重層的非決定

モーニング娘。

L. Althusser

(たとえばモーニング娘。とアルチュセールを*同時に*語る、ということ)

日々思いついたいろいろな話を無責任に書きなぐるモノローグ

偏向歴史教育

今更ながら私は恐ろしい捏造に今までだまされていたことに気づかされた。歴史の真実を覆い隠し、ありもしない事件を実在していたかのごとく言い張るその策謀、嘘も百回言えば何とやらということを実感させられた。

この事実を一人でも多くの人に是非知ってもらいたい。そして今までの歴史教育のおぞましさを改めて感じ取ってもらいたい。

実はなかった!関ヶ原の合戦 おそるべき東軍のプロパガンダ

追悼

戦後守られ続けてきた「理念」の死んだ日。

「いじめ」は発見されにくいものなのだ

一般的に言って、「ものを言う人」は他人の責任を追及するのが好きなものだ。もちろん責任の所在を曖昧にするのはよろしくない。しかし「追求」するというのは、だんだんと焦点が絞られていくものだろうに、逆にだんだんと拡散してしまう「追求」というものがある。焦点も絞られないまま、とりあえず「責任はお前にもあるよな」と言われれば、「ない」とも言えず、取り方も分からないまま責任を負わされてしまう。それは構造的に魔女狩り=いじめでしかない。「お前には何かしら欠陥がある」、それを否定できるものなど誰もいない。

今語られている「いじめ」問題も同じ構造を呈している。「いじめ」を防止できなかった教師が悪い、それはそうだ。自分の担当する生徒がいじめを苦に自殺したとして、その責を感じない教師は、一般的に言って、いない。そして追求が続く。「なぜ対処できなかったのか」。(気づかなかった)。「なぜ気づかなかった」!

これもまた「いじめ」一般の問題として、「いじめ」は気づかれないものなのだ。逆に言えば、発見される「いじめ」は「いじめ」全体のごく表層的な一部にすぎない。それは単に「最近のいじめは陰湿化している」という現象的なものではない。もっと「いじめ」自体の持つ構造的な問題だ。

「いじめ」とは個別嫌がらせでもなければ、個別暴力事件でもない。それも含み込むかも知れないもっと別のものだ。結論を言ってしまえば、「いじめ」とは個別にやりとりされるメッセージ(直接的暴力もメッセージの一形態だ)総体から発せられるメタメッセージの伝達である。観察者は(教師も一般的に言ってまず持って観察者として立ち現れる)メッセージそれ自体は観察し得ても(もちろん「陰湿化している」という意味では、これすら困難なのだが)、メタメッセージを見ることは出来ない。被害者は日々直接感じさせられれているこのメタメッセージを、観察者はただ、わずかに観察できたメッセージの破片からその痕跡を読み取り、再構成しうるだけだ。

それは不可能なことではないかも知れない。しかし100%成功するはずのものであるなどと言えるようなものでもない。

明確に気づくべき「いじめ」を黙殺し、対処し得たいじめを放置した、というのはもとより批判されるべきである、しかし何を持って「気づくべき」であり、何を持って「対処し得た」と言えるのか、その条件についてはいまだ私たちはほとんど何も知らないのだ。

「いじめ」問題を語るときに

これは一般的に経験的に言えることとして、「自殺」というのは連鎖反応を引き起こすものだ。そうであればこそ、「自殺」について語ることにはことのほか慎重であらねばならない。「いじめ→悲劇→自殺」というストーリーは、既存の悲劇を語るだけでなく、今いじめに関わっている者に現実的効果をもたらす可能性を持った言説として確かに作用してしまうのだ。もちろん「いじめに関わっている者」には被害者のみならず、加害者も含まれる。

「自殺」の語りは確かにいじめの悲惨さを語るに有効ではある、それにより加害者を押しとどめる効果を持つかも知れない、しかし、一方で例えばネットでのバッシング相手に対して投げかけられる(ネット上でのバッシングはいじめの一変種である)「死ねばいいのに」といったことばを生み出しもする。「自殺」を持っていじめの深刻さを語る者はきっと善意から、その悲惨さを共有せんとしてそうするのだろう。しかし、その善意の言葉が横領されてしまう可能性を忘れるべきではない。

被害者にとって、己の悲劇を訴える*唯一絶対*の手段として、一方で加害者にとっていじめの最終目標として、「自殺」が設定されてしまう、この「いじめ」、「自殺」の言葉の結びつきは断じて断ち切らなければならない。

ターム:いじめ 言説 アーティキュレーション(接合・縫合)

「教育」問題ではない

最近、必修科目の履修漏れに関するニュースが喧しい。なにやら重大な問題であるかのごとく喧伝され、「責任者」の追求がなされ、それとは逆に政府与党は履修漏れの学生を「救済」するだとかなんだとか言い始めたりして、政治問題化すらしそうな勢いだ。

「たかが」学習指導要領違反なだけでしょ?学習指導要領の法的根拠だって議論の余地がある、ましてや学習指導要領自体の内容についてなんて議論百出だ。「教育」なるものの正統性に関わるかのごとく語られているが、学習指導要領なんて、言ってしまえば文部科学省が(それなりの法的根拠は踏まえているとは言え)勝手に決めたものであって、「教育」一般の正統性に関わると言うほどたいそうなものではない。せいぜい公立学校だったら、まあ学習指導要領は遵守しておかないと、そりゃ、「上」からいろいろ言われるだろうな、という程度のことだ。基本的に責任を負わされる校長は気の毒なことではあるが。

この問題を持って、そもそも学習指導要領とは何か、その内容の正当性はいかほどのものか、という議論に行かず、単に「規則を守らないのはけしからん」という程度の表層的な議論をしたところで(その議論自体は、それはそうだ、というしかないが)、「教育」を語ったことには一切ならない。