重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

(たとえばモーニング娘。とアルチュセールを*同時に*語る、ということ)

日々思いついたいろいろな話を無責任に書きなぐるモノローグ

ラブリー天皇

女性天皇容認への動きが加速中。

元々は男の子がなかなか生まれない中、「渋々」始まった議論であったろうに、思いの外、議論が進行している。男系優先ではなく、第一子を優先する方向に議論が進んでいる。未だ「長男」「長女」という言い方が一般的な日本においては、くだらないようでもそれなりにラディカルな議論というべきだ。

それ故にそうした議論の方向性に危機感を覚える人が出てくるのもやむを得ない。しかしその中にあまりにファンキーでラブリーな主張があったので、備忘録代わりに書き留めておく。

曰く、「これまで先人たちが築いてきた男系優先という天皇家の伝統を、現在の我々が勝手に覆して良いのか」。どこぞの教授先生の言。

いやはや、久々に笑わせていただきました。「先人」たちも天皇制なんてもの、その場その場で常にいじくってきたではないか。だいたい明治期にあれだけ「伝統」をぶっつぶしておいて、それ以上何を守れ、というのか。そもそも現在の我々のための制度を現在の我々が決めなくて誰に決めてもらうのか。突っ込みどころ満載で、おもしろすぎる。

少年法と死刑

週刊新潮、またまた少年犯罪に「一石を投じる」。何石投じたら気が済むのか、よくわからない。ともあれ、死刑判決が下った少年被告三名の写真と実名を公表。

ただ、改めて新潮に教えられることでもないが、そこでいわれている主張自体には、それなりの論理は含まれている。曰く「死刑判決が下った被告人の実名を公表しないことに意味があるのか」。

新潮誌の主張の力点はもちろん、死刑判決が下るほどの重罪人などに守ってやるべき人権などない、というものである。しかしそうした感情的な部分を取り払って、その主張の骨を取り出せば、「死刑」という刑罰と「実名非公開」という「人権尊重」との齟齬、不釣り合いを問題にしていると読むことも出来る。そしてそれはいかにも滑稽なものだ。

「少年法」の精神に照らして実名非公開という原則はとてもよく理解できる。心身共に未成熟な段階で犯した犯罪は更正させることが可能であり、また更正させて社会復帰させるのが大人社会の責務である、という原則に立てば、実名など公表しない方がよい。しかしそれならば「死刑」はどうなのだ?確かに裁判所はいろいろ注釈をつける。少年であることを考慮してもなお事件の重大性、残虐性などを鑑みれば、云々。しかしそうして、完全に少年の未来を奪うことを決しながら、なお実名は非公開、刑罰によって命を奪ってなお少年の未来の何を守ろうというのか。

確かに法律というものは「建前」こそが重要なのであって、実質的に無意味だから守らなくて良い、というものではない。しかしこの齟齬、憲法九条と自衛隊法の存在以上に破綻してはいまいか。死刑制度自体の議論とは別に、少年への死刑判決、少年の定義とは何か、何歳までを「少年」とするのか、そして少年と定義されたものへの刑罰はいかなる原則でなされるべきものなのか、少年法の精神はいかなるものか、改めて考えてみる必要があるように思う。

その際、改めて付け加えておくべきことは、「遺族感情」というのはこうした議論の一つの要素としては重要とは言えても、それが第一義に来てはならない、ということだ。それをはき違えた議論があまりに横行している。「遺族感情」を第一義に捉えて刑罰を考えることは、刑法をいわば「ハンムラビ法典」のレベルに貶めることだ。こうした議論に欠落しているのは、近代国家成立の原則、その歴史性への視線だ。

さび付いたセンサー

金曜日午前中は看護学校。

午後からの会議資料作成に時間を取られて、授業準備がまともに出来ない。やや苦し紛れに、これまでとは趣向を変えて、学生に文章を書かせる。多くの学生、文句たらたら、でも文字で書くというトレーニングをしないと、人間論理的に物事を考えられなくなる、とか何とか説教がましいことを言って、納得させる。実際、文章を書く機会がどんどん失われ、看護学校に限らず、大学・社会人をあわせて、箇条書きみたいな資料は作成できても、文章力を要するものはまともに書けなくなって来ている、という印象を持っている。それなりに教育的な効果を期待してはいるのだ。

