重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

(たとえばモーニング娘。とアルチュセールを*同時に*語る、ということ)

日々思いついたいろいろな話を無責任に書きなぐるモノローグ

もう一つの「転向」

ネット文化の変質を再確認(本当に「再」確認だったのだが、観察だけではなく、実地に経験するというのは私にとっては意味のあるプロセスではあった)して、改めてこのサイトの運営について考える。情報のオープンさ、それは誰に対しても開いた情報発信をしようという理念と、情報の発信者としての己の情報も最大限オープンにしようという理念の二つを意味する。しかしその二つが抵触してしまったのだ。言ってみれば鍵をかけず、食料を放置しておいた、というところか。帰ってきてみれば果たして食料は食い散らかされていた。今や「性善説」などを取る状況ではない。

そういうことでサイト運営においても「転向」を宣言する。私は、サイト復活時の思いを貫き、あえてアナクロニズムに徹しつづける。かつてのネット文化を一人勝手に追い求めよう。しかし交われぬ人たちとは交わらぬことにする。本サイトの2chほか匿名掲示板へのリンクは固く禁じる。言いたいことがあれば手前のサイトの一つぐらい背負ってものを言え。

我が「転向」

2chレベルの言説を相手にする、というのは徒労でしかないようでいて、意外と自分への気付きというものがある。今の自分の思想的な立ち位置について改めて分かったことがある。

「右」か「左」か、と問われれば、私は迷わず「左」と答える。世間で「左」が退潮だなんだといわれるご時世なれば、一層意固地に私はそう答える。そしてそこには何のぶれもない。

しかし「右」「左」というのは実はあまりに危うい軸だ。それは今だからそうなのではなくて、いわゆる「イデオロギー対立」華やかなりし頃から十分に危うかったし、それは15年前の私も感じていたことだ。そしてそれとは似て、微妙にずれた別の思想軸があって、そちらの軸の方側が思想的立場を表現するのにはふさわしいと感じていた。その軸とは「保守主義」対「ラディカリズム」という対抗軸である。そして15年前の私は迷わず「ラディカリズム」の立場を取ると宣言していた。いわゆる「左」には共産圏に対する態度表明が迫られていた。そして「ラディカリズム」は体制擁護イデオロギーとなった共産圏における共産主義を乗り越える希望が託された。もちろん私は「遅れてきた」世代であって、まさに学生運動華やかなりし頃の「運動家」たちもこの「ラディカリズム」の系譜にあった。

「左翼」思想の退潮と同じく、この「ラディカリズム」も、明確な思想的立場としての存在感は失われた。しかしいまネットにおける言説にはこの「ラディカリズム」の陰が浮かび上がる。

伝統・既存の社会的価値を徹底的に疑い、それを攻撃し続ける態度。一つの価値規範のみを追求し、それで社会的な多様性を乗り越えられると考える純粋さ。私の世界観で世界がすべて解釈可能であると考える傲慢さ。ラディカリズムは典型的な「青年期」思想の形を取る。言ってしまえば、かつての「左翼運動」とはこうした青年期思想の正当化に左翼理論が使われたものなのだ。

今その場所に「ネットウヨ」の言説が収まっているのだ。ただ70年代の学生運動は、その思想に自身の身体を賭けるものがいた。今のネットウヨたちは良くてブログで、多くは匿名掲示板で、およそ己の何も賭けずにただ己のナイーブな心情を代替してくれる勇ましい主張に己を重ね合わせて、何かを口先で叩いてみせるだけのことだ。

今、改めて己の思想的立場を考えてみる。「保守主義」と「ラディカリズム」の対抗軸に自身を位置づけるならば、私は明確に「保守主義」を取ろう。先人たちが紡いできた社会的価値や文化を土足で踏みにじるような輩とは断固立場を違えよう。

ネット文化の変質

思えばネットにはネットとしての文化的伝統もあった。

情報の発信には発信者としての主体的責任が常に意識されていた。情報の発信者は何らかの主体性を背負える形でなすことが期待された。メールアドレスはもちろんのこと、実名や職場を明らかにするものが普通にいた。同時に一旦発信された情報の削除にも最大限の慎重さが要された。そうして情報はそれ自体が尊重されていた。

今や匿名掲示板では、主体性を背負って情報を発信しているものを、匿名の陰に隠れて攻撃する。論争が不利となるや匿名掲示板に逃げ込んだものもいる。論争などで交わされる情報にはもはや価値はなく、単に「勝ち負け」、結果のみが大切なのだ。

そういう者たちだから、いわゆる「はてな?」のキーワード論争の場面でも、他人が書いてきた情報を己の趣向に合わぬというだけで抹殺するような運動も出来てしまうのだろう。内容はどうあれ、しかるべき手続きを持って発せられた「情報」そのものへの敬意など一切なく、単にその内容が己の価値観に合う合わないだけが重要なのだ。

このキーワード論争で面白かったのは、多くのものにとってくだらないとされるキーワードでも、それらを極力温存しようと動いたのはもっぱら技術系の人たちであったことだ。かれらはネット文化を初期から支えたものや、その文化を受け継いだものが多い。一方で後から我が物顔で割って入った技術音痴の純然たるネットユーザたちが情報の削除に熱心だった。匿名掲示板などでネット文化を破壊してきたものたちが、道徳やら世間体やらを理由に特定の情報の削除を求める。何とも皮肉な話ではないか。

粗雑な「ラディカリズム」

今の状況というのを印象論でざっくり表現するならば、まさに神と私が個々に向き合う、というプロテスタンティズム的な理念がある種のやり方で具現化されたものだ、という気がする。個人の感情とその感情を合理化する論理パズルレベルの理論が世界観を構成する。間に挟まるべき社会(社会理論、社会科学、社会認識)が欠落する。しかしその思想状況は「今」だけのものではない。にも書いたとおり、学生運動華やかなりし頃のある種のマルクス主義がまさにそのような思想形態を取っていた。

こうした妄想的な世界観は、政治的・理論的立場ではなくて、個人のアイデンティティに帰着する。己の世界観への批判は「私」への攻撃に他ならない。私の発言は言説ではなくて、私の人格そのものだ。発言内容そのものと発言した主体の人格とが常に混ざり合う。少なくとも1970年以降の社会科学はこの両者を峻別しようと理論展開を進めてきたのに、それらがすべて無に帰してしまったようだ。

今の日本の政治・思想状況は「保守」だといわれる。しかし少なくとも「ネットウヨ」と呼ばれる言説が跋扈するネット上の言説状況は「保守」ではない。保守主義とは例えば今の日本で言えば梅原猛のようなのを言うのだ。歴史・共同体・社会的感情、そういったものへの敬意も配慮も欠いた今のナイーブな言説群は、そうした保守主義者から見れば、嫌な懐かしさすら覚えるのではないか。

似非知性主義

世に倦む日日−文藝春秋1月号の誌面から − 日本人の知性劣化と「呪術の園」

日本人をバカにする運動(Make Japanese Fool Themselves)の主力は米国と政権と資本である。竹中平蔵だ。だがその運動に手を貸したのは左翼方面の脱構築の連中だ。・・・

知識的な高さや知性的な完成度に対して反発する感情を正当化するのはやめよう。無知の正当化や合理化はやめよう。知識(や先学の古典)を無条件に貶損する脱構築(ポストモダン)の態度を捨てよう。脱構築の帰結は格差でしかない。

ふむ。主張としてはよく理解できる。確かにポストモダンと呼ばれる思想状況が無際限の相対主義を、しいてはニヒリズム的心情を招き寄せた、それは間違いない。ニヒリズムはある種の「知性」やら科学的手法やらを侮蔑し、己の感情に居座る。すべてを相対化した結果残ったものが、「生」の感情であり、それを口にすることが「本音」であるとして称揚される。感情の絶対化である。

しかしむしろ今の言説状況において着目すべきはその後なのではないか。個人の感情の絶対化は社会的な言説を構築し得ない。個人の感情を「共同体の感情」に仕立てるロジック・操作が必要なのだ。そして今そうした言説編成に寄与しているのは「反知性主義」ではなくて、「似非知性主義」とでも言うべきものであるように感じられる。「馬鹿の壁」が受けたというのもこの似非知性主義の文脈で理解すべきだろう。

自民・民主若手議員やそれを支持するネットの「ブロガー」たちの主張を見てみよ。かれらがいかに(稚拙な)合理性にとらわれていることか。合理性を感情と対立させて、憲法問題にせよ、社会保障の問題にせよ、戦争責任の問題にせよ、対立する議論を感情論だと決めつけ、「合理的」な解決策を提起する。もちろん「合理性」とは「科学的」「知的」態度のもっとも原初的な形態である。この粗雑な合理主義への信仰、それが今の言説状況なのではないか。

ブログシステム

このサイトはフリーのブログシステムを使わせていただいていて、設置が楽で、動作も軽く、カスタマイズも容易、となかなかに気に入っているのだが(残念ながら現在配布は停止されている)、日付ごとの表示に関するシステムの動きがやや不便な気がする。はてな?のように「次の日」というページ移動が出来ないし、カレンダーから移動する場合にもカレンダーの月を変えても記事内容は元の日付の文が表示されたまま。はてな?のような動きにはならない。たぶんあまり日付ごとの参照というのは重視していなくて、あくまで記事ないしはページ単位での閲覧を想定しているのだと思う。そしてそれはこのサイトの趣旨にも合っているのであまり気にはしていなかった。

しかし某所からのアクセスが増えると、そこは皆なぜか日付単位でリンクを貼る(普通は記事単位じゃないのか)ので、やや訪問者に不便をかけている気がしないでもない。実際最初そこからのアクセスが来たとき、日付単位での表示機能にやや問題があって、大慌てで修正したものだ。

というわけで、暇があればはてな?のような日付単位での表示が出来るようにシステムを修正したいのだが、たぶんやらないだろうな。

今更ながらの警告?

