」たちもシニシズムの申し子である。そして今かれらがバッシングに明け暮れる堀江氏もまたシニシズムの申し子なのである。

割り切りへの執着

あまり更新期間を空けるのも何なので無理気味に更新。

体調が悪い。常に息が詰まっているような感じ。酸素が十分に体の中に入ってこない、とか、血液がどこかに滞留している、とか、そんな感じ。

情報をだらだら眺めることは出来るが、自分で何かを生産できるような状態ではない。

そんなこんなでライブドア関連のニュースはだらだら見てはいるが、だからといってそれで何か積極的に思うほどのこともない。とりあえずは

今、世の中でIT企業と言えば、真っ先に名前が出てくるのがライブドアや楽天といった企業名だろう。しかし一応はIT業界の片隅で取材をしている身としては、少々違和感を感じている。ライブドアがIT企業? う〜ん、そうは思わないんだがなぁと感じるからだ。

本田雅一の「週刊モバイル通信」

の通りのことを思うぐらいだろうか。

ライブドアが村上ファンドと同じ会社である、といわれれば、それはそれで納得できるのだが、IT企業といわれると納得がいかないな、と。せめて何か特別な技術を持っていて、それが元手になって金が出来て、M&Aとやらを出来ている、というのなら、まだIT企業といってもいい気がするが、ライブドアの独自技術ってなんかあったっけ?

ライブドアといえばまずは無料プロバイダを思い出し、で、今のライブドアはその名前を引き継いだだけだというのは何となく知っていて、あとはOperaがらみで販売権をトランスウェアから強引に奪い取ったとか、Lindowsというまがい物的Linuxの日本での販売元になっていたとか、IT関連ではそんなぐらいのことしか知らない。ブログサービスとかポータルサイト運営とか、やっているのは知っているが、別に目新しいものはそこにはないし、そういう意味ではライブドアならではのものは特にない。

M&Aとかそういうのはよく分からない。一般的に言って買収した企業を再生したり、より企業価値を高めるようなノウハウをもっていないとそういうのは意味がない気がするが、ライブドアにそれがあったかどうかはよく知らない。単に買収して、ライブドアグループの株価の総額をつり上げているだけだとしたら、そりゃある種の「ネズミ講」でしかないわなあ、と事後的には思うけれど、それぐらいか。

では、私にとってライブドア問題の何が面白いのかというと、やはり堀江氏本人なのだろう。堀江氏の思想、あるいは無思想。まさに理念型としての資本家。実際の、具体的な資本家にはイデオロギーがあるものだが、そこが見事なまでに一種のゲーム空間におけるプレイヤーに徹せられる無思想ぶり。それが珍しいとかそういうのではなくて、まさに今の日本社会の言説状況と呼応しているようにも感じられる。

面白いのは無思想そのものではない。むしろ逆に、無思想的振る舞いの背後にある強烈な執着。「金の亡者」とかそういう世俗的な執着ではなくて、「無思想」そのものへの執着。「すべては金だ」という割り切った態度への執着。

遊びのある理論

今「左翼」はどうあるべきか、何を価値として守るべきか、ということをつらつら考えている。そんなときに読んだ新聞記事より。

毎日新聞1月12日「しかる教育からほめる教育へ」水谷修

人はほめられることでどんどん夢を見て成長していくのに、それがない。小泉内閣になってからこの4年間、めちゃくちゃにひどくなった。歩けない人間に走れと言うんですか。そのペースでいいじゃないですか。国民はいろいろな病を抱え、いろんな障害を抱える。・・・ゆとりがないんです、小泉さんの政治には。・・・

なにが「刺客」ですか。70%の支持が得られた、30%は支持していない。70%の言うことを聞けばいいというのは、日本の政治じゃなかったはずですよ。それが味方でなければ敵と言う。・・・

今、遊びのない論理だけで突っ走る大変な時代が来ているんじゃないでしょうか。

水谷さんは別に左翼思想から何かを言っているわけではない(だろう)。教育現場にいて、子どもを見ていて感じた実感を語っているのだと思う。そうであればこそ、ここには今の時代状況の中で切り捨てられつつある大切な価値が表現されているようで、少なくともそれを「左翼」が受け止められずして何が左翼かと思ったりする。

遊びのない急進的な合理主義、それはかつての「共産主義」にも当てはまる。そして今の小泉政治、さらには「松下政経塾」出身者を中心とする自民・民主の若手議員たち、そしてそれを支持する「若者」たち。

「遊び」とは何か、それを情緒的ではない言葉で、理論化して語りたい、そう思ったりする。

エネルギー生成の場

ある関心から2chのとあるスレッドを閲覧してみた。

年金未納者に社会保険庁が強制執行を検討してるとかそういうことに関する話題。

そのスレッドでは小泉首相は「子鼠」と呼ばれて、その年金政策の無策ぶりを叩かれていた。そのスレッドは、おそらくいわゆる2chねらーと呼ばれる人が書き込んでいるものと思われる。なんとなればことあるごとに中国ODAを廃止せよ、という一文が忘れず挟まれるからだ。まさに「ネットウヨ」言説の本場での小泉批判。