書かせたレポートを読んでみたところ、意外や意外、想像していたよりもずっと出来が良くて驚く。そういえばそれまでは課題を出して、班ごとに討議した結果を口頭で発表させていたのだが、その発表も不思議に出来が良かった。私の期待値が下がりすぎているのか、学生の質がなぜか今年は高いのか。授業態度は必ずしもよろしくない(授業中にトイレなどで席を立つもの毎回3,4人、など)のだが、成果物は意外にしっかりしている。

授業終了後、3名の学生がいろいろ質問に来た。なんでも大学への編入を考えているとかで、小論文対策などどうしたらよいかを聞いてくる。何だ、熱心じゃないか。こういう前向きな質問は実に久々。己の普段の仕事のくだらなさにかまけて、こうした熱意を感じ取るセンサーが鈍っていたということか。

無限後退

一仕事終了。

木曜日を徹夜して、金曜日の会議に間に合わせ、最後の微調整が宿題。

土曜日は木曜微分の睡眠を取り戻すべく、一日16時間睡眠、今日ようやく最終原稿提出。先週月曜日から行き始めた仕事の第一段階。

ちょっと一息ついたところで、このブログに使っているスクリプトを微修正。「過去の話題」に日付ごとに項目が出るのを抑制、さらに「最近の投稿一覧」をはてな風に「最近のコメント」となるようにプログラムをいじる。こうしたちょっとした修正が思いのままに出来るのが自前でスクリプトを設置した強み。一からプログラムを書く余裕はなかなかないので、既存のプログラムの修正でリハビリ。

一年ほど前はプログラミングに時間を取られて、思想・哲学のリハビリを画策したものだが、今は思想・哲学などどこ行ったっけ?、よくわからない仕事に忙殺されてプログラミングのリハビリを要する。無限後退の蟻地獄にはまったようだ。

私が王様だ

私が「朝礼」なるものをいやがるのは、単に一般的な「形式主義・儀礼主義」に対する嫌悪だけではない。私の行動性向に関わることだ。

テレビ版の「いま、会いに行きます」(映画版は見ていないので知らない)の主人公の父親と似た感じなのかも知れない。己の行動規範を他者に乱されると駄目なのだ。好き嫌いの問題ではなく、まともに行動が出来なくなる。もちろん私は別に倒れるとかそういうことではないし、また己の行動規範というのが、一度決めたら変えられないとかそういうのではなく、単に逐一私が決めればそれでよいのだから、だいぶん柔軟には対応できるのだから、程度はずいぶん違う。

朝礼だけではない。授業前の「起立・礼」もよろしくない。もちろん大学でそんなものはない。問題は看護学校だ。学生の当番が号令を勝手に掛ける。もちろん学校でそういう決まりになっているのだ。止めて欲しいと思う。授業は、私がホストなのだ。授業の開始から終了まで、私が仕切らなくては授業が出来ない。学生が号令を掛け、「着席」の声の元、勝手にこっちにボールを投げられても、私は受け取れない。どう授業を開始して良いのか、いつもとまどう。改めて「おはようございます」と重複した挨拶をし、ようやく授業に入れる。

ITは道具ではなくて、金のネタだ

昨日は新しい仕事先に行ってきた。

前の取引先が、小泉構造改革の成果により、見事に精算されてから、初めて仕事先にデスクが用意される。一応言っておくと、その精算に恨みを持って小泉を叩いているのではない。むしろそれ自体は小泉構造改革とやらの輝かしい成果と皮肉でなく大まじめに理解している。そのぐらいでたらめな組織であった。小泉のやっていることは口先だけのパフォーマンスではなく、確かに成果を上げてはいるのだと実感したというのが正直なところ。