「アクセス解析」というものが話題になることがある。今ではどこのサイトさんもやるのが当たり前になってきていて、それほどクリティカルな話題にはなりにくくなってはいるが、一般ユーザ向けのサービスが提供されだした頃には結構それに関する考察が提示されたものだ。

実際アクセス解析というのはうっとうしい、と私個人は思っている。mixiに感じるうっとうしさと相通じるものがある。誰がどのサイトを見ようと本来勝手であって、そんなものをいちいち監視してくれるな。

そうはいっても、リンクを貼っていただいたときにいちいちご報告いただかなくても反応できたりとか、そういうもの含めた利便性がやはり当たり前のものとなると、アクセス解析を全くしていないサイトの方がおそらく少数派になった。

実際アクセス解析から分かることなどたいしたものではない。個人情報には当たらない情報しか得られない。単にどのホストが何時、どこからアクセスしてきたのか、その時に使用しているブラウザの種類とか、そんなのが分かるぐらいだ。ホストのIPアドレスは確かに分かるのだが、IPアドレスなどほとんど可変、何がどうということはない。

ただどのホストが、どのページをどのように見ているのか、というところまで分かるとなると、サイト運営者としてはいろいろ参考になるところはある。一般的なアクセス解析サービスではそこまでの情報は提供されていないことの方が多い気がするが、本来サイト運営者が一番知りたいのは訪問者のサイト内での動きなのではないか、という気もしたりする。ちなみにうちのサイトはそのログを閲覧可能なのだ。

当初はエラーログだけ見ていれば十分と思っていたのだが、いろいろややこしいことが多くなって、アクセス解析プログラムとは別にそのログもちらちら見るようにしている。

というわけで、自明だとは思いつつ、当サイトはアクセスログ見ています。それが嫌だな、と思う人はこのサイトには近寄らない方がいいかもしれません。逆に言えば、私(というか一般的なシステム管理者)が把握できる情報というのはそこまでです。もっと詳しく知りたい方はApacheのログに関する情報の出ているページを検索でもして読んでみてください。別に一般的に言って知られて困る情報は含まれていないこともおわかりいただけるはず。

アクセス解析に対するサイト運営者の態度として面白かったのがdeztec.jpさんのサイトの断り書き。参考までに。

年末総決算

年末と言えども、特に変わることもない。やや休みが多く、まったりと過ごせると言うことぐらいか。

年賀状は一枚も書いていない。今年も来た人には返事を書かねばなるまいと、元旦には年賀はがきの確保に奔走することになるのだろう。基本的に今の仕事相手については住所なんて知らない。メールアドレスさえ知っていればそれで十分だ。もちろんメールで年賀状なんて意味のないことはしない。そんなことをするほどの間柄の人もいない。

今年を振り返るとすれば、お金の面での収支ぐらいか。去年よりも健康保健代が大幅に増えたことなどが響いて30万円も支出額が増えた。あ、しかも今年は収入形態がいろいろ変わったので、税金ほとんどまだ払ってないや。確定申告が怖い。

言説の顔

2chの書き込みには本来反応はしないようにしているのだが、ちょっとだけ何となく面白い書き込みがあったので反応しておく。

久々に来て驚いたのだが、

はたのはまだTKに噛み付いてんのか?!

いや、君うちのサイトにここんとこ毎日来てたでしょうが。この話題がそのスレッドで下火になってきたからといって、押っ取り刀で火付けに回る。何だかなあ。

そんなこんなでうちみたいなアクセス数の少ないサイトに対して2chで引用なんてすると、すぐどのホストから書き込んだものかが分かってしまう。ちなみにそのホストからは「通りすがり」の名でここにコメントを残してくれている。「通りすがり」などという相手にしてくれるなと言わんばかりのHNだったので、私がまともに相手にせずにあしらったのを逆恨みにしているらしく、その後何回かそのスレッドで私を叩こうと躍起になっていた。何だかなあ。

2chでの書き込みに「必死だな」というのをよく見かけるが、まさにそれは己の写し鏡であるわけだ。

とまあ、そんな具合で2chでこのサイトを話題にしている人の、このサイト内での行動(アクセス履歴)を見ていると、匿名の、顔のない、まさに典型的な「言説」のもう一つの顔が見えてくる。それが面白い。

あまり「会話」はしたくないのだが、「4台目」が引っかかったようだ。ほぼコマがそろったかな、というところ。人ではなく、PC単位でしか、当然のことながら、把握していないので。

後から書き込んだ人には上の書き込みは無理なの。残念ながら。

12/29追記

アホな文を見ると反応するのが癖なので。

「通りすがり」が書き込んだおかげで、

「オレリンク貼ってアク禁食らったけどサイトにコメントはしてないマジで 」

と書いた人が嘘を書いていることが明らかになったわけだ。

で、「久々」を書いた人はまさに「通りすがり」だったわけだ。ということで上のエントリは全く正しかったことも明らかになったわけだ。

数日前に来た印象をそのまま数日後に書いたってあんた、それを言えばその通りだろうけれど、それは読解力の問題でなく伝わりませんぜ。じゃ。

執着が消える

社会科学における「実験」というのはなかなか難しい。やり直しがきかないし、また対象の完全なコントロールも出来ず、また効果の測定も難しい。

そんな一般論レベルの話ではなく、ちょっとした実験をやろうとしたのだが、失敗。でもこれまた一般論として、社会科学の実験というのは悪趣味なことが多いのであって、自分でもほっとしていたりもする。それにいろいろと何となくどうでも良くなった。君も私も一生懸命何かに執着しているのだ。それを感じ取れたとき、私のあることへの執着が消えてしまった。

などと書いているのは、別段謎かけをしたいわけではない。執着ということについて機会があればもう少し考えてみたい、その課題提示をしたかったまでだ。

一応、実験の痕跡はこのページに残しておいた。王様の耳はロバの耳。

言説生成の瞬間

クリスマスだというのに、そしてさして差し迫った仕事もないのに、寒くて家を出る気がしないとかそんなのを言い訳にして、じっと引きこもる。クリスマスだからといって妄想にくれるほど若くもなくなった。クリスマスとは無縁の、私の持病である「引っかかり」に付き合う。

本来言説はその表面に現れた字面だけを扱うのが正しい。そこに書かれているものがすべてであり、それが書かれるにいたった具体的な書き手の背景だとか、心情だとか、そういったものは捨象されなければならない。本来は。

でも例えば2chのような、まさに典型的な言説が生成するエネルギーの一端をかいま見るのに少し「裏」のようなものが見られれば、それはそれで面白い。例えば群衆の中に誰かが叫ぶ。「あいつを殺れ!」。それが引き金になって暴力が暴発する。最初に叫んだのは誰か。そしてそれはどのように拡大し、止められない集団ヒステリーを招くのか。例えばそんな力学を読み取ること。

実際そのような集団のただ中には放り込まれたくはないし、また言説レベルでのそういう集団的な心理が結集する可能性をすこしでも減らすように動きたい、という思いは常にある。そうであればこそ、2ch的な言説の生成の、その一端を垣間見られるとすれば、それはとても興味深いことではないか。

そういう思いでいろいろ調べ物をしていた。私個人としてはとてもいろいろなことが分かって面白かった。またいずれこのサイトでその内容を書く機会もあるかも知れない。

聖なる夜の指針表明

いかんいかん。

「まとも」なことを書こうとは思ったが、こんなお勉強じみた話をしたかったのではなかったのだ。ましてや社会を大所高所から論じる、とか、「べきだ」論みたいなのを展開するとか、そんなことをやりたくてこのサイトを開いたのではなかった。もっと日常のささやかな事象の中に宿るユートピア性を発見し、一人で喜ぶ、というそういう暗くも楽しいサイトを目指していたのだ。

「はてな?」に移る前はある程度そういうことが出来ていたのだが、「はてな?」から再びこっちに戻ってきたときに「楽しいこと」はすべて「はてな?」の方に置いてきてしまったようだ。「はてな?」が表、こっちが裏、そんな使い分けをしたかったわけでは全然ないのに。

もっと主観的、感性的な記述を心がけること。「正しさ」ではなく「面白さ」を価値として追求すること。規範的価値ではなく、文化的価値に重きを置くこと。批判ではなく、批評を行うこと。そしてなっち他ハロプロの中に宿る・・・ってこれは「はてな?」の方で。

ハロプロファンは犯罪者予備軍か

これは私が引き受けるべき論点でもないし、他の誰かが突っ込むべきものだと思うのだけれど、誰も突っ込んでいないみたいで、しかしあまりにひどいのでいきかけの駄賃で突っ込んでおく。

普通 人は恨みもない見知らぬ人を撃つことには抵抗があります。軍隊においても「撃て」と命令されて実際に兵士が発砲できる割合というのは意外なほど低い。この割合をあげるためにさまざまな訓練法が開発され、その発砲率は南北戦争時代の15%から現在では90%オーバーまできています。その中で、アメリカ軍ではこの訓練に精巧なシュミレーターを採用しています。・・・