郵政民営化には賛成だったから自民に投票したが、今度は社会保険庁解体を民主がきちんと主張すれば民主だ、などという発言もある。

発言の正否はさしあたり置こう。まず感じるのはそのスレッドの発言内容はそのほとんどが非常に「身の丈にあった」ものだ、ということだ。日本民族、などという抽象的な概念など出る幕もない。血統だとかY染色体がどうとか、そういうよく分かりもしない怪しげな概念も登場しない。端的に「不公正だ」、それだけ。

もちろん社会保険庁を悪者にして、何がどうなるものでもあるまい、などと意地の悪い突っ込みは出来るだろう。しかしそれはそれとして、まずもって自分たちは何か損をしている、その感覚からの発言はとても「正直」なもののように感じる。

もちろんたまたま見た一つのスレッドのお話だ。そこにはおそらくいわゆる「正社員」ではない人が多く集まっていたのだろう。しかしこのスレッドでも、他のスレッドでも、何かしらこうした鬱屈やら、不安やらを漠然とでももっていて、それが2chという雑談掲示板を突き動かしている側面は確かにあるのだろう。

そうした行き所のないエネルギーがちょっとしたきっかけで「他者」に向けて収斂する、というのは今までの歴史においてさんざん繰り返されてきたことだ。その「他者」として、いわゆる「権力者」が取り上げられるか、己よりさらに弱い立場のものに向かうか、はたまた「外国」に向かうか、それはこのエネルギーからすれば外的な要因にすぎない。

経済活動

鬱状態が続く。

体調が悪い。口内炎が出来ていて、食事がつらい。

木曜日は久々に大学で講義をしたら、途中で腰が痛くなって、立っているのもつらくなった。なんで立ってしゃべっているだけで腰が痛くなるのだ。

そんなこんなで、やらなければならない仕事がたまっているのに、全然はかどらない。体の一カ所が痛いだけでも、作業効率が落ちまくるへたれ。ここ数日は普通に呼吸をしているだけでもしんどい。

ちょっと思うところがあって、お金の計算なんぞをしてみたりする。普通預金に置いてあるお金を定期に預けなおしたらどのくらい利子が付くのか。今利率がどのくらいのものか、そんなことも実は知らない。ほとんど利子など付かないぞ、と頭から思っていて、調べても見なかった。

えーと、最大限に有利な定期貯金の利率は、と。

0.3%?

えーと、例えば、あくまでたとえ話ね、例えば一億円あったとして一年間に利子30万円?

あ、結構です。

Do Left

気がついたらアンテナからまたも見放されて、1月2日以来更新されていないことになっている。「手動更新」というのをいちいちやらなければならないのか。面倒だな。

ただわざわざ手動更新などと手間をかけてまで、見ていただくからには何か内容のあるものをと思うと書けない。困ったことにまたもや鬱状態で一日中寝て暮らしているのだ。

本当は「左翼」とは何か、ということを考えようとしていた。たとえば大塚英志さんの言う「左翼」をやる、というのはどういうことなのか。逆に今のネットを覆う「ネットウヨ」とは何なのか。

「イデオロギー対立」の時代は終わったと喧伝され、「左翼」「右翼」の区分けもかなり曖昧になってきているようにも見える。しかし様々な社会問題やらを取り上げたとき、それに対する姿勢はやはりいちいち「左」「右」の刻印を帯びる。

現象的には今のところ東アジア諸国と日本との関係への姿勢がもっとも象徴的なリトマス紙となっているのだろうか。しかしそれはあくまで現象にすぎないだろう。もう一つ、自民党の保守派連中がやたらと争点にしたがっているようなので、嫌でも思い出さされるのが「ジェンダーフリー」か。確かに感覚的にはこの二つの問題に対する態度は比較的すっきり「左右」に分けられてしまう。しかしその「左右」を分割する論理的根拠は何か。なぜ「左」は例えば上記二つの論点において「左」の立場を取るのか。

安定した社会なら「体制」と「反体制」というキーワードでまとめられよう。しかしこの区分けは例えば、旧ソ連における「左派」「右派」をどう定義するか、などのように混沌とした社会においてはまるで役に立たない。そして今「改革」はやりの日本の言説状況においてもこのキーワードはほとんど役に立たない。

それでも先にも書いたように今なお確かに「左」「右」というのはある。そしてまた今なお断固として「左」として守るべき価値があるという確信も持っている。あるいは今の言説状況の下で失われ、あるいは脅かされつつあるものがあるという実感がある。その「左」が守るべき価値とは何なのか、それを今考えている。