新しい仕事先は完全に民間。だけれど少し補助金ねらいの事業もやっていて、そこに私も関わる。なんだかんだ「お上」から離れられない私。

朝礼から始まる。まあ、一般的にはあんなものか。前のつぶれた仕事先なんて9時始業のくせに9時に電話が鳴っていても誰も出ない、よく見ると私しかいない、とかいうことがあったりしたが、そんなでたらめを起こさない一つの手段では確かにある。フレックスタイムなんて小じゃれたことを言うような組織でもない。その辺は、まあ、ある意味まともな組織と言うべきかも知れないが、仕事自体は、予想していたとおり、あるいはそれ以上に、でたらめなところだった。

これまでの仕事の資料はどこにまとまってあるの?と聞いても出てこない。これまでメールでやりとりしていたものがすべてです、などと曰う。メールで飛び交っていた添付ファイルがすべて、ってあなた、外部の人間が思いつきでいろいろ作成していた資料を、その更新状況などを含めて整理・保管するのが内部の人間の仕事というものではないのか?一切合切その調子でデータを蓄積して、使い回そうという発想がなく、人ごと、作業ごとにいちいち手作業でつじつま合わせをする。もちろん横の連携薄く、仕事が遅い。これでIT人材開発を行う会社だ(と言っても要するにパソコンスクール)というのだから、うんざりする。

猿の惑星

小泉が靖国参拝したというニュース。

物々しい服装、特別待遇ではなく、「一般人」としての「参拝」形式、大阪高裁判決も無駄ではなかったということだ。中韓の反発は当然のこと、それがかれらにとって国内外で国益にかなうことだ。感情的なようでいて、そうではない。感情的な振りをしているだけだ。

それぐらいの感想で、私個人はそれほど頭にくる、とかそういう感じではない。小泉が日本の「国益」を損なうのは毎度のことだし、彼が振りではなく、感情で動くのもいつものことだ。「私人」というなら公用車は使わず、秘書官も連れて行くなよ、それこそ定義からして「公私混同」だろうと思うが、今更改めて指摘するほどのことでもない。

たんにぼんやりとおもいだすのは、かつて正月に江戸城詣でをする人々をさして、浅田彰が「土人の群れ」と言ったことがあったことだ。それを借りて言うなら、靖国参拝をするものたちはまさに「猿の群れ」ということだ。そうなのだ、民主主義日本は小選挙区比例代表制という選挙制度によって杉村とかいう豚ならぬ猿を衆院議員に当選させたと思っていたが、その頭領が猿だったのだ。

軟弱非国民

今日はろくでもない日だった。

朝、降りるべき駅を二つも乗り過ごした。早い目に家を出たから間に合ったが、ぎりぎりだったら完全に遅刻だった。

授業は何とかこなし、教室の鍵をかけ、バスでJRの駅に行く。JRの改札を通って、帰りの電車を待っているときにはたと気づく。背広を着ていない。

そうなのだ。教室が扱ったので背広を脱いで、机の上に置いてきた。次にくるのは一週間後なので、そのままにはしておけない。大慌てで取りに戻る。JRは改札をそのまま通してくれた。しかし往復のバス代はいかんともしがたい。420円。おまけに結局本来帰れる時間と比べて80分のロス。疲れ果てる。

どうも新しい仕事が頭に張り付いているのだ。もちろん仕事はしなければならない。ただしこれまではほとんど業務委託という形で仕事をしてきた。つまりやるべき作業を納品すればそれでOK。作業は家でやればよい。授業といえども、その時間拘束はされているが、全部私が仕切ってやればすむこと、実質「一国一城の主」だ。

そういう仕事なら、割と負担なくできるのだが、新しい仕事はその組織の中にはいることになる。おまけにその組織、「朝礼」なんてものがあるらしい。それを聞いて、疲れ3倍増。