それと一緒で、日々ブラウン管の中でアイドルとして提示されている小学生の女子を愛でる行為は、ローティーンの女の子を愛玩や応援、擬似恋愛の「標的」として認識する反復訓練を受けているようなものです。シミュレーションゲームで培った反射が実戦で有効ならば、アイドルで培った反射が現実世界に有効でないと誰が言い切れるでしょうか。もちろんほとんどの人は愛玩や擬似恋愛の領域を出ないでしょう。しかし、分母が多いとその中に別の意味での「標的」としてしまう人間が出現する可能性は高まります。それはもっと複雑な条件が複合的に重なった結果だとは思いますが、そうなった時に、ハロプロが直接の原因とは言えないと思いますが、無関係だとも言えないと私は思います。

えだは

これを読んで腹を立てない「ハロプロファン」はよほどどうかしていると思う。モーニング娘。コンサートには「誰々ちゃんパンツくれー」とさけぶ気色の悪いオタクがいるなどと娘。ファンを貶めた北原みのりと同レベルの発言ではないか。

論理的には飛躍しまくりで、しかもそのことを書き手自身が分かっていて最初から逃げを打ちまくっているので、どうしようもない。「誰が言い切れるでしょうか」「無関係だとも言えないと私は思います」、この二つのタームですべての論理的欠陥を免罪化しようとしている。しかしいやしくも社会に向かってものを言おうと思うのなら「私が言い切れること」「関係があると主張できる」ことを書けよ。不在証明の困難さという誰もが使おうと思えば使える逃げ道に最初から引きこもって、「論旨」が聞いてあきれる。

本来この時点で突っ込みようすらない文章なのだが、一応内容について突っ込んでおく。あ、その前にどうでもいいけれど「シュミレーター」じゃなくて「シミュレーター」ね。とかこういう突っ込みは確かに「たかが言葉のミステイク」で片付けていいお話だ。

アメリカの軍隊の話は、最初の前提を無視しているから話がおかしくなる。シミュレータが人をして人を撃たしめる最大要因の訳がないではないか。最初に戦争という文脈があって、そこでは人を撃つということが社会的価値としても、己の生存を保証するという意味でも、正しいことだという前提があることが重要なのだ。そうした前提の元でなお、人は人を撃つことにためらいがある、その最後の一押しとしてシミュレータが採用されたというだけのことだ。実際そのようなシミュレータなしでも戦争においては人は人を撃ってきたではないか。15%から90%などという数字を出してみせるが、南北戦争と第二次世界大戦の比較を要する文脈を自ら設定しておいて、その本質的違いをシミュレータの有無などに帰着させられると本気で思っているのか。数字を持ち出すのであれば、同じ時期の同じ戦争参加者にシミュレータを用いたものと用いなかったものの二群を用意してその差を見る、ぐらいの結果を出さなければ何の意味もない。

そんな粗雑な議論と「一緒」の議論でハロプロファンを性犯罪者予備軍呼ばわりしているのだ。本当に「一緒」であるならば、ハロプロファンは「性犯罪(かなにか)をせよ」と社会的に位置づけられているとかそんな前提を措定しなければならない。少なくとも先の文章にはシミュレーションゲームファンは銃犯罪を犯す可能性が高い、などということは一言も書かれていないのだ。

しかもここで「標的」などという言葉を用いて読者をミスリードしようとしているが(これは印象操作ね)、「ローティーンの女の子を愛玩や応援、擬似恋愛」することのどこが問題なのだ(「愛玩」は意味が不明確なので微妙だが)?もちろん書き手はそれは分かっていて、「もちろんほとんどの人は愛玩や擬似恋愛の領域を出ないでしょう。しかし、分母が多いとその中に別の意味での『標的』としてしまう人間が出現する可能性は高ま」る、と議論をつなぐ。まさに「標的」という言葉の効果が最大限に生かされているわけだ。

ここでもまた「分母が多いと・・・可能性が高まる」というよく読めば論理的に意味不明なことをいっている。何と比べて「可能性が高まる」と言いたいのだ。文脈から察すれば「ハロプロファン以外」と比べて、であろう。しかしそう書くとそこには「高まります」などと言い切る根拠など何も持っていないことに気づいていて、そこをぼかして「分母が多いと」悪いことをする奴も含まれるというそれこそ当たり前の論理を持ち出して、またしても逃げを打ったわけだ。

よくもまあ、こんないい加減な議論で自分も含めたハロプロファンを犯罪者予備軍呼ばわりしたものだ。もう一度いう。これを読んで腹を立てないハロプロファンはよほどどうかしている。

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言葉の選択

まじめな話を続けよう。今度は言葉の選択についての話だ。

論旨ではなく、単語単位のミステイクを理由に相手を感情的に叩くような人がいたら、それこそその人は性格的に問題あるんだろうし

えだは

私の性格などはどうでも良くて(まあ問題がないとは確かに言わない)、「単語単位のミステイク」こそが重要なのだ。「てにをは」の間違いを突っ込まれたとか、かな漢字変換ミスを突っ込まれたとかそういう話ではあるまい。そうではなくて、用語の選択を突っ込まれているときに、「たかが言葉」とでも言いたげな言い逃れ、そこにこそ「言葉」というものに対する耐え難いほどのいい加減さが現れている。そしてその言葉へのいい加減さは、その言葉が表現している概念軽視へとつながる。最初の発端である「人権」概念をたかが200年などと貶めて見せたその姿勢がここにも反復されている。つまりこの言葉に対するいい加減な態度こそ、この人の(物書きとして)社会に向かう姿勢上の欠陥を本質的に示している、というべきなのだ。

一般的に言って、ある用語を選び取る際には、その人間の思想的背景が意識的にであれ、無意識的にであれ、作用する。選び取った言葉の中にその人物の思想が図らずも表現されてしまうのだ。そうであればこそ、己の思想的態度が問われる発言をするときには、言葉の選択にはことのほか慎重であらねばならない。事実社会科学研究者はそれにはことのほか神経質だ(例えばある種の教育学関係者は「子ども」と書いて「子供」とは決して書かない)。もちろんそれは時に固定化した流儀となり、実質的意味を損なうこともあるだろう。それでも迂闊な言葉遣いをするよりははるかにましだと考えられているわけだ。

さらにまた言葉の選択は当然のことながら論旨にも大きく関わる。文章というのは言葉の積み重ねによってその論理を構成していく。ところがその言葉の中に概念規定がはっきりしない言葉が紛れ込むと、そこに論理の穴が生まれる。そしてその論理の穴を(これは多くの場合無意識的にではあろうが)書き手は自分に都合良く埋めてしまう。「印象批判」という言葉の選択の際に起こっていることまさにこれである。意味内容が不明確だから論理的に通っていない、しかし破綻も来していない(ように見える)。そうして己の主張が論理的であるように確信できてしまう、というわけだ。

繰り返しになるが、論旨というのは言葉の積み重ねによって成り立つものであって、言葉のミステイクなど放置して、ざっくりオレの言いたいことを理解しろ、などというのは物書きとしてあり得ない怠惰で甘ったれた態度なのだ。

遅ればせながら

ちょっとだけお返事しておこうか。

何というかこの人、言葉を知らないので、いちいち面倒くさいんだけれどね。まあ私から突っかかったんだから仕方ないけれど。例えば「印象操作」。いちいち言葉の説明からしないといけないのか。

面倒なので手抜きして言っておくと「はたのは偏っている」は印象操作じゃないよ。真っ当な批評。しかも当たっている。私にとっては「平和は大切だ」ぐらいに自明なほどに正しい指摘だ。

というわけで、疲れた、寝る。

社会科学のイロハのイ

あまりなことばかり書いているとさすがに元の読者からも愛想を尽かされそうな気がしてきたので、少しまじめなことも書こうと思う。もっともこのサイトの元からの読者はきっと分かっているとは思う。このサイトの書き手である私は一般的に言って性格的に歪んでいることなど。前から書いているようにパラノイアだしね。どこぞの御仁みたいに「いい人」「スマート」「磊落なキャラ」なんて最初から演じてもいない(1)。納得のいかないことにはとことん食いつくパラノイア。

さて、一応まじめな話。

社会科学というのは、やはり、それなりのものなのだ。自分で頭がいいと思っている人間が、論理パズルを解く延長線上で、あれやこれや考えてものを言っていることなど子どもだましにもならない、それぐらいの分厚い論考に支えられている。そしてその分厚さ、その価値というのは政治的立場、右だとか左だとか、そんなまた借り物の整理などでとうてい推し量れるものではない。また各々の社会科学的立場というものそんな浅はかな整理では何も理解できない。

それでもそうとばかりも言ってもいられないので、学生さん向きに簡単なお話をしよう。

とっかかりは合理主義と「右」「左」のお話。

合理主義に対してイデオロギーを持ち出すのは「左」?少なくとも1970年ぐらいまでは逆だった。いわゆるマルクス主義が経済的な合理主義を盾に宗教やらナショナリズムを攻撃し、保守主義が経済的合理主義には還元できないそうした「社会的感情」を擁護した。もちろん今だってまともな保守主義の立場は変わらない。そしてこの「論争」で敗北したのはマルクス主義だった。

マルクス主義者たちも「社会的感情」の重要性に遅ればせながら気づいた。そしてそれを自らの理論の中に取り込んでいった。そうした流れの中で保守主義からも、左派陣営からも重視された思想家がマックス・ウェーバーである。

マックス・ウェーバーこそ近代合理主義の持つイデオロギー的側面をもっとも印象的に説明した思想家である。そしてまたウェーバーは、マルクス主義の経済還元論に対する強烈なアンチテーゼとしても機能した。というわけで、「左」「右」にこだわらない柔軟な姿勢をアピールしたいのならウェーバーの名前を口走るのがとりあえず基本。ウェーバー自身の詳細な説明は、私は専門でもなければ、ウェーバーにはうるさい御仁も結構いるのでパス。