サイトデザイン変更

液晶モニタを導入したことで、これまで見ていたThinkPadのやや青っぽい表示に比べて、より「正しい」と思われる新しいモニタのsRGBモードの表示からこのサイトの色合いを確認したら、ThinkPadから見ていた印象に比べ、灰色があまりにまともに灰色だったので(当然)、もう少し私好みの青っぽい灰色に色合いを変更。

液晶モニタ導入記

正月ぼけか、寒さのせいか、あらゆることにやる気がない。

そんな中、仕事環境を少し整えようと液晶モニタ導入。

去年の11月に2001年に購入した16インチの液晶モニタが故障。メインで使っているT40の14.1inchSXGA+の液晶では目につらく、新たなモニタを物色していた。

この際思い切って20inchクラスのUXGAモニタにするか、格安の17inchモニタにするか。前者だと予算10万円、後者だと2万代後半ぐらい。コストパフォーマンスを考え、17inchのでいいや、と思い大阪のPCショップを梯子。

年末にソフマップで三菱のRDT1711Vが2万5千で売っていて、大いに惹かれたのだが、その日は別の目的で大阪に来ていたので見送り。その後kakaku.comの掲示板を見たら、ずいぶん評判が悪くて、買わなくて良かったと思う。それからそこに書かれていたことなどを含め、ネットでいろいろ調べてみると、今17inchクラスの液晶は古い規格であるTNパネルを用いているものが多く、それは避けた方がよい、というのがこだわり派の言い分のようだ。比較的新しい規格であるS-IPSかVAパネルを用いたもののほうが視野角、色の再現性などを含め、圧倒的によいらしい。

そういう観点で改めて17inchモニタを探してみると、NANAOのFlexScanS170が良いのではないか、ということになった。明らかに他の17inchクラスの液晶に比べ、価格は高いのだが、今や廉価モデルばかりになった17inchの現行モデルでまともなのはこれぐらいだという。

年明けてやはりソフマップでそのS170が4万9千円プラスポイント7%で売っているのを発見、ポイントを換算すればkakaku.com最安値とそれほど差がなかったこともあって、購入。

とりあえずものとしての文句はない。ノートPCの外部出力端子からの接続なので、アナログ接続なのだが、壊れた前のモニタのかなりぼやけた表示とは一転して、とてもくっきり表示できる。高さや角度の調節もかなり柔軟に出来るなど、表示以外の部分での満足度も高い。液晶パネルだけでなく、作り全体においてとても良いものだ、というのを感じる。さすがに17inch液晶モニタとしては高級品だけある。なんといっても当初買おうとしていた2万5千クラスの液晶が二台買える価格なのだ。

と考えていて、ちょっとおや、と思う。5万も払うのであれば、20inchクラスはまだ届かないにしても最初考えていた圧倒的な価格差の印象はずいぶん変わる。あるいは19inchモニタだって買える価格帯ではないか。こんなに安いんだったら17inchでいいや、ということで絞り込んだ選択だったのに、当初の思いとは明らかにずれている。

さらに考える。ネットの割と「こだわり派」の評価につられて2万5千円クラスのモニタを買わなくて良かったと思ったけれど、そもそも私はそんなにモニタに関して「こだわる」必要があったのか。故障する寸前のぼけぼけ表示の16inchモニタよりも良くなれば満足できたのではないか。視野角?正面からしか見ませんが。色の再現性?私、色音痴(というのか?)なのですが。テキストがはっきり表示されればそれでいいのであって、それ以上に求めるものはなかった。大体TNパネルがどうといっても、これまでずっとそれを使ってきたのだし、ノートPCをメインにする限りこれからも使い続けるわけで、デスクトップモニタでそれを忌諱しても仕方がないのではないか。

知識は知識として、それの私にとっての価値判断を誤ったかな、と反省。情報に振り回された典型かも。

もっともNANAOの企業としての姿勢はいろいろ好きだし、逆にあまり意味のないカタログスペックだけ上げた安物を安く売り、又そればかりが売れる、という状況には憂うべきものがあるとも思うので、そういう意味では「正しい」買い物をしたかな、という思いもある。そしてまたそうした意味でThinkPadとNANAO、良い組み合わせかも知れないとも思う。

週間ポスト

不純もとい純粋な動機で買った「週刊ポスト」だったが、記事も思いの外面白かった。

三浦展「下流社会」の楽しみ方−成果主義が招いた「教育放棄社会」。

現在の企業風土においては、成果主義の強まりによって、教育がおろそかになる一方で、「ハイパー・メリトクラシー」と言われる「創造性や交渉力、コミュニケーション力」といったより「性格」に近い能力が重視される傾向も強まっているという。「性格」に近い、というのは能力を伸ばす方法論が確立されていない、という意味であり、それだけに今の若手はより一層の不安な状況に追いやられることになる、という趣旨。