ずっと話自体はあったのだが、組織の中にはいる、というのが嫌で逃げ続けていた。それで外部のアドバイザーという形で関わってきたのだが、いよいよ関わっていたある事業がせっぱ詰まって来た。このままでは間に合わない、という段階になって、「何とかしろ」と依頼が来た。いろいろしっかり外堀が埋められていた。何で私なんだと思うが、どうもそこの社長が世話好きというかお節介な人間で、私の状況を見て、「あいつにきちんと仕事をさせろ」とか何かそんなことになったらしい。まったく。

一応その事業のある部門のチーフと言うことで招かれた形だが、その事業、もう形は決まってしまっていて、単に言ってしまえば単純作業のようなものが遅れているだけなのだ。チーフと言って何が出来るわけでもない。

「週に何回来られる?何回来てくれてもいいよ」とか何とか言われたが、「あ、とりあえず週に一回で、必要があれば随時」とあわてて返事する。週に三回行きます、とか言えばそれなりの収入になるかも知れないが、お金を受け取る前に、たぶん精神に破綻を来す。

過労状態

新しい仕事が一つ入った。

零細自営業者にとって仕事が入る、というのはありがたいことだ、本来は。

しかしそれで週休四日制に突入、とても体力が持ちそうもない。

世間一般に人間がなぜかくも体力があるのか、私には理解できない。逆に世間の人間は私を理解できない。

「今どれぐらい仕事入っているの?え、週二日?だったらこのぐらい出来るよね」。断り切れなかった。断れば角が立つ。「週八日働いています」と言いたかったが、そういう嘘がつける状況でもなかった。

今にして思えば私のことを理解してくれたのは中学校の時の担任だけだった。私の顔を見るとしょっちゅう言っていた。

「おまえは体力だけが心配や」。

埋葬した過去

今から二年前に、今メインで使っているノートPCを購入した。データの大半は直ちに移行したが、一部はそのまま置いておいた。その後、それ以前に使っていたノートPCが程なくして起動しなくなった。移行し損ねたデータは、その存在自体を忘れてしまっていた。

約二年経った今日、突然あるデータを見たくなった。このサイトの、最初に作った頃のページがどのようなものであったかを見たくなったのだ。確か保存してあったはず、と複数台のPCのハードディスクを漁るが、全く出てこない。そのとき思い出した。もう起動しなくなったあのノートPCの中にあったのだ。

IBMのノートなのでハードディスクは簡単に取り出せる。それを早速新しいPCに接続、このままではデバイスがどうのと言ってきて、起動しないので、Windowsを再インストールする。当然ほとんどのデバイスを認識しないので、ネットワークにもつながらない。さて、中のデータをどうやって救出しようか、などと考えてしまうあたり、思考は二年前どころか五年以上も前にさかのぼっているようだ。もちろんUSBメモリを使えばあっという間だ。

そうなると気持ちに余裕が出てきて、別のPCでネットワークカードのドライバを落としてきて、USBメモリでノートPCに転送。ネットワークにつなげてから、環境整備して、古いハードディスク上に今のノートPC用の環境を作ってしまう。そうしてじっくりハードディスクの中身を確認する。

移行し損ねたデータは、確かに必要のないものばかりであった。しかしそれ以降「封印」されたデータ群は、私の当時の状況をいろいろ思い出させてくれる。懐かしいような、いたたまれないような、そんな気持ちが溢れてくる。特に生活環境が激変したというわけでもないのに、なにやら全然別の世界に生きていたような気がする。ハード的なものはほとんど何も変わってはいない。しかるに世界が変わる。私の世界の一貫性を支えていたものが何だったのか。それをおぼろげに思い出し、胸が痛くなる。

壊れてしまった携帯電話

まあ それでいい

思い出なら この頭の

中にあるから

「39 刑法第三十九条」

週末は自宅で映画を見た。

GYAOで無料で放送されていた「39 刑法第三十九条」。

鈴木京香と堤真一、芸達者な二人が精神鑑定人と殺人者を演じる。テーマは題名通り、刑法第三十九条「心神喪失者ノ行為ハ之ヲ罰セス」。

堤真一演じる殺人犯の精神の動きが実に丁寧に巧みに描かれている。異常な執念を見せて、完璧に犯罪計画を遂行していく。それを法廷で追求していくのが、彼に感情転移を起こした精神鑑定人、というとても微妙な心理的バランスを保って進行していく。