話は戻って、1960−70年代の「若者」の思想の流行は「左翼」運動の名を借りた「合理主義」至上主義であった。まさに「旧体制をぶっ壊す」、その根拠が「非合理」であった。そしてそれらの思想はあまりに未熟であった。ごくごく単純な数学パズルレベルの社会認識で世の中を断罪した。

「右」「左」という枠を取っ払ってみれば、その思想的安直さは、まさに今の「ネットウヨ(右翼ではない)」と重なる。ただネットウヨたちにはヒーロー小泉がいて、またその小泉が権力者なものだから、自分たちは何の危険も犯さずに、何も賭けずに、ネットで何かを叩いて憂さ晴らしをしていればそれで己の思想が貫徹されたと思いこめるだけのことだ。そしてもちろん改めていうまでもないが、小泉は「ネットウヨ」の味方なんかではない。

ともあれ、社会科学は経済的合理性と社会的感情を組み込んだものである他はなかった。そしてまた社会科学はやはりたいしたものであって、マルクス主義ならぬマルクスの思想にはまさにその問題がしっかり織り込まれていたわけで、もちろんしかしまたそれは別にマルクスの専売特許でもなんでもない。およそ今の時代に「古典」として読み継がれている社会科学者、思想家はすべて何らかの形でこの問題を意識していた。それは精神分析医であったフロイトにも当てはまる。

社会科学は確かに様々な安直な運動を生み出し、時には悲惨な結果をもたらした。しかしそうであればこそ、より一層長年の批判に耐えて読み継がれてきた「古典」には敬意を払う必要がある。社会科学・社会思想とそれが受け継がれた社会的あゆみを口先三寸の数学パズルレベルの議論で切り捨ててしまって、いったい私たちは歴史から何を学べるというのか。

社会科学がたいしたものだ、というのは、それはそのような歴史をくぐり抜けてきただけあって、「合理性」一辺倒ではない社会的な寛容さをその理論のどこかに保持しているものだからだ。重要なのはそれは個人の寛容さとは違った次元にある、ということだ。個人の寛容さなどいくらアピールされても「よほどいい人と思われたいのだな」でお終いだ。頭の切れる私が好きで「合理性」を唱え、いい人である私が好きで磊落を気取ってみたところで、「ああ自分が大好きなんだな」以上の価値はない。あるいはニュートラルを気取って「対立軸のどちら側からの意見でもその中に正しいと思える要素があればそれを吸収」などといっても、最初から自分の理解できる程度のネット上の文章しか読まないとすれば、たいして吸収できるものもあるまい。

(1)これが「印象操作」ね。本当はやっちゃ駄目なのよ。

道徳的な私

これを書くとまたよけいな恨みを買いそうなのだが。

非常に道徳的に育った私は「人の嫌がることはすすんでやりましょう」というのを人生の教訓として生きている。ということで、なぜかこのサイトの文章を読みたくて仕方のない熱狂的なファンの一人に対してちょっと嫌がらせをしてみた。2chにいちいち更新報告をしてくれるその御仁だ。

嫌がらせというのはちょっとこのブログをその人だけ読めなくしたのだが、これがびっくり、結構動揺しているみたいで、いろいろなURLを入力してブログ以外のページが「無事」であるのを確認してくれたり(ありがとう、私は無事です)、グーグルのキャッシュを確認したり、The Internet Archive Wayback Machineを漁ってみたり、とにかく必死。我が拙き文章にここまでのファンがついたことには正直感動した。

アクセス禁止なんて一般的にいってサイト運営者の自殺行為、さっさと止めるつもりだったんだけれど、その狼狽ぶりがおかしくて、もう少し「お預け」を喰らわせて差し上げることにした。仕掛け自体は単純な仕掛けだから、その気になればすぐ突破できるんだけれどね。

つくづく私は道徳的だ。

卑怯者は2chがお好き

タイトル以上にいうことはないのだが。

2chが卑怯者の集合だとはいわないが、卑怯者は2chの陰に隠れて人を攻撃しようとする。

自分の手は汚さずに、煽って人にやらせようとする、とかね。何となく見ていていたたまれない。

パラノイア仲間

サイトが当初予定していたのと異なる「成長」過程をたどると、少しおもしろいことが起こる。サイトには各々の文化というべきものがあるが、その文化圏に属さない読者がそのサイトに訪れるととても違和感を感じることだろう。

本サイトももともとは私個人が持つパラノイア的衝動を小出しにする場だった。だから当初の読者もそういう期待を持っている人だった。そもそもこのサイトにたどり着くには「アルチュセール」だとか「ジジェク」だとかいう言葉を手繰る必要があったのだ。モーニング娘。も当初からネタにはしていたが、ファンサイトとの交流は一切なし、そっちがらみの訪問者は皆無であった。

「はてな?」に場所を移すことで、モーニング娘。をネタにするとすぐそれ関連の訪問者が来るようになった。しばらくはそうしたミスマッチを楽しみ、気がつけば妥協を重ねていた。そこで再び「はてな?」とは別の場所を設け、当初のサイト文化を取り戻すことにした。

しかし「はてな?」の時に、「引っかかった」読者がいたのだろう。このサイト立ち上げ当初からこのサイトにへばりつき、今なおせっせと2chに更新情報を挙げてくれる人がいる。何とかこのサイトが2chからの訪問者で「荒れる」のを期待しているようだ。そういうストーカー的心性の持ち主をこのサイトが持てたということ、それはある意味、「成功」というべきなのかも知れない。実際、サイト立ち上げ当初にこんな文章を物している。

前にある大手テキスト系サイトの面白さが理解できない、と書いたが、もう一度読み直すと理解可能だった。ごく一部だけ読んでいてはやはり駄目で、ある程度読んでいくうちにそのサイトの世界というのが見えてきた。受ける要素はいろいろあるだろうと思うが、まずもって内容が読みやすい、ということ。わりと常識的なところで話が進み、定型的におちる、と。誉めているのかけなしているのか、という感じだが、もちろん誉めているのである。そうでなければリンクは貼らない。わかりやすい、というのは大変かつ大切なことなのだ。

しかしもちろんそれとは別の価値の方向もあって、私はそちらを志向しているつもりだ。読み手に何かしらの不安感・違和感を残すこと。そんな文章を書きたい。ただ違和感以前に、単に分かりにくいだけなら最悪で、紙一重のところでやっているつもりだが、結構すべっているのは確かだ。

女優で言えば松たか子がいいか、中谷美紀がいいか、というところだろうか。我ながら妙な例だな。ちなみに中谷美紀は低視聴率女優らしい。

少アクセスサイト

というわけで、健全な精神を維持したい方はあまりこのサイトには近寄らないのが吉かも知れない。

クリッピング

裏高野さんのコメント欄に傑作コメント発見。

人様のサイトのコメント欄で遊ぶのはさすがに申し訳ないので、こちらで遊ぼう。例によってこっそり削除されてもかなわないしな。

# tk-mokami 『>「まん中」や「普通」や「常識」だと思いながら、自覚無しに「寄りまくった」ことを語る人ほど個人的に怖いなぁなんて思うのです。


某新聞のようにその発言自体が権威を持ち事実として流通してしまう可能性がある場合には確かにそうですが、個々の意見の場合、判断材料と考えの筋道が開示されていれば何も怖がる必要などないと思いますがね。


むしろこういう問題だと反論もせず(できず)印象批判を繰り返す人が多いのが嫌ですね。少なくとも中立を意識する人からはそういった印象批判が立ち上がることはないので安心できます。』

いやはや、突っ込みどころ満載、これほどの傑作発言はそうはお目にかかれない。最初この人物にちょっかいを出したときにはまさかここまでの人間とは思っていなかった。どんどん馬脚を現す、というか。

「某新聞」というその品のない言葉遣いですでにその発言の底が知れる、という。ちなみに「品」というのは言葉遣いが綺麗とか汚いとかそういうことではない。「某」などと言葉を濁して、「でも分かる人には分かるでしょ?」などと本来不特定の読者のなかから、自分に都合のいい読者を選別して、おもねってみせるその姿勢が下品なのだ。

「怖がる必要などない」。いや、完全に「怖い」の意味を取り違えていますから。ネットの個人ブログの発言自体の社会的影響が「怖い」などと言っているわけないだろう。そうではなくて、ある発言を生産するその人物の精神構造の病み方が「怖い」と言っていると読むべきなのだ。その意味では「怖い」の対概念は「安全」ではなくて「健全」であった方が良かったとは思うが。

もちろん真に「怖い」のはその人物自体ではなくて、そうした「病み」を生産する社会であるのは確か。いずれにせよ、原因と結果を取り違えてはいけない。

「印象批判を繰り返す人が多いのが嫌ですね」。それこそ印象操作しか能のない人間がこの発言をするとは、「天に唾する」とはまさにこのことだ。

「少なくとも中立を意識する人からはそういった印象批判が立ち上がることはない」。「判断材料と考えの筋道」が全然見えないんですが。

というわけでとてもいいものを読ませていただきました。ありがとう(モー紙通信。)。


「印象批判」という言葉が微妙に引っかかり、例によってググってみた。するとこんなページにたどり着いた。野良猫ジャーナルblog

最近「言葉」が乱造され、分かり難く、勝手な論理を展開している層がいると前回で書きました。そのセッション2として「印象批判」について述べてみます。

「印象批判」という言葉に出会ったときは、戸惑いました。前後の文脈から私なりに解釈しますと、「印象だけで人物・事象等を批判する」ということになります。

単にそんな言葉、もともとはなかったよな、ということを確認したかっただけだが。「印象批評」はもちろんまともな批評。「印象操作」は卑怯者のやること。「印象批判」はやっぱり意味がよく分かりません。