「ハイパー・メリトクラシー」社会とは今の社会状況をとてもよく言い当てた上手い概念だと思った。教育社会学の本田由紀さんが提起している概念らしい。勉強不足、週刊誌からそんな情報を仕入れる。今後要注意の概念。

「2006年」はこの人に訊け!−今の日本は"10%の大衆"が作り出した民意の「翼賛下」にある 大塚英志

保守論壇を中心に小泉的「ポピュリズム」への脅えが噴出しているが、それもこれも「右」の大衆迎合路線のつけだ、と余裕をかます。

私はどちらかというと「右」よりも今の「翼賛」的なポピュリズムのほうがずっと怖いので、「脅え」ているほう、あまり余裕はかませない。

それはそうと最後の締めはさすが。

かつてのようにおずおずと「翼賛」に加わるのか、「ことば」を職能とするものの責任を今こそ全うするのかが問われているはずだ、と他人事のように言っても意味がないので、ぼくは今年もきっちり「左」をやっていくと、記しておく。

これには付け加えることは何もない。

懺悔

看護学校の採点終了。

題材はビートたけしの環境保護運動批判。その文章を読んで、内容をまとめた上で批評せよ、というもの。元ネタは大学入試なのだが、人間と自然環境についてのあなたの考えを述べよ、というのを変えて、課題文を批評せよ、と。各々好き勝手な環境論を語られても採点のしようがない。もちろん「批評せよ」としたところで大差はないのだけれど、最初に内容をまとめさせたのが大きかった。これで差が出る。

ビートたけしは一本調子で議論を進めてしまうのだが、しかしそれでもよく読めば複数の論点が関わってくる。それをきちんと把握して、各々の論点について議論を進めることが求められる。ビートたけしの主張自体への賛否はどちらでも良いのだが、元が単純なビートたけしの議論、単純に賛成の立場で書くと多くの論点を取りこぼしてしまう。なんと言ってもいつもの偽善暴露スタイルで環境保護運動の極端な部分をあげつらって腐しているだけなのだ。というわけで批判的な立場で書いた方がどうしても点数は良くなってしまう。

と、まあ採点は案外すんなり出来た(普段論述問題の採点は差が付けられなくて困る)のだが、「模範解答」を寄越せと来た。論述問題に模範解答もへったくれもあるか、と思うが、仕方ない。

西洋自然哲学史の話を織り交ぜたものになってしまいました。そんな話、授業で一分もしてないや。そして最後の締め。

以上のように、課題文の筆者の主張は、環境保護について論じる際の主要な論点を丁寧に論じることなく、筆者の「欺瞞暴露」という志向に流されて単純化して環境保護論を批判したものであり、やや安きな煽動に流されたものと映る。

環境保護運動も様々な政治的・思想的立場に分かれており、課題文の筆者が批判するような側面を持つものがあるのも確かである。しかしそうした極論に極論をぶつける筆者のやり方は生産的とは思えない。その運動の持つ最良の部分を引き受け、なおその中にある問題点を取り出し、前進させていくことこそが議論として生産性のあるものとなる。そのためにも、環境保護運動の持つ様々な背景をよく理解し、その主張を丁寧に読み解くことから始める必要がある。課題文の筆者に足りないのはそうした相手の主張を正面から受け止め、それを掘り下げようとする姿勢である。

「模範解答」というのは学生が書きうる最高レベルのものを提示するべきだと思ってはいるのだが、ついつい私の趣味に走った「批評」文を書いてしまった。学生さんにとって全然参考にならない「模範解答」。

むなしいバージョンアップ

正月。普段は引きこもっているので正月ぐらい外に出て「日本の正月」とやらを満喫しようと思っていたのに、結局システムいじりに一日を費やす。

ブログシステム、細かな、私仕様の改良を施す。結構受ける人には受ける改良もやっているのだが、訪問者はまず気づかない(し、気づかせないのもシステム的には重要だ)部分だけに、しゃべれる相手がいなくて寂しい。

渡る世間は

正月明けまでにやらなければならないこと。

看護学校の採点。また模範解答をよこせと来た。いや、そんなものはないのですが。だって論述問題ですよ?

まあ回答例を書け、ということなのだろうけれど、面倒くさいな。私が書きたい文章が書けるような問題には出来なかった。いくら何でもそこまでイデオロギー的な授業は出来ない。私が書きたくない文章を書かせる問題。そんな回答例を書くのはかなり苦痛。

某NPO関連の素材作り。こちらも私が価値があると思えるようなものは作れない。もっと「一般」的なものをと要求される。自分が見て面白くないものを作るのは結構苦痛。

パラノイアには生きづらい世の中だ。

旧年暮れましておめでとうございます

今年はいろいろお世話になりました。

昨年もどうぞよろしくお願いいたします。