犯人が誰かは最初からわかっており、犯行の動機もかなり早い段階で明らかになるのだが、最後どのように被告人の嘘を暴くのか、というゲーム的な緊張感が続き、飽きない。

細かく見れば結構ご都合主義的なところとかはあるのだけれど、主役二人の他に刑事役の岸部一徳や弁護人樹木希林、検察官の江守徹らの演技の巧みさもあって、何となくだまされる。

ということで、娯楽映画としてかなり楽しめました。映画作り手の意図はわからないが、「刑法第三十九条」の是非を問う、というようなノリでは見ないのが吉。あくまでも豪華俳優を連ねることで成立する心理サスペンスドラマ。

自己紹介

インターネットが広まりだした頃、ネット上の掲示板と言えば、ネットニュースであった。そしてネットニュースの世界では、投稿者は自分の本名、所属、連絡先などを公開するのが通例であった。もちろんそのころに公開されていたウェブサイトにおいても同じである。作成者が何者かは赤裸々にかかれているのが一般的であった。

ネットが一般層に広がり、ネットニュースよりもウェブベースの掲示板が隆盛しだした頃から、インターネットは匿名の場になった。そうして私たちが得たものは何か。もちろん得られる情報の量は比較にならないほど増えた。そして利用する際の「自由」も。

本当だろうか。匿名が一般的となったこのネットの世界でネット利用の「自由」は拡大したのだろうか。むしろ逆のように思えることさえある。「リンクフリー」。本来当たり前の話だ。それを拒絶する変なサイトが増えた。リンクされたくないのなら公開するな、そんな常識が通用しない。

匿名の世界の変な倫理観。一番正義やら倫理やらが叫ばれるのが、2chという「匿名性」を売り物にする掲示板だ。ネット創世記にあったラディカルな理念が少しずつむしばまれているのを感じる。

と言うわけで、初心に戻り、改めて自己紹介。非常勤先の大学授業用ページに載せたものをそのまま再掲。

なまえはたの
年齢2005年10月現在23歳(16進数)
専攻教育社会学・社会思想
研究テーマ
インターネットによる言説構造の変容
世界と無媒介に向き合うシニカルな「私」とナショナリズムの結合
関心領域いわゆる現代「大衆」文化が主要な関心領域です。

インターネットの掲示板での言説状況を観察したり、テレビドラマを鑑賞したり、モーニング娘。の物語性に興味を持ったり、などかなりベタな「文化」を好みます。

好きな思想家はマルクスとアルチュセール。気になるモーニング娘。(元)メンバーは安倍なつみと高橋愛。

情報処理関係IT関連企業の新人研修・人材評価コンサルタントなど。また企業側からの大学における情報教育のあり方に関する提案活動にも関与中。

移転

休止していた「重層的非決定」をブログシステムを用いて復活します。

「はてな」システムもとても気に入っていたのですが、キーワードから飛んでくる読者のことを考えると、私本来のスタンスで文章を書くことが必ずしも良いことではない、と思うに至り、ひっそりと個人サイトで私が書きたいことを書く場を設けることにしました。

「はてな」の方の「重層的非決定?」の読者で、「nacci」以外のカテゴリーを読んでいてくださった方は、是非こちらの方にブックマークの変更をお願いいたします。向こうは完全に「安倍なつみファンサイト」のノリの更新をすることになります。しかしそれは決して妥協の産物ではありません。むしろ一途に「ファン」を「する」ということ、そこにこそ文化的なユートピアへの可能性が開かれるのではないか、というこのサイトで考えていきたいことのいわば実践編です。

二つのサイトを上手く更新していけるのか、など不安はありますが、とりあえずやってみようと言うことで、こちらの更新頻度は週一回程度になるかも知れませんが、よろしければまったりとおつきあいのほどを。