哀れな「合理主義者」

続き。

ちょっと前に冒頭に「イデオロギーや感情とは無関係」とエクスキューズを付けて始まるブログを観ていたのですが、その後の記述が思いっきりイデオロギッシュで苦笑してしまいました。ある種の「合理性」を求める見解が正しいものだと定義するならば、・・・

裏高野さんコメント欄

これまたいいネタをいただいた。もうお題目からしてお馬鹿なブログがあるようで。

「イデオロギーや感情」と「合理主義」が対立するものだということを前提とする、というのがいかにお馬鹿なことか、ということが説明を要することだというのが今の時代なのだな、と思う。もちろんその「今の時代」というのは「右傾化した」今の時代、ではない。ちょっとあえて嫌な言い方をすれば「白痴化した」今の時代なのだ。

右・左で物事を整理して安心する確信的「白痴」も世の中にはいるようだから、あえていっておくが、イデオロギーと合理主義が対立するものではなくて、共犯的な関係にあるというのは社会科学の常識なのよ。嘘だと思ったら西部邁か西尾幹二の本ぐらい紐解きなさい。白痴だから読めないのか。

仕事で私より10歳ぐらい年上のアホに対して「アホは黙ってろ」といったら、正当に恨まれてちょっとめんどくさいことになっているせいか、どうも我ながら「辛抱」というのが足りない。本当だったら高校生ぐらいを対象にイデオロギーと合理主義に関する常識を説明する文ぐらい物すべきなのだろう。

しかしそれを差し引いてもいい大人が「イデオロギーとは無縁の合理主義」などというイデオロギーにどっぷりつかっているのを知らされるとうんざりする。そういう定型的イデオロギー的人間はそれこそ物語の登場人物として戯画的に描かれるものであって、現実に存在するとなると無惨だ。

感性的合理主義の陥穽

「当事者」がレスしていいものなのか、迷いつつ。

自分の「位置」が判ってて意見を語ってるって人は「安全」だと思うのです。例えば、自分は「右」だと自覚していて「右」なことを語る人は「安全」です。しかし「まん中」や「普通」や「常識」だと思いながら、自覚無しに「寄りまくった」ことを語る人ほど個人的に怖いなぁなんて思うのです。

裏高野さん

一番「怖い」のは自分が「スッカラカン」だと自覚せずに政治を語っちゃう人なんですけどね。

とだけ書いて終わるとネタっぽくて、それはそれでいいのだが、まじめな話、私が一番危惧している言説状況はまさにそこなのだ。

歴史、伝統を重んじる保守主義はファシズムを招かない。感性的合理主義者がファシズムに陥るのだ。

覚悟ということ

「殺されても仕方ない」という覚悟が物書きにとってどのような意味を持つか。真に命を絶たれるようなそんな覚悟は実際にはないだろうし、またその必要もない。だからといって口先だけのものだ、というようなものでもない。

例えば塾講師刺殺事件において、被害者の女の子の振る舞いに、その原因の一端を求めるような記述をしたとしよう。そしてその記述を見た被害者の家族に対して「殺されてもそれはそれで仕方ない」と表明したとする。それはつまり、その記述を見た被害者家族が、その記事のコメントに例えば「部外者が無責任なことを書くな。娘のことをあしざまに言うお前なんていっそ死んでくれればいい」などと書き込んだ際に(実際こんな記述にはならないだろうが、例えば)、それを真っ正面から受け止めるという覚悟を示している。

「受け止める」。それは投げかけられた言葉に、信念を持って対応する、ということだ。そうであれば、その対応自体はどのような対応もあり得る。謝罪文掲載の上、サイトを閉鎖するというのもあり得るだろうし、謝罪の上、指摘された記述を削除するというのもあり得るだろう。記述を残した上で謝罪するというのもあるだろうし、あくまで自身の記述の正当性を主張するのもあり得るだろう。あるいは指摘コメントはそのままにして、自身は何もそれについて書かない、というのもあり得べき対応である。

いずれにせよ、しかるべき立場(被害者の家族というのは、どう考えてもそれ相当の重みはある)からの「死んでしまえ」という記述に対応するというのは難しいことだ(最後の「指摘コメントはそのままにして、それについて何も書かない」ということがこのケースでどれほど難しいことであるか、想像して見よ)。

そして「殺されてもいい」という表明は、そうした対応の中から、「自身の記述の正当性を主張する」という選択肢を自ら封じる覚悟を示しているのだ。「殺す」「殺される」という関係性は正当性を媒介にすることは出来ない。ただ一方的に投げかけられた言葉であっても、それを問答無用に「受け*入れ*る」しかないのだ。少なくとも私は己の反論権を封じるほどの覚悟は持つことは出来ない。「殺されても仕方ない」が物書きとして、一つの覚悟だといったのはそういうことである。

最悪なのは何の表明もなく記述をこっそり書き換えて、知らぬ顔を決め込む態度だ。一度書かれた文字は、後で消しても、コピーされ、残る。言葉は現実に人を傷つけうるのであって、後で消して知らぬ顔を決め込んですまそうというような程度の覚悟の持ち主は文章なんぞを書く資格がない。

最低の言説

私が下記記事の警告を発したのは、この件を論じているブログを見ているときに、被害者の女の子の「責任」を問うているサイトがあったことに一定の危機感を感じたためである。ただしそのサイト自体の記述に、私は批判的な立場には立たない。何となればそのサイトのその記述には、書き手の相当の決意が感じられたからだ。被害者の両親にその記述を見られたら、殺されてもそれはそれで仕方がない、とも書いてあった。もちろん言葉だけなら何とでも言える、とは言える。書き手は、文章以外での攻撃を受けてはならないし、また受けるべきでもない(どこぞの馬鹿サイトの管理人はそんな原則も守らずに、実生活レベルで人を攻撃しようとしたが)。もちろん、だから、「殺される」とはその次元においてであって、それはそれで見上げた決意だと私は思った。

最悪なのはそうした決意も何もなく、単に言説を垂れ流して、後はどうなろうと知ったこっちゃないとばかりに口をぬぐう連中だ。

そういえばブッシュはイラクには大量破壊兵器はなかった、と認め、その限りで誤りを認めたな。はてさて、それでは「イラクは大量破壊兵器を所有している可能性があるから、アメリカの攻撃やむなし」と主張していた言論人どもはどこに行ったのだ?

妄想と現実

最後(になるかどうかはわからないが、一応)に一つ、釈明と、今後この件について論じる際の警告を発しておこう。

これはそのように意識して書いたので、暇な人は読み返してもらったらいいが、私は加害者と被害者との「現実の関係性」については何も語らなかった。ただ加害者の心的世界、妄想について述べたにすぎない。そしてその妄想はしかしある現実的根拠を持っているのだ、と。

その現実的根拠とは、社会一般に近いものであって、加害者・被害者の関係のことではない。一般的にいっても、この手の妄想・イデオロギーはそのような社会一般を根拠に置きつつ、ゆがんだ形で反映されているのであって、そのようなゆがみを持って妄想の持ち主は自分の身近な状況を解釈する。だからこの事件における加害者の語りの中から、加害者・被害者の現実の関係なるものを読み取るべきではない。

これは改めていっておく必要があるが、報道されている事実だけを見れば(それ以外に見られるものは何もない)、被害者側には何の落ち度もない。反りの合わない講師に対して、否定的な反応をする。それに対して無理気味な指導をされ、傷つき、さらに講師への印象を悪くする。そうして講師との関係が決定的に悪化すれば、授業に出るのを止める。所詮サービス産業である塾における受益者の立場からして、正当というしかない対応である。あるいはこうした対応が許されにくい学校においては、全く別の悲劇が生じることもあるだろう。

事態を悪化させたのは、おそらく被害者の女の子が拒否した講師の振るまいが、講師自身にとっては生命線そのものであったということ(過剰にも思えるがんばりは、この講師の置かれた状況からすれば、無理をしてでもやらざるを得ないことであった。そしてまたもともとの資質からしてやっていたことではなく、無理気味にやっていることを否定されるのは、その否定の強度はさらに強いものになる)に尽きるのだが、しかしそんなことは生徒である被害者にとっては何の関わりもないことである。

だから徹底して問題なのは加害者の妄想(イデオロギー)的世界認識なのであって、そこに焦点を当てればそれで十分なのだ。被害者の行動やら、まして資質やらを焦点化する必要は一切ないし、またするべきでもない。

平凡と特異と

この事件のことに触れているブログの検索範囲を少し広げて読んでいると、最初に探したときよりもまっとうな考察をしているサイトがぱらぱら見つかった。そして、事件の「責任」ではなく、「原因」について考えようとするそうしたサイトの多くは、この事件は「平凡」「凡庸」であると見なしていた。

まさしくその通りであって、この事件における加害者の動機なるものはとても平凡で凡庸なものなのだ。まるで古典的な推理小説を読むぐらい、この事件の加害者の心理的経緯は読み取りやすい。要は「己のレゾンデートルの回復」というテーマによって表現されるものである。そのレベルになれば、犯行後のことなど考える必要もない。ただただ「彼女がいなくなる」、それが彼が「生きる」ための最低条件であるかのごとく感じられた、それだけのことだ。そして改めて繰り返すが、そうした心的状況自体は、とても平凡なものなのだ。

それでもこの事件には確かに「特異」「異質」なものを有してもいる。それは、推理小説レベルのこの事件の動機・その他を巡る状況が、被害者・加害者が対等であるか、あるいは被害者の方が上の立場である場合に成立するようなものであって、それが本事件の場合、大人である教師と小学生との間に生じたということだ。

私たちは「常識」に照らして思考を始める。「普通、大学生が小学生相手にまともに恨みを抱くなんてあり得ない」。「大人だったら、子どもとの対立ぐらい適当に解消するだろう」。そういう「常識」からこの事件を見れば、この加害者はいかにも「異常」だ。「人間として未成熟」「1か0かのデジタルマインド」「ロリコン」などなどと「異常」な人間を説明するタームを並べて、「異常」であるという結論を反復して安心したくもなる。

しかし、少しでも現代の教育状況にセンサーのあるものなら、実際には分かっていることだ。大人・教師の立場が今やいかに脆弱であるか、例えベテラン教師であっても、教師が子どもに「いじめられる」という状況が別段珍しくないということを。そうした状況が「学級崩壊」などという言葉で表現されているのだ。そして私がこの件の最初の論考で読み取ろうとしたのは、まさにこのような時代性に他ならない。

恨みを抱いた結果、殺人、という流れは確かに「特殊」だ。しかしその特殊性は今の社会に内在するような特異性ではなくて、通時代的ではあるが、発生確率自体は低い、そういう特殊性にすぎない。単に確率論の問題であって、異質なものは何もない。

「0か1か」思考の研究者

今日の毎日新聞「私はこう思う」欄に犯罪社会学者の小宮信夫さんという人のコメントが掲載されている。「(談)」とあるからインタビューしたものをまとめたものだろう。本来学者先生の主張は文字で書いたものを掲載するべきだと思う。「学者」というのは、それこそどこぞのネット言論人などと違い、概念、用語は厳密に用いることが必要なのであって、語り書きではそれが守られない。

そういう注釈を付けた上で、この記事にはややあきれた。

容疑者は他の子どもの評価が高かったにもかかわらず、被害女児は反発していたという。容疑者のプライドが許さなかったのだろうか。塾では自分が100%評価されていると錯覚し、居場所と思っていたはずなのに、被害女児一人のために揺らいだのかもしれない。たった一人の例外を許せなかったのか。

そうして「今の若者」の「デジタル・マインド」へと考察を進めるのだが、これこそステロタイプ的批評の典型というものだ。いやしくも学者というのはステロタイプを揺るがす方向でものを考え、発言するものだと思っていたが、そうではないらしい。

加害者が「塾では自分が100%評価されていると錯覚し」ていたわけがないではないか。自分ならば絶対陥らないような「錯覚」を「今の若者」ならば陥るだろうと決めつける。そうして自分とは異なる人種を想定して、それを観察対象に置けば、それは偉そうなことも言えるだろう。なるほど、対象を観察者とは独立した場所に置くという科学者としてはとてもまっとうな研究スタイルが確立できるわけだ。

しかし社会科学の持つ困難そして意義とは、そのような純然たる、自分とは全く別の、観察対象を措定することが出来ない、という点にある。観察対象はどこまで行っても研究者自身の延長線上にある。そこを真摯に踏まえずして、何が社会科学なのだ。

少なくとも加害者は自分が「100%評価されている」などと錯覚できるほどおめでたい人間ではなかった。だから彼は彼なりに苦しんだのだ。

加害者の心情を推し量ろうとするのであれば、もう少し丁寧な記述が必要だ。確かに彼は錯覚していたのだろう。しかしその錯覚とはおめでたい、脳天気な錯覚などではない。

小宮山さんは「自分が100%評価されていると錯覚し、居場所と思っていた」とポジティブに表現するが、実情はおそらく逆で「すでにそこにしか居場所はなく、さらにたった一人から否定されるだけでも、それが原因でその居場所を失わせる可能性を有していると錯覚していた」と表現すべきなのだ。そしてそれはニュアンスの違いにとどまる違いではない。

前者は結局「今の若者」の特殊性に求めるしかない非現実的な想定でしかない。そしてそのような特殊性に対象を持って行ってしまえば、そこで思考は停止してしまい、後はすでに用意されていたステロタイプ的な己の結論をただ反復するだけのことだ。そうではなく「たった一つの傷からでも自分の世界が破壊される可能性」という環境次第では誰もが陥る恐怖心(まさに今この問題を論じているものの多くが陥っている)をさしあたり加害者と共有すること、そこから入らなければ、特殊な犯罪を社会一般の問題として考えることなど出来ようはずもない。

そしてこのような過剰なプレッシャーを受ける心性は「デジタル・マインド」などというタームによって表現されるような「属性」的な性質のものではない。塾自体の環境にも由来するであろうし、彼の置かれた立ち位置、過去に窃盗・傷害事件を起こして、「普通の就職」への可能性の多くが閉ざされ、今ここにいる塾しかすがれるものがなかったというような彼固有の状況にも由来するだろう。さらにはその背後に成果主義的な現代日本の社会状況を読み込む人もいるだろう。そのどれが妥当でどれがそうではないかは、各々の位相ごとに評価されるよりない。いずれにせよこのような様々な層が折り重なって、一つの事件が起こるのだ。人間の内在的な心性(なんちゃらマインド)などというブラックボックスに事件の原因を求めようとすれば、そうした多重的な思考を閉ざしてしまう。

実際この加害者の心性などはそれこそ松本清張の小説にでも出てきそうなぐらい平凡なものだ。そしてまたその程度の一般性がなければ、そもそも社会科学自体が成立し得ない。それ自体は平凡な内在的心性が特殊な社会現象を引き起こすメカニズム、そこにこそ社会科学の対象が存在しているのだ。

社会が求める社会

今回の事件に触れているブログをぱらぱら見ていた。

ほとんどが誰かの責任を追及する内容だった。加害者、塾、大学、等々。心配するな、責任は加害者も塾も負わされるさ(大学はよく分からない)。当然に負わされるその責任にさらにことさらに加えなければならないものなど何かあるのだろうか。

(塾講師としての)職業倫理がどうのと書いてあるブログも見かけたが、「殺人」に対して職業倫理もへったくれもあるものか。

目を引いた数少ない記述。経済学を学ぶ素人株ブログ。最後の一文に、とても共感。

「講師に前科のある彼を雇った塾側に問題がある」、というコメントがテレビで聞かれる。

ではどうすればよいのか?履歴書に前科を書く欄を設ければいいか。(普通は賞罰のところに書くの?誰か知っていたら教えて欲しい)

もし、私が経営者なら、前科者は雇わない。それはどんな経営者でも同じだろう。そうすると前科者は職に就けなくなる。社会復帰ができなくなる。

それでいいのか。社会が求める社会がよく分からない。

当事者からすれば最大限の悲劇を部外者がそのまま横領して、社会批判につなげてしまう。それによって建てられた論理はしばしばバランスを欠いたものになる。交通事故は悲劇だ、だから自動車を全廃してしまえ、質的にはそれと動議の粗雑な議論が満ちあふれる。犯罪被害者の一切でない社会、それは私たちが求める社会なのだろうか。

歯車が狂う

下の件の補足、あるいは自分のための覚え書き。

この事件の加害者、学校の教師ではなくて、「塾」講師であることはもちろんポイントである。塾だから、学生だから、このような事件が起こりえたのだ、などといいたいのではない。むしろ逆だ。塾のバイトならば本来教師はそこまで追いつめられる必要はなかったはずなのだ。たかがバイトではないか。なぜ生徒を「抹殺」するところにまで追いつめられなければならなかったのか。

それを解く鍵は加害者が以前に起こした事件にある。これもまた一般的な理解とは逆だ。加害者はもともと暴力体質を持った人物だった、といいたいわけではない(そうだったのかも知れないが、それではとうていこの「計画殺人」に至った加害者の状況を説明することはできない)。ただこの事件があったからこそ、加害者は「たかが塾講師」に自身の存立を賭けたのだろう、ということだ。

この事件はある大学生の「転落」の軌跡を示しているのだが、しかし一直線に「暴力」の道を突き進んだのではない。それ自体は悪としか言いようがない、しかし出来心にすぎないとも言える万引きがきっかけとなって、「転落」が始まり、そこから脱出しようともがく、そのような道筋である。万引きをして、見とがめられて、あわくってその場を逃れんとする一心で警備員に暴力をふるい、気がつけば「強盗致傷」という禍々しい犯罪歴がついた。確かに彼は悪い。圧倒的に悪い。しかし最初の万引きからの流れには、心情レベルでは「万引きをする」以上の覚悟も悪意もなかっただろう。「たかが」万引きが「強盗致傷」である。割の合わない思いを持ったとしても不思議ではない。

それでも彼はもがいたのだ。停学になったのを機に、家に引きこもって母親に暴力をふるって気晴らしをしていれば、彼はそれ以上の公な罪を重ねることもなかったであろう。しかし彼は彼なりの意欲でもって、前向きに前に進もうとしたのだ。

別に加害者の肩を持ちたいのではない。ただこの犯罪の中の、加害者の特異性なるものは、しかし、その一つ一つの行動の中にはごくわずかなきしみが見られるだけであって、それを丁寧に読み解くことを放棄して、「特異性」で片付けるのは、解釈者は安心は出来ても、事件の相貌を見失うだけのことである。

あいつさえいなくなれば

塾講師による生徒刺殺事件。

今も一応教育に携わるものとして、そして何より教育社会学になじんだものとして、これには注目をせざるを得ない。いささか不謹慎とは思いながら、しかしこの事件から現代社会の何事かを読み解かんとする衝動に駆られて書く。

一般的に言って殺人事件とは常に異常な事態である。そこには必ずやその事件固有の特殊性が宿っている。だからそこに着目すること自体は事件の本質を読み誤っている、ということにはならない。加害者は、過去の事件からして、あるいはそれ以外での普段の素行からして、今度の事件につながる何かしらの性癖と言うよりないものを持っていたのだろう。

こんな当たり前のことをわざわざ言うのは、それをはじめに言って、その考察の限界を示しておかないと、事件から社会性を読み取ろうとする一切の試みが足を掬われてしまうからだ。「どんな状況でも、きちんとまじめに生きている人はいる」という当たり前だが内容のない語りをここでは一旦封じておかなければならない。

その上で、やはりこの事件が私たちに「普通の殺人」とは異なる何ものかを感じさせるとすれば、それは教師が生徒を刺した、というその暴力の手段と方向性に他ならない。例えば20年前ぐらい前に、私たちが安心して「大変な事態だ」と総括出来たような事件とはまるで真逆なのだ。

  • 生徒が教師をナイフで刺した。
  • 教師が生徒を殴った。

四半世紀前は、それが揺らぎ始めていたとはいえ、まだ教師は「権力者」の相貌を持っていた。そうであればこそ、「あいつがいなくなってくれれば」という追いつめられ、それだけに制御不能な感情を抱くのは、生徒の方であった。逆に、教師の暴力は、管理者(権力者)としてその場の秩序を守らなければならない、という焦りからくるものであって、管理対象の抹殺など明確には意識されることはなかった。

一つ思い出すのは校内暴力吹き荒れる中学校において男子生徒をナイフで刺した男性教師がいたことである。彼はもはや教育者としてではなく、単に自分より体力のある男からの暴力を逃れるのが精一杯で、自分の身を守ることだけを欲したのだろう。しかし今回のケースはあくまでこの講師は「教師」であろうとしていたことが伺える。つまり彼は教師として生徒を刺したのだ。

このような今回の事件に浮かび上がる教師-生徒の関係は、四半世紀前の感覚からすれば全く異常だが、しかし現代の教育環境からすれば、非常に一般的なものを有しているようにおもわれてならない。それは教師と生徒があまりに対等に向き合わされているという点においてである。

教師-生徒が全く対等に人格をぶつけ合い、「反りの合わない」という関係に陥る。この加害者の塾講師の証言をざっくり手繰るだけでも、ごく一般的な職場の人間関係に悩み、追いつめられていく様が容易に想像できる。そしてさらに「彼女との関係を断ち切りたかった」、加害者の漏らしたこの言葉の中には、客観的事実はどうあれ、この加害者の心的な風景において、職場の利害関係に加えて、恋愛とはいわば逆方向の男女間の拗れのようなものが浮かんでくるのだ。

教師-生徒が対等に向き合うことで改めて浮かび上がってきたもの、それが男女間の「エロス」的関係に他ならない。そして今度の事件は、教師(男)-生徒(女)でなければ成立しない事件なのだ。あるいはずるくこういっておこう。それ以外の組み合わせで同様の事件が起こるにしても、それは上記関係の派生現象でしかない。

「教師(男)-生徒(女)」がここでの「一般的」な関係だと規定するのは、「権力」の流れが「スムーズ」だからだ。教師かつ男は権力を持つ、この古典的関係性がこの事件(に限らず現代日本の教室空間)の背後に流れている。教師は教室の秩序をきちんと守らなければならない。まして男たるもの、それを一人で成し遂げなければならない。それが教師かつ男に課せられた役割期待というものだ。

もとよりこの権力性はあまりに脆弱だ。今回のケースとは別に、例えば女子生徒が、「(男の)先生にセクハラされた」と訴えれば、それが仮に事実的に争う余地があったとしても、権力関係は完全に逆転している。実際そのようなことがあるかどうかではなく、そのような可能性としての逆転を教師(男)は潜在的に抱えているし、またそれを否応なく意識させられてもいる。そしてこのような脆弱な権力は、一般的に言えばただの負担でしかない。それはものを教える、という一般的な塾講師のバイト代にはとうてい見合わないだけの負担と言うべきだろう。

維持することを期待された彼の権力は、もはや被害者の少女との関係においては完全に無化されてしまっていた。彼は教師としても男としても「失格」の烙印を押された気がしただろう。暴力でもって彼女を権力の元に置くことが不可能である以上、彼が権力を維持するためには彼女が「いなくなる」しかない。

加害者は「(被害者となった)女の子がいなくなれば」と思ったと漏らしていると言う。一見するととても不思議なこの発言は、しかし現代の教室空間を想像する力があれば、さほど不思議な発言ではない。「彼女との関係を断ち切りたかった」。そこには相当の切実さを私たちはいったんは読み取らなくてはならない。そうして加害者の塾講師は、古くからある社会派サスペンスものの加害者とほとんど同じレベルで「追いつめられ」、確かにこういうしかない本人の特異性でもって、「関係を断ち切る」手段として最低の殺人という暴力に及んだのだ。

ドラマ一覧

今クールのドラマ評を書こうと思ったのだが、前に書いた「慶二郎の縁側日記」が圧倒的で、他のものに力を入れて書く気がしない。とりあえず備忘録代わりに、見ているドラマを列挙。

恋の時間
黒木瞳、大塚寧々
1リットルの涙
沢尻エリカ
あいのうた
菅野美穂
ブラザー☆ビート
国仲涼子、岡本綾、浅見れいな
今夜ひとりのベッドで
瀬戸朝香、奥菜恵
大奥〜華の乱〜
内山理名
花より男子
井上真央
野ブタ。をプロデュース
堀北真希

何で女優の名前ばっかり並んでいるんだろう?

「恋の時間」、西田尚美を忘れていた。

さらに「あいのうた」、和久井映見を忘れていた。

かなりキモなところを忘れているとは。

年末

横浜から帰宅。

行き帰りとも500系とは珍しい。

施設はリゾートホテル並みに豪華、ただしネット環境はなし。持参したThinkPadT40は思いの外好調。

「若い人たち」の一年の成長ぶりには驚かされる。泊まりがけの仕事とは体力的にはつらいが、今回の仕事は楽しかった。まだこれから報告書を書かなければならないが。

後は海のものとも山のものともつかぬ某NPO関連の仕事が年末まで残っているぐらいか。

今年度の支出予定額は現時点で上回ってしまっているので、自分用のクリスマスプレゼントなどはなし。粛々と年末を迎えるのみ。

一休み

関東某所で仕事。

宿泊先がブロードバンド環境が整っているかどうかは不明。仮に整っていたとしても、ホテルではないので、仕事関係以外でのネット使用はやめておいた方が良かろう。

ということで個人使用は128kbps、支払いも従量制の回線なのでたぶんここの更新はしばらく停止。

本当はドラマ批評の続きとか書きたいこともあったが、不徳の致すところで、そういう脳天気な更新をする雰囲気でもなかった。

ただ一つ言っておこうと思うのは、仕事関係のページにちょっかいを出したものが、一人だけだったということだ。そのあたりの最低限の線は引いてくれるのな、などと「現象」相手に感心してみたり、とか。

可能性としての告知

正直、「現象」を相手にするのは疲れる。2chという匿名の言説の集積場は書き手の主体などは存在しえず、ただただ「現象」というしかない。もちろんそんなのを相手にすることは無理だ。言説上だけなら放置するだけなのだが、これまた迂闊なことに(まあ、一種「確信犯」だが)職場と本名を晒していたので、言説上の問題ではすませられないことになってきた。

まあ、結果的に「現象」を引き寄せた責任はあるよな。ちょっと無警戒だった。疲れているのかも。

とにもかくにも「現象」と対峙させられてしまった以上、サイト運営についてもいろいろと考えざるを得ない。勝った負けたとかいうのは趣味じゃないが、現象には人間は勝てない。

ということで、このサイトの内容を、どういう理由であれ、保存したい人はお早めに。いちいちブラウザで保存なんてやってられるか!、という方はメールをいただければ、ファイルで差し上げます(どんな形でかは未定、マイナーなブログシステムの過去ログの配布は結構難しい)。

コメントなどもお早めに。お返事は書ける限りは書くが、このサイト、ということでは限界があるかも。メールならばいつでもお返事します。

すぐに閉鎖とか、閉鎖決定とかそういうことではないですよ。ただいきなりページがなくなっている、というのは避けたいので、一応可能性としての告知。

2chでごちゃごちゃ言っているだけなら、個人情報晒しは止めて欲しいが、そうでなければかまわないのだが、(おそらく)そこから来たものがブログからは直接リンクを張っていない仕事用のページにちょっかいを出すのは、我慢がならない。というか、具体的に困る。

「言論」で突っ張れるほど若くもない。仕事は大事だ。

全く

2chでくだんのくだらない「論争」が晒されているらしい。それはかまわないのだが、本名と職場を組み合わせて晒すのは止めて欲しいな。本名は確かに公開していたが、職場はそれなりにリンクを手繰らないと出てこないはず。それを並べて晒されては、仕事に支障を来さないとも限らない。それほどシビアなことでもないが、ちょっと気にはなる。大体「論争」は個人としてやっているので、職場は関係なかろう。

大体匿名に隠れてこそこそものをいっているくせに、人の情報を晒すのは全然気にならないんだな。

ほお

えだは

アホなだけじゃなくこういう姑息でちんけなことを書くうす汚い奴だとは今日初めて知った。

何かこっそりと具体的な職場名を消しているが、最初は実名が書いてあったのよ。ちゃんと証拠も保全してある。別に証拠保全と言ってもそれで何が出来る、と言うことでもないけれど(このぐらいで司法のお世話になれるはずもない)。

しかしこちらには何の謝罪もなく、こっそり書き変えて知らん顔と言うところにこの人物の物書きとしての価値のなさが現れていることだけは改めて言っておく。

「許す」ということ

久々のドラマ批評。

今クールの一押しは慶次郎縁側日記

シリーズ二回目だが、シリーズを通じて流れるテーマが非常に重い。

娘を乱暴し、自死に追いやった犯人の仇討ちを果たす寸前に部下に止められる。しかしその犯人はまた同じことをしでかしていた。

やはりあのときあいつを殺していれば、という思いと、復讐からは何も生まれぬという理性との葛藤。主人公は娘を殺した男のみならず、その仇討ちを止めた部下にも恨みを残しながら、それを押しとどめる。

男には娘がいた。その娘と否応なしに関わり合うことになる。娘には罪はない、そう言い聞かせながらも、やはり複雑な思いを抱え続ける主人公。そして自分には幸せになる権利などないと思い詰める娘。

人を許し、自身の救いも求める、というプロセスの中に流れ続ける葛藤。もちろんドラマはユートピアへ向かうのだが、そこに至る道筋に残る傷跡を丁寧に表現していく。

主演の高橋英樹は、「傷」を演じるにはいささか陽性が出すぎるが、脇がとてもいい。特に上司の復讐を止めた役所を演じる遠藤憲一の演技は絶品。

T40ファンエラー

どうもT4x系のファンエラーはあちこちで見られる現象らしい。一年に何回も修理したとかいう書き込みまで見かける。

しかも修理するとなるとマザーボードの交換。そいつは困った、ですね、ですね、ですね。

購入後もう2年以上経っていて、とっても高いけれど手厚い保証サービスには加入していないので、マザーボードの交換となると結構なお金がかかる。

一度分解して、手が届く範囲で掃除をしたら、何となく調子が良くなった気がする。何とかもう少しだましだまし使って、時間を稼ごうか。

やっぱオレってアクセス厨?

「論」に耐えられなくなると印象操作に逃げるのな。

何が言いたいか分からない?一番最初の時に、「晒しあげる」意図は書いたつもりだが。

珍奇な応援をするモーヲタを批判するあなたと、まあ、同じ。珍奇な社会批評を披露するモーヲタを同じモーヲタとして観ていられなかったと言うだけのこと。

お勉強

出かける前の頭の体操。もしくは訪問者の中の中学生レベルの人(いるかどうかは知らない)への学習支援。

社会法規・通念によって規定された人権が及ぶ範囲の外にまで当たり前に人権論が及ぶと考える傲慢さを指摘している。

さて、問題です。この引用文には「人権」概念に対する途方もない無知が表現されていますが、それはどの部分でしょう。現在の政治状況を踏まえて、具体的に指摘してください。

はい。簡単ですね。

「社会法規・通念によって規定された人権」。

アホですね。別に「人権至上主義者」(レッテル張りがお好きなようで)でなくても、人権が社会法規に先行することなど常識ではないか。それは別に政治的立場の問題ではない。単に「人権」と「社会法規」が持つ概念レベルの違いからくることだ。

人権の具体化レベルに憲法があって、それのさらに具体化として一般法規があるのだよ。中学生でも知っていることだわな。それでも分からないようなら、今の政治的話題をネタに考えてみればよい。

北朝鮮問題。TKは「人権至上主義」なるものを「左」と印象づけたがっているようだが、ここで「人権」という言葉を飛び交わしているのは「左」ではないよね。一応確認。

北朝鮮は自国の法規に則って、「政治犯」を収容所送りにしたりしているわけだよね。もちろん人権が社会法規によって規定されるのならば、北朝鮮は人権を尊重する国である、と内外に主張できるわけだ。

今時中学生でもこんな詐術に引っかからないわな。と言うわけで、中学生の方、冒頭であなた方を冒涜して申し訳ございませんでした。

FireFox情報

FireFox 1.5

メモリ食いは相変わらずだが、多少動作が速くなった、かな?

拡張機能やテーマも次第に出そろってきた。

私が入れている拡張機能

Tabbrowser Preferences

SessionSavor

LastTab

いずれも「ツール」→「拡張機能」→「新しい拡張機能を入手」から。

ついでに私の常用テーマ。

Opera 7 Standard

ブルーライトノヴァより。

ストレス解消法

えだは

何だ、結局己の思想の内実をろくに示しもしないで(ないだけだが)、社会通念などというそれこそ空疎な、つまり自分に都合の良い意味を勝手に込められる言葉を持ち出して、逃げ出すのか。そういえば前にもやっていたな。自分とは違う応援をするモーヲタを非難して、社会通念に反する応援をするからモーニング娘。は凋落したなどと珍説を披露していたっけ。おまえの言う社会通念って何だ?おまえ自身の言葉できちんと言語化してみろよ。

せめてこの人物に呉智英程度の覚悟があって、「人権」を相対化しようという意志の欠片でもあれば、まだ救えるのだが、自身には思想と呼べるものも何もなく、右・左から自由だなどと聞きかじりの言葉をちりばめて何か言った気になる。もちろん右からも左からも自由だろう。左翼にも右翼にも思想と呼べるものはあるが、この人物の書き散らす言葉には最初から思想などというものは存在していないからだ。

それからどうでも良いが、よく分からないので一応聞いておこう。聞いてもはぐらかされるだけだろうが。

今回はそれが抵触するかどうかの境界線上の問題。社会法規・通念によって規定された人権が及ぶ範囲の外にまで当たり前に人権論が及ぶと考える傲慢さを指摘している。

「境界線上」なのか「範囲の外」なのか、はっきりしてくれ。

作文教室

おもしろいのでもう少し相手にしよう。えだは

この人の「選択」の定義がよくわからない。左からか右からかじゃないと言及しちゃいけないと言うのかな? 右だ左だってレッテルから逃れたら今度は「選択しない人」というレッテルかぁ;

選択といわれると「右」とか「左」の政治的選択しか頭に浮かばないとは。社会科学教育の質の低下をまざまざと見せつけられる思いだ。

「伝統」と言ってもそれらはその時代の人々が再生産することを選択しつづけるという反復の結果なんだよね。もちろんその選択は意識的なものとは限らない。しかし意識的であれ、無意識的であれ、それらはその時代がその存続を選択したものだ。それはやはり意識的な選択とは限らない新たな社会制度の創出および受容と、原理レベルで等価なのだ。その上で、ある社会状況において二つのものが抵触した際にいずれを選択するか、そこに個々の人々そして社会の責任が発生する。ここまでは社会科学のイロハだよね。

今回の場合、右とか左とかそんな安直な切り口に逃げ込む前に、己の発言自体を読み返せ。「伝統」と「人権」とが対立する状況を自身で設定して、そこで「伝統」を*選択*し、「人権」に対して優位な位置に置こうとしているではないか。それに対して批判されるや、自分は右からも左からも自由だ、などと話をねじ曲げてアホな泣き言を言う。それとも

二千年続いてる伝統に対して、「人権」なんて発明してから200年にも満たない概念を振りかざして

は両者を等価なものだと表現しているとでも言いたいのかね?

ものを書くというのは何かの価値を選択し、それを表明することを否応なしに含み込む。自分の書いたものによって何が選択され、何が切り捨てられたのか、それに対して発言者は結果責任を負う。もちろん言論の自由というのもあるから、責任なんて負いたくない、と発言するのは勝手だがね。

この人物、変にレトリカルな表現を操る術だけはあるからだまされる人がいるようだが、そうして自身の発言の印象を少しずつずらして、論点をはぐらかそうとする。例えば

別に一方的に伝統が人権より優位にあると言っているわけではない(強調引用者)

なんて逃げをうっているけれど、それだけを表現するために「200年にも満たない」などと言う表現を用いたわけではあるまい。そしてその表現効果はまさに読者にある価値選択、主張を伝達しているのだ。

一部だけを取り上げて云々などと泣き言も言ってみせているが、それを取り上げられて困るぐらいなら、最初から書かなければよいのだ。そうした発言に対する無責任な態度を問題にしているのであって、逐一批判に「対応」したからといってその責任を負えるわけではない。自身の発言を引き受けずに、レトリックで逃げていては何の意味もない。

兆しの季節

ものが壊れる時期、というのが何となくあって、先日2001年ぐらいに買った液晶モニタが他界したと思ったら、2003年に買ったThinkPadT40が非常にやばい状態だ。ファンの調子が悪いようで、ファンが回り出すとちょっとあり得ないぐらいの騒音をまき散らす。分解してみてみたが、手出しできなかった。実質これがメインマシンなので、壊れると非常に困る。愛ちゅんもといiTunesもT40に入れているし、DVDを見るのもこれ。ハロプロヲタ活動が出来なくなるではないか。

というのは冗談でもないが、それはそれとして、仕事上もちょっと困る。ハードディスクがやられそうと言うわけではないので、致命傷ではないが、Let's Note R3では仕事にならない。

実はソフト上の問題だった、なんてことはないかしらと思っていろいろいじってみたが、そんなはずもなく、ただ無駄に一日を過ごす。